(コリント二13:11-13, 民数記11:24-30)
主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがた一同と共にありますように。(コリント二13:13)
◆コリント教会
コリント書には、印象的な言葉があります。私にとり、第一コリント13章は、決定的な意味をもつものとなりました。自分の愛の無さを思い知らされ、ぶちのめされたまま、ずるずるとイエス・キリストの前に引きずられて行ったからです。しかし、パウロはこのコリント教会には、露骨に怒りをぶつけています。一癖も二癖もあるコリント教会に、パウロは手を焼いていたのです。
手紙は、社交辞令などお構いなしに、どぎつい攻撃の言葉で溢れています。時に皮肉も交えることがありますが、概ね直情的です。すでに第一の手紙で、相当に教会の人々のやんちゃぶりに、怒り心頭に発すという様子を見せたパウロでしたが、その後も関係が改善されたようには見えません。第二の手紙を送りつけます。そこには、脅すような言葉もあり、ますます厳しい態度でパウロはコリント教会に対して吠えるのでした。
さらに研究者たちは、この第二コリント書を曰く付きの手紙だと見ています。些か分裂気味の様相を見せている点を説明するためには、もともと複数あった手紙を、ひとつの手紙であるかのように編集した、という仮説が有効だ、と言うのです。それで完全にバラバラに繋ぎ直した新約聖書も、ひとつ出回っています。もし複数の手紙が背景にあったとすると、パウロは何度も何度もコリント教会に、きつい手紙を送っていたことになります。
分裂はするわ、不道徳なことがまかり通るわ、パウロを小馬鹿にするわ、パウロからすれば、この都会の教会は、目の上の瘤のようにも見えたことでしょう。けれども、パウロが拓いた教会らしいですから、見捨てることもできないでいるのです。
パウロは吐き出します。鬱憤を晴らすように、手紙をぶつけます。パウロとて、それが気持ちよいとは思えません。ですから、なんとか手紙の結びくらいは、スマートに言い渡したかったのではないでしょうか。かくして第二コリント書の結びには、祈りが載せられます。
祈りは、神との息の交換です。呪いをかけることはできないし、泣き言を並べるつもりもありません。美しい祈りが添えられます。そしてその祈りは、いまなお私たちの教会の礼拝の終わりがけに、祝福の祈りとして繰り返されます。今日お開きした、コリントの信徒への手紙二の13章です。
11:終わりに、きょうだいたち、喜びなさい。初心に帰りなさい。励まし合いなさい。思いを一つにし、平和に過ごしなさい。そうすれば、愛と平和の神があなたがたと共にいてくださいます。
12:聖なる口づけをもって、互いに挨拶を交わしなさい。すべての聖なる者たちがあなたがたによろしくと言っています。
13:主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがた一同と共にありますように。
◆聖霊の交わり
美しい結びです。パウロの言葉を、短く切って受け止めてみましょう。つまり、こうです。喜べ。初心に帰れ。励まし合え。思いを一つにせよ。平和に過ごせ。――一つひとつ区切って噛みしめたいものです。
さらに、「聖なる口づけ」による「挨拶」ですが、当時の習慣のなせる業については、私はよく分からない、としか言えません。キリストにある者たちが仲良くしている風景を思い浮かべることに留めます。
しかし、最後の締め括りには、よく目を落としましょう。とびきり美しいフレーズです。
13:主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがた一同と共にありますように。
ここには、「三位一体」の教義を重ねる読み方がなされることがあります。神には、「父・子・聖霊」という三つの「位格」があり、それぞれ呼び方を異とするにしても、別々の神ではなく「一体」である、とする教義です。
でも、教義がどうの、という話をいましようとは思いません。まず「主イエス・キリストの恵み」に注目します。キリスト者は、主イエス・キリストを見つめればよいのです。そこから流れ来る恵みから目を逸らさないようにしたいだけです。
次に、「神の愛」が見えます。ヨハネ伝などのヨハネという名を冠するグループは、特にこの「愛」を大きく取り上げていましたが、最初に申しましたように、パウロも美しい「愛」について書いています。それは、信仰と希望とを並べてみても、そのうちで最も大いなるものだと絶賛していました。
最後に、「聖霊の交わり」について思いを巡らせます。使徒たちの立場ならいざ知らず、私たちには確かに、イエス・キリストと交わる、というのは難しそうです。神との交わりはどうでしょう。「祈り」という場は、神との交わりである、と捉えることはできるかと思います。しかし、より実感できるののは、霊による交わりだ、とは言えそうです。霊は自由です。見えない風のようなものです。風は空気の動きであり、それにより心が沸き立つこともあれば、慰められることもあります。風は、神の息のようです。人は、死ぬときに息を引き取る、と言いますが、霊がその体から離れるのだ、と。と古来見られていました。
神からの霊を、私たちは聖霊と呼びます。「聖」とはもちろん「きよい」意味をももちますが、「特別に分けられたもの」という意味合いを本来もつ考え方だそうです。特別な、神からの霊。しかしそれは、神ともはや別物ということでもなく、神ご自身と違うものではない、と捉えられました。
この聖霊も含めて、「三位一体」という神学用語が生まれたのですが、この「三位一体」という言葉が聖書の本文にないから、それは無意味だ、と主張するグループもあります。しかし殆どのキリスト教は、彼らに同意しません。ただ、そのグループの人たちが、熱心に聖書を研究しているのは事実であり、そうした熱意そのものには見倣うべきものがあってもよいかもしれません。これは自らへの戒めとして、さしあたり私が思うことにします。
因みに、世間ではこの「三位一体」という言葉が安易に、妙な場面で用いられることがありますが、もっとキリスト教会は、これを正すように発言してよいと思います。浄土真宗はそのように公言して、「他力本願」という言葉を、世間で別の意味に使わせないことに、ほぼ成功しているように見えます。同じことを、キリスト教の側ではしないのは、寛大だからなのでしょうか。
◆ペンテコステ系
教会には、「聖霊に満たされる」という言葉があります。このような表現が好きなのはルカ伝で、四度ほど使われます。最も多く使われるのは使徒言行録で、これはルカ伝の続編と見られていますから、この系統では、非常に当たり前の言い回しでもあるようです。
旧約聖書では、「聖霊」という言い方はありません。それでも、「霊に満たされる」という表現ならば、数例あります。ただ、やはりいまここで話題にしている「聖霊」という形であれば、やはり新約聖書の、ルカ文書だけだ、と言ってもよいかもしれません。
聖霊に満たされる。聖霊充満。そうしたメッセージもありました。ずいぶんと気持ちが高揚するような、強い口調の語りがまくし立てられるようにして流れます。そうして会衆の中に湧き起こるのは、昂揚した感情であるのかもしれません。けれども、それが霊的な感動である、ということも、確かにあると思われます。
こうしたことを強調するグループを、一括りにして「ペンテコステ系」と呼ぶことがあります。先週のペンテコステ礼拝のような、ダイナミックな霊の作用を強調するのです。使徒言行録のようなドラマチックなものであるかどうかは別として、時に礼拝の中で自由に祈ったり、歌ったりします。そのとき、しばしば効果的に音楽が用いられます。音楽は、気持ちを奮い立たせるためにも大変有効です。
オーストラリアを拠点とする、そうした教会並びにバンドが、とても有名です。「ヒルソング」と呼ばれる運動です。もう1983年に始まったといいますから、40年以上も活動し、世界中に感動を起こしています。
そのサウンドは、「ヒルソング・ワーシップ」とも言われています。アメリカのエンターテインメント雑誌「ビルボード」にも度々ランクインしており、オーストラリアではこの20年以上、すべてのアルバムがチャートインしているといいますから、ワーシップ・ソングも普通にヒット曲として世の中に流れていることになります。
英米では、普通の恋愛や友情の歌のような歌詞であっても、キリストを思わせるものとして受け取られる作品が多々あります。サイモンとガーファンクルの「明日に架ける橋」も、いつしかゴスペルの一つとして歌われるようになりました。
ヒルソングのグループには、これまでスキャンダルがないわけではなかったのですが、ペンテコステ派の教会として、その音楽性は高く評価されています。信仰のためであることはもちろんですが、高い音楽性が認められています。私も好きな曲が幾つもありますし、教会で共に歌ったこともあります。訳詩を勝手につけて教会で賛美をしたこともあります。
ペンテコステ系の教会から移って来た方がいて、その方から、賛美の素晴らしさを教えて戴いたことがあります。私は中学の頃から、作詞作曲を趣味としていましたが、キリストを信じるようになってからは、専ら賛美の歌をつくるようになりました。数がある程度まとまったところで、教会のためにその岳父を賛美集として発行して戴いたこともあります。その曲は礼拝の中でも用いられることがありましたし、教会の外で奏することもありました。
そういうときに、聖霊を感じます。もちろん、賛美でなくても、何かをするとき、人と心が通じ合うとき、あるいは独りで祈っているとき、聖霊を覚えることがあるでしょう。聖霊は、様々な形でひとを変え、ひとをつくるのだと思います。
◆日本の新宗教
しかし「聖霊」と聞くと、なんだか怪しいものを感じる人もいるかと思います。実際、ペンテコステ系はキリスト教と違いますよ、と平然と言ってのける人もいます。中には見下すような言い方をする人がいます。とても残念です。救われた体験は様々であるでしょうに、自分の理解できない神の業は偽物だ、と小馬鹿にするのですから。
昔私は教会に行き始めて、「水曜日の祈祷会にも来るといいですよ」というような言い方を聞いて、奇妙な想像をしていました。私の中で「祈祷」という言葉は、いわゆる「加持祈祷」のようなものであるか、何かお祓いのようなものをする様子をイメージさせるものでありました。キリスト教会でもそんなことをするのだろうか、と不思議に思ったのです。
ですから、「霊」という言葉も、「霊的」とか「心霊」とか、あるいはまた「幽霊」とかいうものを連想する人がいるかもしれない、と思ったのです。たとえば日本では、「憑依霊」というものがよく話題になります。いわゆる「狐憑き」と言われるもののことで、何かに取り憑かれたようになり、天からの言葉を語りだす、というようなものです。あるいはまた、突然暴れだす、というようなこともあったでしょう。
記録に残るものでは「おかげ参り」というものが広く知られています。「お伊勢参り」と呼ばれるものは日本の有史以前からあるらしい、との話もありますが、江戸時代に、「おかげ参り」と称して庶民の一大ブームになったことがあるそうです。人々の感情を発散させる機会にもなったようでもあります。特に幕末には「ええじゃないか」と呼ばれる出来事があり、江戸末期の混乱の中で、民衆の鬱憤を晴らす働きもなしたのではないか、と考えられています。
幕末から明治期にかけては、多くの新興宗教が興ったことでも知られています。先ほど申しましたように、何かの霊が憑依して、その「教祖」の口をついて不思議な「お告げ」が次々と出され、その身内が整理して教義とすれば、ひとつの宗教団体が出来上がる、ということです。幕府が弱体化し、外国の脅威が取り巻く中で、近代化に臨む日本の精神的不安定が背景にある、と分析する人もいます。特に女性に、そういう霊的現象が起きることが多かったようにも見えます。その理由云々は、また別の機会に検討しましょう。天からのお告げで神の意志を告げる、ということが、あちこちで起きたといいます。これもまた、政情不安に関係するのかもしれません。
この頃の新興宗教を、宗教学的には「新宗教」として分類することがあります。その後、ここ半世紀くらいの中で、またそうしたブームがあって、たくさんの宗教団体が発生しています。それらは、明治の頃の「新宗教」と区別して、「新新宗教」と呼ばれるようになりました。中には、世間を騒がせた教団もありますし、犯罪に突き進む団体もありました。信教の自由は認められていますが、殺人の自由や詐欺の自由はありません。不安を覚える人の心を操る、マインドコントロール、つまり洗脳ということが問題になったこともあります。本人たちが、世の中から如何にズレているか、自分を認識する回路が消えたとき、恐ろしい暴走が始まることには、気をつけておいた方がよさそうです。
中にはキリスト教系の、つまり聖書を使っているような形で人を信用させる宗教団体もあります。キリスト教会は一般的に、そうした団体からは距離を置いています。けれども、果たしてそれらと本当に違うと言えるのか。同じ穴の貉ではないか。そんなことを省みる必要があるかもしれません。少なくとも、傍目から見れば、キリスト教会というところも、結構怪しい宗教には違いないと思うのです。
◆憑依霊
霊が憑依するような新興宗教を話題にしましたが、聖書の中にも、そのようなことが起こっているように見えることがあります。特に、イスラエルの初期の王であるサウルについては、度々そのようなことが記述されています。
彼らがギブアにやって来ると、預言者の一団に出会った。すると神の霊が彼に激しく降り、サウルは彼らのただ中で預言者のようになった。以前からサウルを知っていた者は皆、彼が預言者たちと一緒になって預言しているのを見て、言い合った。「キシュの息子は一体どうしたのだ。サウルもこの預言者たちの仲間なのか。」(サムエル記上10:10-11)
これを見ると、日本の「狐憑き」や「新興宗教の教祖」とどこが違うのか、区別がつかないような気もします。そのサウルには、悪霊も付きまとっていたというよに書かれています。それを癒やしたのが、ダビデの音楽でした。
サムエルは油の入った角を取り、兄弟たちの真ん中で彼(=ダビデ)に油を注いだ。この日以来、主の霊が激しくダビデに降るようになった。サムエルは立ってラマに帰った。主の霊はサウルから離れて、主からの悪い霊が彼をさいなむようになった。(サムエル記上16:13-14)
神の霊がサウルを襲う度に、ダビデは琴を手にして爪弾いた。するとサウルの霊は休まり、良くなって、悪い霊は彼を離れた。(サムエル記上16:23)
イエスの周りでも、「悪霊」に取り憑かれた人を癒やすということが、幾度もありました。また、ペンテコステの出来事もそうですが、預言と霊とも、親和性が高いように思えます。パウロがコリント教会について、異言のことをしきりに問題にすることがありました。異言と預言の違いを説明する件は、特に有名です。
それに関して、旧約聖書の中に、興味深い記述があったので、今日お開きする旧約聖書の箇所として取り上げました。その場面を、端折りながらいま確認致します。それは、モーセが、主の霊を受けており、自分の上にある霊の一部を取って七十人の長老に分け与えた、と言ったときでした。それで一時的に、預言者のようになったのだ、と記しています。
続いて、メダドが宿営で預言者のようになっている、と書かれています。これにはモーセの後継者となるヨシュアがたまらず、やめろさせてくれと願うのですが、モーセはそれは妬みか、と言い、「主の民すべてが預言者になり、主がご自身の霊を彼らの上に与えてくださればよいと望んでいる」と述べている場面があるのです。
聖書の中には、様々な形で、霊の影響を受ける場面があるものです。
◆カトリック教会
いまでは病気として分類されている症状が、昔は、その原因について生理的な分析をするよりも、悪霊の故だと見なすことが普通だったと思われます。いえ、いまでも、聖書が言うように悪霊のせいで異常な現象が起こっている、と説明することの方が、聖書を聖書として理解し信仰していることになるのかもしれません。
身近なところで、そうした劇的な現象をご存じの方はいますか。私は親類で、不幸が続いた家庭があって、霊能力のある人に視てもらったら、先祖の墓が荒れたままになっているためだと言われ、探してみるとそういうのが見つかった、という話を聞いたことがあります。偶然かもしれません。さすがに、霊が乗り移った様子を目の前で見たことはないのですが。
カトリック教会では、悪霊の憑依については正式に認める見解があるそうです。半世紀余り前に大ヒットした映画「エクソシスト」は、オカルト映画の代表作となりましたが、カトリックの世界では、正式な任務のひとつとてそれがある、といいます。
また、「スピリチュアル」という考え方も、認められた事柄のようです。プロテスタントは各教会ばらばらなので、まとまった見解はありませんが、その点カトリックは、公認かどうかははっきりしていると言えるのでしょう。古くからの著作も、いわばお墨付きで推奨されています。霊的な生活を求めることは、決して蔑視すべきことではありません。
トマス・ア・ケンピスの『キリストにならひて』を、プロテスタント教会の人は殆ど読まないでしょうが、もったいないことです。時代が違うなどと言い訳して手にも取らない人が多いからです。昔の人の「祈り」にすら、一瞥もくれない人が多すぎるような気がしてなりません。イグナチオ・デ・ロヨラの『霊操』は、イエズス会から生まれたものです。霊的な体操という含みで付けられた訳語のタイトルですが、実践的な、霊の演習と言うべきでしょうか。これは益々プロテスタント教会は近寄りません。やはりもったいないと思います。
「マザー・テレサ」はさすがに知られているにしても、「小さき花のテレジア」と聞いても、何も知らないクリスチャンもいるのではないでしょうか。
◆教会と聖霊の交わり
先週、聖霊降臨を覚える、ペンテコステ礼拝を私たちは経験しました。使徒言行録が伝える聖霊の事件は、些か大袈裟に聞こえるかもしれません。だから、あんなことはもう起こらないはずだ、と思う人がいても仕方がありません。旧約聖書の預言者たちの活動も、すでに過去のものであり、イエスが登場して後は、基本的に見られません。
使徒言行録には奇蹟もまだ描かれていますが、その後の「手紙」の時代には、そういう気配が見えなくなります。けれども、霊的な現象がなくなったわけではないと思います。リバイバル(信仰復興)と呼ばれる運動の中では、「癒やし」という奇蹟が度々起きていますし、日本でも半世紀ほど前までは、「癒やしの集会」が盛んだったことがあります。いえ、いまでもそういう名で呼びかける集会は確かにあります。
でも、それとはまた別に、私たちキリスト教会の間で、毎週のように霊的な営みが証しされていると私は見ています。「礼拝」は、「報告」などをも含んでのものですが、その前の終わりがけに、「祝祷」があるかと思います。そこで、このコリント書の言葉で結ばれるということは、あたりまえになされていることだと思います。
13:主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがた一同と共にありますように。
牧師が、会衆を祝福してこの言葉を宣します。説教者は、神の霊の通り管としてそこにいます。説教者が神になるのではありませんが、説教者の話が、人間から出るだけのものではありません。神の霊が外から臨み、説教者は管となって神の言葉を語ります。神の言葉は神の霊を運び、神の霊が会堂に満ちます。
ですから、祝祷の祈りは、神の霊が宣言する言葉です。私たちは、神に祈られています。聖霊がここに来ています。聖霊の交わりが、確かに礼拝の場に実現しています。確かにここにあるのです。昔の話ではありません。特別な伝道者だけが有する特権的能力でもありません。
私たちの間に、聖霊の交わりがもしもなかったら、そもそも教会自体が成り立っていないでしょう。聖霊の交わりがあるからこそ、教会が教会としてここにあるのです。あなたの心にも、何か燃えるような思いが与えられたことがあるでしょう。聖霊が働いていたのです。
パウロを憤らせ、悲しませ、悲しませ、いまの私たちから見ても眉をひそめるような言動を繰り返すコリント教会のために、聖霊の交わりがあるように、とパウロが祈っています。その祈りが神の霊に導かれているというのなら、神の霊がいまここにいる私たちの教会のためにも祈っている、ということは間違いないと思うのです。
神が共にいる。そういう確信のあるところには、必ず聖霊が働いています。たとえ神へ乱暴な口を利いたとしても、聖霊を信じているならば、まだ赦されるものであることを、イエスが言っていたこともありました。聖霊を信じるのです。信頼するのです。その聖霊の働きを信じて、私たちは立ち上がるのです。ここから歩み始めるのです。