ゴミゼロという目標
2026年5月30日

ゴミゼロの日。どこかでこの日に清掃活動を始めたことが、後に、政府が「ごみ減量化推進週間」というものに発展したらしい。
5月30日だから、ゴミゼロ。語呂合わせである。11月22日が「いい夫婦」の日であるのはもはや常識だろうか。歴史の年号にしても、語呂合わせは定番である。ただ、鎌倉幕府成立はもはや1192年ではないし、大化の改新も645年ではないから、お子さんやお孫さんの歴史の学習に、昔の常識で干渉するのはやめた方がいい。
さて、清掃活動の推進が悪いなどとは決して言わないが、その象徴が「ゴミゼロ」という言葉でよいのかどうか、そこに意識を向けたい。つまり、果たしてゴミがゼロになり得るのかどうか、ということである。
ゼロは不可能だろう。可能になると主張できる人は、もちろん主張して戴きたいが、私はゼロにはなれないと考える。もしそれに賛成して戴けるのであれば、「ゴミゼロ」は、不可能な目標を掲げている、ということも認めなければなるまい。
不可能を目標にするならば、何をしてもすべてが、目標非達成の結果に終わることになる。ゴミは出る。目標は永遠に達成されない。それは虚しさを呼ぶ。そして、どうせ達成されないのであれば、自分はゴミを出しても構わない、というお気楽さを正当化することにもなる。
反する行為を正当化するような目標設定は、しない方がいい。
しかし、理想を掲げることには、意味がある。それが不可能であると認識していても、理想の方向を目指すという動機が生まれることがある。
私たちは「平和」を願う。そんなことは無理だ。だが、無理だから掲げないとなると、これまた誰も努力をしなくなる。理想の王国を夢見ることに、意味がないわけではない。
昔のマンガで、時折「禁煙」と半紙に書いて壁に貼っている、というものがあった。当然マンガとしては、それができずに、その誓いを反故にするようなことに展開するのであるが、だからと言って「禁煙」の意志をもつことは無駄だ、としてしまうのは野暮であろう。いいではないか、それが掲げられているならば。
理想は目的であると共に、目標にもなり得る。その理想が実現不可能であるから、理想に反することを当然するべきだ、という論理には、無理が含まれている。いやはや、人間はどちらにしても、「できない」ものらしい。「ゴミゼロ」のように、できない理想を掲げると、それに反する行為を正当化しようとする者が必ず現れる。「平和」のように、理想は実現不可能であるから、平和を壊すことを積極的にしよう、と威勢のいいことを言う者が跋扈する。
待てよ。「平和」の場合、「平和を実現するために戦争をする」ということが、恰も正当であるかのように、強大な国は歴史上常に強弁してきたのではなかったか。それはいまもなおそうであることについては、たぶん誰もが認めなければならないのではないか。
「一匹狼」の者たちが集まって、「一匹狼の会」をつくった。そういうジョークがある。だが、「平和を実現するために戦争をする」では、冗談にもならないように思われる。
さて、本がほんとうに山になっているのは、すぐにはどうしようもないけれども、せめて机の上だけでも、ゴミゼロにするのが私のさしあたりの目標であろうか。