友情

2026年5月22日

実名を出すと差し障りがあるかもしれないので、仮名にしておくことにする。アンちゃんとヤマちゃんは、同じ区域に住む男同士である。ただ、どうにも折り合いが悪い。
 
だいたい、アンちゃんの方が、ボス的な存在である。ときに、この区域を出て、隣町のボス的な奴と諍いを起こすこともある。どこでケンカをしたのか分からないが、ちょくちょく身に怪我を帯びている。
 
ヤマちゃんは、見た目はちょっといかついし、黒く筋肉質で強そうであるのに、メンタル面では、色白のアンちゃんに完全に負けている。ひと睨みされたら、一歩も前へ出られない。飯を食うときにも、先にアンちゃんが食べていたら、離れたところでヤマちゃんはじっと待っている。自分は、その後で食べるのが当たり前だと考えているかのように。
 
同じ区域に住んでいるから、多少近辺をパトロールもするのであるが、どうしてもある程度近くで休らうときもある。そういうときは、絶妙な距離をとって離れて休み、決して一定の距離内に近づくことはない。
 
ヤマちゃんの方は、アンちゃんが嫌いというよりも、怖がっているのだと思う。他方アンちゃんは、ヤマちゃんが近くに来ると唸り、威嚇する。俺のところに来るな、のように圧をかけ、ヤマちゃんを退散させるのだ。
 
あるとき、私たちは二人に会いに行った。すると、こんな話を聞いた。
 
もうお分かりだと思うが、アンちゃんとヤマちゃんは、猫である。地域猫といって、一定の区域に暮らす、外猫である。繁殖は、死ぬだけの子猫を増やすので、不妊手術を受けさせている。猫にとり、それが良いことなのかどうなのかは分からない。ただとにかく、人間が野良猫だという理由で捕まえて殺す猫は、圧倒的に子猫が多い。犬を含めても、子猫が一番多いという統計もある。
 
近隣の家に迷惑をかける可能性もあるのだが、できるだけ公園のように、人の住まいのないところをテリトリーとすべく、住まいを与え、餌を朝晩配給する。水だけの取り替えや住まいの清掃など、ボランティアさんたちの労苦には、本当に頭が下がる。
 
そのとき、ヤマちゃんが車に運び込まれていた。私たちは、ちょうどその現場に遭遇したのだ。ボランティアさんが説明してくれた。ここ数日、ヤマちゃんの食欲がなかったため、マークしていた。経験上、猫にありがちな、腎臓系の病気の可能性が高いように見えるという。その日、今日は保護しようと話し合い、ヤマちゃんを連れ出そうとしたのだったが、ヤマちゃんは姿を隠していたのだそうだ。(後日談・腎臓は健康で、喉頭炎のような痛みであったらしく、やがて地域猫に復帰できる見通しが立っているという。)
 
猫は、自分の死を覚ると身を隠す、と昔から言われている。実のところ、人情的な意味ではなくて、自分が弱いところを敵に見つからないようにしているのだ、と理解されている。ヤマちゃんも、そんなふうに隠れているのだとしたら、いよいよ心配だ。ボランティア組織は、こうした猫をできるだけ保護し、適切な治療も施すことになっている。なんとか捜し出したい。だが、見当たらない。ごはんだと呼んでも、それ自体を拒んでいるのだから、出てくるはずがない。
 
しかし、アンちゃんは元気である。ごはんにも呼ばれて出てくる。ボランティアさんは、アンちゃんに尋ねてみた。「ヤマちゃん、どこにいるか知らない?」
 
アンちゃんは、訊かれて、ちょっと見上げるようにして、ボランティアさんの言っていることの意味を覚ろうとしていた。地域猫たちには、それぞれ名前が付けられている。いつも呼ばれているから、自分の名前は分かる。仲の悪い相手だが、アンちゃんは、「ヤマちゃん」というのが誰のことを指しているか、分かっているに違いない。
 
アンちゃんは、ゆっくり歩き始めた。ついてこい、というかのように。ボランティアさんは、アンちゃんをただ追っていった。そう遠くないところだったが、ちょっとした藪の前で、アンちゃんは立ち止まり、座った。
 
ボランティアさんは、もしや、と思い、その藪の中を覗いた。すると、最初は何も分からなかったが、よく見るとそれはただの黒い影ではなかった。ヤマちゃんだった。
 
そうして、ヤマちゃんは保護されたのだった。アンちゃんの、ファインプレーだった。ボランティアさんは、「アンちゃん、よく教えてくれたね。偉かったね」と涙ながらに褒めた。
 
「友情」とでも呼べばよいだろうか。日ごろいがみ合う相手でも、思いやる心が、猫にはあるのだと知った。人間には、それがあるのだろうか。



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