【メッセージ】霊による証人 ペンテコステ礼拝

2026年5月24日

(ゼカリヤ4:1-7, 使徒2:32-33)

武力によらず、権力によらず
わが霊による――万軍の主は言われる。(ゼカリヤ4:6)
 
◆戦争の報道
 
きっと、多くの日本の教会の礼拝での祈りで、「戦争」という単語が毎回のように出てきているに違いないと思います。礼拝に限らず、祈り会や集会の祈りの中で、そして個々人の祈りの中で、「戦争」についての祈りが献げられていることでしょう。それは胸の痛みを伴っています。戦地の人々のこと、逃げ惑う子どもたち、家も仕事もなくした人々の嘆き悲しみ、そしてもちろん殺された人々、傷ついた人々。どうか平和がくるように、と祈りが今日も献げられているのでしょう。
 
日常生活で、戦争のことを、日本人が常に考えているわけではないと思います。しかしニュースを聞けば、可哀想に、という思いが湧いてきます。報道されれば話題にも上りますが、必ずしも毎日報道されているわけではありません。多くの時間、世間は忘れています。まず意識しないものです。
 
そこへいくと、クリスチャンは礼拝毎に祈ります。個人の祈りの中でも、戦争のことを忘れません。毎日、気にかけています。――でも、私は思うのです。私の中にある、汚いものについて。いまそれを明らかにします。
 
私たちが祈るその「戦争」は、多分に、ウクライナの情景、パレスチナの人々、イランという名前の国のことであると思われます。世情に詳しい人ならば、もう少し他の国々の名前も浮かべているかもしれません。
 
でもそれは、「遠い国」の戦争なのです。
 
もっと言いましょう。もちろん、これは自国日本に於ける戦争ではありませんが、その戦争は、いま私たちの身体や生命、財産を脅かすことが基本的にない戦争であるのです。もし、すぐ近辺の国で、核兵器がいつこちらへ飛んでくるか分からないような情況であるとしたら、その「祈り」は、いまの私たちの「祈り」と同じかどうか、想像してみたいのです。
 
自分は安全なところにいて、自分は戦争の国の人々に同情する優しい心を持っています、というふうな「祈り」であるのなら、会堂や大通りの角で祈りを見せびらかす、あの偽善者の祈りと、どこが違うというのでしょうか。
 
世のワイドショーで、悲惨な事件が毎日のように報道されます。被害者に同情し、遺族を思いやり、時に涙すら流す私たち。司会者やコメンテーターも、犯人に対する怒りや被害者についての悲しみを、真摯に伝えます。
 
けれども、一定の時間が来たら「では、次のコーナーです」と言って、その瞬間、空気が変わります。エンタメ情報でケラケラ笑うようにもなるでしょう。視聴者も、それにつられて愉快な気持ちになります。先ほど涙を流したことで、自分の良心の義務は果たした。だからそれをいつまでも引きずっているわけにはゆかないし、生活を愉しまなくっちゃ、と正論を心の中に準備するのです。
 
◆古代イスラエル
 
旧約聖書には、預言者たちの名前がたくさん登場します。このときの「よげん」とは、神の「言」葉を「預」かることからつくられた言葉で、未来の「予言」をする意味ではありません。いわば、神に成り代わり、この社会の批判をするのです。もちろん、先々神の裁きのときがくるのだ、という形で、未来を語ることもあります。でもそれは、要するにイスラエルが神を信じなくなっていることの批判に基づいているのであり、王や祭司たち、つまり政教いずれに於いても、堕落しているのだ、という指摘をすることになるのでした。
 
新約聖書は、もちろんイエスの活動を紹介し、そのイエスが受けた苦難と復活を伝え、それを信じる者に神が報いを与える、という中心を軸に展開する神の言葉である、ということになっています。そこでは、イエスの歩みを物語のように告げる「福音書」が4種類もありますが、いずれに於いても、イエスが、律法学者やファリサイ派の人々をこてんぱんにやっつける場面が多々あります。
 
私たちは、こうした預言者やイエスの背中にいつも回ります。そしてその後ろから、非難される側に、やーいやーい、と囃し立てます。なんとあなたたちは不信仰なのだ、なんとあなたたちは傲慢なんだ。こんなに素晴らしい神を信じず、偶像を拝むなんて、恥ずかしくないのか。そんなふうに右手の拳を挙げて得意そうに叫びもします。
 
けれどもいま、結論ありきのそういう読み方でなく、古代イスラエルで実際どのような社会がそこにあったのか、冷静に考えてみましょう。
 
ダビデ以降、イスラエルは王制を敷いています。正確にはサウルが初代の王ですが、ダビデが実質的には王室の基を築きました。いまとは制度が違いますが、王は確かに政治を司っていたといえます。同時に、軍の頭でもありました。イスラエルは小さな国ですから、軍備が必要です。周囲には、歴史上その都度大きな王国や帝国が取り巻いていました。
 
国同士の対立が激しい上に、小国イスラエルは、位置的にその中心にあります。軍隊が出向くときその交差点にあるようなものです。常に各国の情況を知っておかなくてはなりません。交渉はどうなっているのか。軍備はどちらが上なのか。どちらについたら生き残れるか。切実な判断が、王に委ねられていました。
 
イスラエルはこうして、いつ国が滅ぼされるかも知れない危機の中にありました。当時は、基本的人権なるものなどという思想はどこにもありません。他国からの干渉や国際的な取り決めなどといったものもないでしょう。戦争法なるものも当然あるわけがないので、どんなに残虐なことがなされていたか、想像を絶するものがあります。旧約聖書のイスラエルの戦い具合を知るだけでも、残酷なことが平然と行われていたことが分かります。
 
とはいえ、現代なら本当にそうしたことがないのか――それは分かりません。
 
◆律法学者やファリサイ派の人々
 
イスラエルは、その歴史の中で、ついに捕囚という憂き目に遭います。それでもイスラエルは完全に消滅することはありませんでした。それというのも、王が、それなりに生き残りの政策をこなしていたからです。王は、政教どちらにも関わる立場にありましたが、イスラエルの宗教儀式は、伝統的に「祭司」の任務でした。
 
祭司は一般に、イスラエルの律法に従って考え、行動します。神の言葉を原理として判断します。しかし王は、常に世情を把握し、臨機応変に判断しなくてはなりません。律法一点張りで行動するのは危険です。旧約聖書続編にはマカバイ記というものがありますが、イスラエルが宗教的原則一本で、異教のセレウコス朝シリアに対する様が描かれています。安息日に敵に攻撃を受けたことを契機として、安息日にも戦う指令を、ユダ・マカバイが出しています。
 
旧約時代のイスラエルの王たちも、律法にただ従うだけではなかったと思われます。「イスラエルの主はこう言われる」などと高らかに宣言して、国内の中で勇壮な態度を誇っても、たちまち大帝国に滅ぼされてしまうことでしょう。隣国が核兵器をちらつかせている中で、日本は神国であるから正義の国であり、邪悪なおまえの国には屈しない、などと突きつけるようなことができるかどうか、想像してみたらよいかもしれません。
 
こうして、王という立場は、えてして時代の風を考え、時に応じてイスラエルの宗教を緩く考えたのだと思います。それに対して祭司グループは、宗教的に原理主義であるべき立場だったと思います。後に、政治的に融通を利かせるようになった時代もありましたが、それに対して今度は宗教右派のグループが徹底的に批判を加えます。
 
イエスの時代は、律法学者やファリサイ派の人々が、庶民に対して幅を利かせていたように見受けられます。イエスの福音は、そのあり方を批判しました。が、ともかくも彼らは、イスラエルの精神文化をよくぞ守っていた、とは言えないでしょうか。これを失えばイスラエルではなくなる、そういう覚悟で、律法の精神を徹底的に貫こうとしていたのだ、とすれば、私たちもその気持ちが幾らか分かるような気がするのです。
 
もしも私たちのうちの誰かが、福音書を少しばかり聞きかじり、自分は完全にイエスの側にいると錯覚して、安全なところから、律法学者やファリサイ派の人々は傲慢だね、などと鼻で嗤うようなことをしていたとしたら、私はその方がよほど傲慢であるように思えます。もちろん、私自身、そう思っていたことがあるからこそ、いまにしてその勘違いを恥ずかしく思っているのですが。
 
切迫した情況での、必死の人々の振る舞いを、思慮がないとか信仰がないとか馬鹿にするようなことを、私たちの内の誰かがしています。危害が及ばない安全なところで、そんなことを言います。一分後にはもう忘れ去っているような、口先で語り論評したり同情したりするような「戦争」の話は、単に話題にしてみただけであるのでしょう。善人面したいためのオカズなのでしょう。そのような自己義認が、神の意に適う信仰の道だ、などと、思い違いも甚だしい人は、いませんか。もしかして、自分の中に、そういう姿勢はありませんか。
 
◆武力によらず、権力によらず
 
旧約聖書のゼカリヤ書をお開きしました。メシアが子ろばに乗って現れる、という預言が特に有名でしょう。イエスのエルサレム入城の舞台を飾る預言書でした。それに比べると地味だというか、渋いいぶし銀のような魅力を放つのが、本日選んだ、4章の最初のところに見られる言葉です。
 
武力によらず、権力によらず
わが霊による――万軍の主は言われる。(ゼカリヤ4:6)
 
これも含めて、ゼカリヤ書には謎が多く、幻が描かれているところも多々あります。正確に何を言っているのか、私たちには分からないことだらけです。ただ、この4章の初めのところは、歴史上の何を意味しているか、ある程度のことは研究されています。
 
ここには「ゼルバベル」という名が見られます。イスラエルの民がバビロン捕囚の憂き目に遭いましたが、数十年後に、ペルシア王キュロスの命により、数万人単位が、イスラエルの血に戻ることになります。このときの指導者の名が、ゼルバベルというのでした。エルサレムの神殿再建に関わります。
 
2:彼(=御使い)が「何が見えるか」と尋ねたので、私は答えた。「すべてが金でできている燭台が見えます。その上部には丸い鉢があり、その上に七枚の灯皿があり、その上部にある灯皿には七本の管がありました。
3:その傍らに二本のオリーブの木があり、一本は丸い鉢の右に、もう一本はその左にあります。」
 
神の霊が、ゼルバベルを通じて働く意味を含んでいるのでしょう。しかしゼカリヤにとっては、これが何を表すのか分かりません。御使いは、「これはゼルバベルに向けられた主の言葉である」と説明を始めます。このときに、魅力的な先の言葉が出てくるのです。
 
6:彼(=御使い)は言った。/「これはゼルバベルに向けられた主の言葉である。/武力によらず、権力によらず/わが霊による――万軍の主は言われる。
 
ところで、この「武力によらず、権力によらず」というのは、何を意味しているのでしょうか。古代の戦争に於ける「武力」のことでしょうし、古代の帝国の「権力」がどういうものであるかは、旧約聖書を読む中で、私たちは朧気ながら感じるかもしれません。
 
けれども私たちはこの預言の言葉は、もっと私たちの近いところにあるような気がしてなりません。
 
「武力によらず」――いま私たちは、暴力や強制力を、感じていないでしょうか。言葉の暴力があります。密室の電車の中で他人の存在を無視する、音の暴力があります。会社の決まりだから、と社員に強制力を以て圧をかけることもあります。こうした暴力の共通点は、自分が他人に暴行を加えている、という自覚が全くないことです。
 
場合によっては、法律に基づくとして、国家権力が刑罰を及ぼすのを、ある種の暴力として認識する場合もあります。法が、弱い立場の人を護るためにある、というのは理想に過ぎず、裕福層が優遇されている中で、社会的弱者は法により、困難を強いられていることが多いものです。これを暴力と呼ぶことは、決して見当違いではないと思うのです。
 
教会も暴力と無縁ではありません。選挙という民主的な方法で教会の役員を選び、いくら無理だと断っても、決まりだから、と迫り苦しめていることは、当人にとっては暴力そのものです。いじめと同じで、暴力を振るう側は、それを決して暴力だとは意識しないので、厄介です。「いえいえ、誰もみんな喜んで奉仕しますよ」と微笑んでいるとしたら、正にそれこそ、暴力に気づいていないことを証明するものでしょう。
 
「権力によらず」――王や貴族だけが、権力に関係があるかのように、私たちは「ずらし」をかけていないか、省みる必要があります。いまの世ならば、社会的立場が上の者が、下の者を圧迫していることは随所に見られます。いまの教会奉仕の問題もそうですが、怖いのは、「民主的」という言葉で、「みんな」が誰かに権力的に振る舞うことです。無意識のうちに。
 
部下にとっては上司が権力者です。労働者にとっては雇用者が権力者です。結局この権力という捉え方には、経済的立場というものも潜んでいるように思います。金のある者、金を与える側の者が、思いの通りに相手を支配しようとするのです。そんな例は、一つひとつ挙げる必要もないくらい、世の中では「常識」となっていると思うのですが、如何でしょうか。
 
◆わが霊によって
 
もちろん、「権力」が即座に悪だ、などと言うつもりは毛頭ありません。新約聖書の中でも評判の悪いのは、たとえばパウロの次のような言葉でしょうか。
 
人は皆、上に立つ権力に従うべきです。神によらない権力はなく、今ある権力はすべて神によって立てられたものだからです。(ローマ13:1)
 
悪を処罰する権力があるからこそ、世の中の平和が保たれます。権力なしには、私たちは安心して日常生活を送ることができないのです。それを神が与えてくださった、という見方をすることそのものに、文句を言う筋合いはないのです。
 
後の世、つまり現代では、この権力を保証するのは、「選挙」という方法になりました。選挙の結果は民意であり、主権が国民にある以上、選挙により決められた政府は、何でもしてよい、というふうな論理がまかり通ってしまっているように見えるのは残念です。選挙というものは、一面危険性を有しています。ちょっとした偶然により、あるいはその時の時代の空気により、人々の投票は簡単に流されます。勘違いもします。流行に乗るような心理もあって、票が一つに集まることはよくあることです。
 
選ばれた方は、これは民意だ、私は正しかった、と勘違いをするか、あるいはしてやったりと思うかして、多数決で法をどのようにも変えることができる、とほくそ笑むでしょう。予算をどうにでも立てられるし、世の中の人々は、ちょっとした感情操作によって、操ることができると踏んでいます。政府に反対する集団を悪者として叩くような記事を好んで書き続ける新聞もあり、政敵を潰そうと躍起になる姿勢の論評を、時の政権は決して悪く扱いません。
 
言いくるめられることにより、「正しい」ことに参与するようになってゆくことにより、気づけば「法律」により自分たちはとんでもない情況に陥ってしまうことに、気づく人々の声は、「多数」によりかき消されもします。生活経済は確かに必要です。しかし、経済さえ明るくなれば、どんな「法律」にも賛同するというような感情になるのは、権力者には思う壺なのです。金回りさえよくなれば。かつて日本人が「エコノミック・アニマル」と揶揄されたことがありましたが、近年そう騒がれないのは、「エコノミック・アニマル」でなくなったからというよりも、それが当たり前になってしまったことを意味するのかもしれません。
 
ゼカリヤ書で神の言葉を伝えた御使いは、こう告げました。
 
武力によらず、権力によらず
わが霊による――万軍の主は言われる。(ゼカリヤ4:6)
 
武力ではない。権力ではない。神は、「わが霊による」と言いました。これは「霊」と訳すべきでしょう。これはよく知られた語で、「風」を表すこともあるし、「息」と訳すこともある言葉です。確かに、「わが息による」と言っても、雰囲気は悪くないのですが、やはりこれは「霊」が掴みやすいと思います。
 
ただ、日本語で「霊」というのは、どうしても別のニュアンスを連れてきてしまいます。たとえば幽霊や怪奇現象が重なってくるように感じられないでしょぅか。「精神」と訳す方法もあるかもしれませんが、漢語の硬さもさることながら、「霊」とはだいぶ違うもののようも思われます。「精神世界」とか「スピリチュアル」とかいうブームも相変わらず続いていますが、聖書の告げる「霊」は、そうしたものとは無縁でしょう。
 
訳語として使うためには提言しませんが、私はこの「霊」を、美しい日本語として「こころ」と表現して思い浮かべてみてはどうか、と思いました。神の「こころ」、確かに「御心」という言い方をクリスチャンはするものです。それを定義することは無理であるでしょうし、実態を掴みづらいものであることは確かですが、私たちは「こころ」という言葉で、誰もがきっと近いものを想定しています。私たちの使う「こころ」という言葉は、先ほどの「武力」や「権力」とは、対極にあるような気がしないでしょうか。
 
私たちは、「こころないことをする」という表現を知っています。酷いことをすることをそう呼ぶのです。すると、神の霊が否んだ「武力」や「権力」というものは、「こころないこと」として想像してみることができるかと思います。当たらずといえども遠からずではないでしょうか。
 
◆ペンテコステ
 
さて、今日はいわゆる「ペンテコステ」を記念する礼拝です。教会では、クリスマスとイースターに続く、第三の祝祭です。しかし、世の中では、他の二つのようにはポピュラーになっていません。教会でも、お祭り性は薄いような気がして残念です。あ、お祭りをせよ、という意味ではありませんよ。
 
クリスマスは、私は降誕祭か聖誕祭でよいと思うし、イースターは復活祭でよいと思うのですが、カタカナが優勢です。ペンテコステは優勢云々の基準を欠いていると思いますが、「聖霊降臨記念日」というような、硬い言葉が用意されています。しかし内容はよく表しています。要するに、聖霊が降ったのです。
 
ヨハネ伝では、弟子たちへの最後の説教の中で約束をしていました。他の福音書では、復活のイエスが約束しました。イエスの姿が見えなくなった後に、神から弟子たちに聖霊が及ぶ、ということです。この聖霊は、神のひとつの「位格」だとして神学的には理解されました。神の霊は、神そのものであると受け止めて差し支えないものです。神学では「三位一体」と呼ばれますが、この「三位一体」という語が世で奇妙な慣用句のように使われているのには、キリスト教会はもっと文句を言ってよいのではないかと思います。
 
その「聖霊」を、先ほど私は、「こころ」という言葉で受け止めてみたい、と言いました。「神のこころ」です。あるいは「神から戴くこころ」と呼ぶことも許されるでしょうか。
 
使徒言行録の2章に、そのときの様子を詳しくレポートしたような記事があります。そこは、このペンテコステ礼拝に於いて最も多く開かれる聖書箇所だろうと思われます。その時に起こった事件について、たっぷりとお話しするのが最も的確な礼拝説教であるのかもしれません。でも今日の私は、その物語の過程を説明するためにここにいるのではありません。
 
要するにそのとき、弟子たちが集まっていると、不思議なことが起こったのです。彼らは様々な他国の言葉で話し出したのです。怪しい物音を聞きつけて集まった巡礼者たちが、この様子を目撃します。まるで酔っ払っているようだ、という声がしたので、ペトロが立ち上がり、この件について見事な説明を施します。「ペトロの説教」と呼ばれる長い話ですが、恐らく教会で後に語られるようになった、イエス・キリストについての説教がここに掲載されているのだろう、と私は推測します。
 
ペトロは、まるで人が変わったように、堂々と説教を語ります。いま霊が降りてきたこと、それは、刑死したイエスこそキリスト、つまりメシアである、と宣言するものでした。これを信じることができれば、キリストの弟子に加わるのであり、教会の仲間になれるというのです。
 
◆復活の証人
 
使徒言行録の2章の、こうした過程は、今回開くべき聖書箇所としては挙げませんでした。が、このペトロの説教の中で、耳に臨んできた言葉をここに拾い、受け取ることと致します。
 
32:神はこのイエスを復活させられたのです。私たちは皆、そのことの証人です。
33:それで、イエスは神の右に上げられ、約束された聖霊を御父から受けて注いでくださいました。あなたがたは、今このことを見聞きしているのです。
 
イエスは復活されられた。「私たちは皆、そのことの証人です」という、その「私たち」もちろんイエスの弟子たちのことです。けれども、もちろんいまここにいる「私たち」であってもよいはずです。私たちもまた、「証人」です。イエスが復活した、ということを証言する者です。そうした証人に対して、神は約束の聖霊をお渡しになるのです。神由来の「こころ」が、私の中に来てくださいます。私はその「こころ」のままに生かされます。
 
ここで「あなたがた」とペトロが呼ぶのは、いわば教会外の人々ですが、「今このことを見聞きしている」となると、この聖霊降臨による現象を、確かなこととして証言する「証人」になるのだ、と伝えます。それにまた、この聖書の記事を受けている私たちが正に、「今このことを見聞きしている」のであることも、間違いないでしょう。
 
だから、私たちもまた、復活の「証人」です。イエスが復活した、ということを、確かなこととして証言するのです。その証人であることについては、聖書の記事からすると、十日前のイエスが、弟子たちに告げました。昇天する直前に、言い渡していました。
 
イエスは言われた。「父がご自分の権威をもってお定めになった時や時期は、あなたがたの知るところではない。ただ、あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレム、ユダヤとサマリアの全土、さらに地の果てまで、私の証人となる。」(使徒1:6-7)
 
二千年前の聖霊が降り、これにより弟子たちは力を受けました。このイエスの告げたことは、確かに実現してゆきます。そればかりか、二千年の時を超えて、いまここにいる私にも、注ぎます。この私もまた、確かにいまキリストの復活の「証人」となっています。
 
イエスをキリストと信じ、十字架の死とそこからの復活をあなたが信じるならば、あなたもまた、その「証人」のひとりとなることができます。そうなることを、私は「こころ」から願っています。



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