睡眠時間と数字
2026年5月24日

睡眠時間を、すごく気にしていた頃があった。大学に入り独り暮らしを始めたときは、自分のペースで生活ができるとはいえ、まず睡眠時間を確保するところから逆算して、生活時間を決めるという具合だった。
8時間睡眠が必要だ。そのように言われていたのを、素朴に信じていた。おまけに私は、寝入るのが上手ではないタイプだった。なかなか眠りに落ちないのだ。いまとなっては信じられないが、若いときにはそうだった。
だからなおさら、騒音には困った。古い木造のアパートで、土壁でもあったので、隣でどんちゃん騒ぎをされると、うるさくて眠れなかった。それを詫びる子だったのはまだよかったが、夜中にずっと電話をする声が上から聞こえてくるのは難儀だった。こちらはどうにもならなかった。
もっと以前、中学生の頃はどうだっただろう。平日は、夜遅くまでラジオを聞いていたので、8時間睡眠は確保できなかった。遅い、と言ってもいまのような遅さではない。当時は深夜放送というジャンルも、中学生には零時までがせいぜいのところだった。だから、日曜日は、朝遅く起きるのが普通だった。教会に行くようになるのはずっと後のことなので、日曜日はただの休養であり、怠惰な一日だったと思う。しかしこの朝の寝坊のために、逆に日曜日の夜は、いつも以上に寝付けなかった。
そのうち、睡眠時間は短くなった。勤務からの帰宅が夜遅いので、朝が早い人々とは生活のリズムが違う。健康診断で異常が出てからは、帰宅後の炭水化物はなしにしたが、食べてからすぐ寝るというのもよろしくないので、自然と就寝は遅くなるのだ。こうなると、睡眠時間8時間の確保は不可能になる。
そう。子どもの幼稚園への送り迎えなどのためには、それなりに朝は起きなければならないのである。だが慣れれば、8時間というのは神話に過ぎないのだと思えてくる。そして、さらに睡眠時間は短くなってゆく。自分としては、パソコン画面に向かう時間が長くなったので、つい夜更かしをする、というのがその理由だと思っていた。
日記は、ずっとノートに手書きで書いていたが、いつしかパソコンで打てばよいと気づき、夜中に綴るようにもなった。教会学校のための教材やお話などのためにも、静かな夜はもってこいだったから、睡眠時間は益々短縮されていった。
不思議と、だんだん平気になる。ああ、夜中のこうした知的活動はよくないのではないか、と思い始めたものの、どうやらパソコンのせいではないような気もしてきた。要するに、年齢のせいではなかろうか、と。
そもそも睡眠時間が短くなって然るべきなのだ、ということに気づいてからは、体調を悪くするほどのことがない限り、自然に任せている。そうなると、いまでは6時間眠ることさえ稀なほどとなり、その前に勝手に目が覚めるような体になってしまった。
これでもし、昼間にうとうとするようなことがあれば、確かに寝不足なのだろうが、そういうわけでもない。一日が24時間以上あればいいのに、と思ったこともかつてあったが、ある意味でそれは達成できているのかもしれない。
睡眠時間はn時間、というような数字の暗示にかかっていたのだな、といまにしては思う。人間、身長がいくらで体重がいくら、という数字には思い悩むものだ。健康診断の数字を蔑ろにしてはならないが、その数字に一喜一憂する、というのも、どこか数字の魔力の故であるような気もする。もちろん、数字の変化は体の内部の異常を知らせるバロメーターであるから、医師の判断を尊重しなければならないが、幾ら数値が数値として正常範囲にあったとしても、隠れたところで病気が進行しているということは、よくあることなのである。
キリスト教会が、数字的な統計で瀕死の状態に向かっていることは明らかである。日本ばかりでなく、ヨーロッパでもそうだ。使徒言行録の記述には、一日で何千人信徒が増えた、というようなものも見えるが、「イスラエルのすべての人々を呼び寄せた」などというふうに、聖書は簡単に「すべて」という語を使うが、数学的な「すべて」でないであろうことは容易に想像できる。イエスがパンを配った四千人とか五千人とかいう数字も、また違った意味で受け取っても差し支えないだろうと思われる。
だが、信仰の事柄は、数字ではない。実のところ、神の視点ではその数字は真にその数字なのかもしれないし、人間の目には見えていない数字がカウントされているのかもしれない。信仰の事柄は、人間の計算する数字ではない。
「御所が教会になりますように」と祈っていた若い人が京都にいた。聞いていて「えっ」と思った人もいただろうが、それはそれでよいのである。人の計算や打算で、神の世界の出来事は動かない。数字の計算は、神に関しては抑えておいた方がいい。
但し、ただ楽観しておけばよい、と言いたいわけではない。無責任な放置がいつもよい、とは思えないからだ。