世界を立て直すため

2026年5月18日

イエスは、ガリラヤを通過して、エルサレムに向かって進む。イエスの眼差しには、十字架が映っている模様である。マルコ伝連続講解説教は、後半に差しかかった。
 
初期の伝道に於いては、とくに癒やしの業が目立った。ガリラヤ湖周辺で、多くの病人を癒やし、人々の耳目を集めた。だがいまや、癒やしには勤しまない。ひたすらエルサレムでの救いの成就へと急ぐように見える。
 
十字架の予告は、二度目である。説教者は、一度目と二度目で決定的に違う言い方があることに注目させた。これが一度目である。
 
それからイエスは、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちによって排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている、と弟子たちに教え始められた。(マルコ8:31)
 
そしていま、イエスはこう言った。「人の子は人々の手に渡され、殺される。殺されて三日の後に復活する」(9:31)と。誰が加害者なのか。「長老、祭司長、律法学者たち」と、具体的な人物像を持ち出した最初のときに対して、今回は「人々」だと言っている。もちろん、「長老、祭司長、律法学者たち」のことを「人々」と言い換えただけだ、という解釈も成り立つだろう。だが、霊的には、そうした常識的な読み方はしない。
 
説教者は、権力者たちという「あの人たち」という見方ができないように、そこにいる「弟子たち」もそうなのだと気づかせる意図があったであろうと語った。弟子たちも、イエスの殺害に加わっている、ということを明らかにするのである。そしてそのことが、次の出来事をマルコ伝が記すことで、弟子たちの「教育」をここで始めていることを指摘する。つまり、これまでの、人々への癒やしから、十字架への道が始まるにあたり、福音宣教を担う弟子たちに、みっちりと教育をすることへと、主軸を換えた、というのである。
 
だがその説教者の道筋に乗って行く前に、私は一度立ち止まらざるを得ない。「人々の手に渡され、殺される」という「人々」、そこに、私もいる、ということだ。
 
一行はカファルナウムに来た。家に着いてから、イエスは弟子たちに、「道で何を論じ合っていたのか」とお尋ねになった。彼らは黙っていた。道々、誰がいちばん偉いかと言い合っていたからである。(マルコ9:33-34)
 
「誰が一番偉いか」という部分は、説教者が指摘したように、「誰がより大きいか」という語で書かれている。そして説教者は、聖書はいまの時代のことをよく知っていると思う、と漏らした。
 
これは比較的珍しいことなのだが、ここから説教者は、「自己肥大」という概念を、かなり詳しく、露骨にいえばしつこく語り続けた。それは「現代人の病」とさえ言えるものだ、として、自分が万能であるような感覚、自分だけは特別だという特権意識、他人への共感が欠落していることなどを次々と挙げてゆく。防衛本能というものは理解できるものの、そもそも誹謗中傷をしていたのが自分であったはずなのに、SNSで少し注意を受けると逆上したり、被害者ならば何をしてもよいかのように誹謗中傷をさらに加えるというような人間の例を挙げる。しょせん劣等感からそうなるのではあるだろうが、凡ゆることでとにかく自己中心的であるのだ。
 
怒鳴るクレーマーに、公務員が刺激しないように対処する姿が痛々しい、というような実例も交えながら、何かしら他人をこき下ろして優位に立とうとするような者がごろごろいる世の中である。自分の正しさを認めない者に対してはすぐに腹を立てるというあたり、幼児性も甚だしいが、かなり年配の人の中にも、見かけることがあるから、単なる幼児性とは呼べない、ある意味で病気である。
 
説教者は上の通りに言ったわけではないが、いろいろな言い方で、歪んだ精神を並べていた。世の中を批判するにも、言葉を選び、できる限り少ないポイントだけで指摘することの多かった説教者が、かなり様々な角度から説明を施したことは、記憶がない。
 
それらは皆「自己肥大」の例であった。だが私は、聞いていて、面白いほどある人物に悉く当てはまることに驚いていた。一つひとつのその行動の指摘が、その通りに理解できるのである。その人物について私は、「自己愛」という名を与えている。医師ではないから、病名を持ち出すのは不適切であろうと思われるが、こうした点で知られるパーソナリティ症候群は、世間でもかなり意識されるようになった。それはごくわずかな割合しかいないかのように見られかねないが、私は相当広い範囲で、いまの時代には傾向が見られるのではないかと思っている。ただ、調べれば相当厄介な状態に陥っている、という人も、日常的に普通の生活をしていることは間違いないと感じる。
 
「牧師」という肩書きをもつ人の中にも、複数人いることを知っている。そしてそれを見抜くことができるためには、「福音」の適切な信仰と理解が必要であろうと考えている。なにしろご本人が、しきりに「福音」「福音」という言葉を使うので、それが偽物であることについて気づかない人が少なくないのだ。
 
説教者はまた、東京神学大学の神代真砂実先生の文章に非常に共鳴した話を伝えた。それは「我々の世界の崩壊」という内容で、パウル・ティリッヒについて引用しながら考えを述べるものだった。うまくいかないとき、人はリーダーのせいにする。もちろん、ティリッヒが遭遇したヒトラーのようなリーダーに問題があることは言うまでもない。だがそうした人物の故に世界が崩壊してゆく、という思考の順序を反省してみよう、というのである。すでに世界が崩壊しているのだ、と。
 
新しい政治のリーダーが、かなり問題を含んだ経歴や発言のあることを指摘されている。しかし盲目的にそれを支持する者の「数」の故に、当人はにこにこと強気で一切の批判についてまともに相手をしない。まともに相手をしようとして、却って不人気を呼んだ前リーダーを見ていることもその理由かもしれないが、一方で、キリスト者である前リーダーのことを見直す声も増えている。
 
リーダーのせいで崩壊してゆくのではない。そのリーダーを選び、支えて継続させるのは、私たちである。もし「世界」が「私たち」により構成されているのならば、「私たち」がすでに崩壊している、という捉え方も可能であろう。まず何かが崩壊している故に、やがて現象として崩壊の姿が目に見えて明らかになるのである。
 
イエスと弟子たちのこの場面に於いては、説教者は、イエスの背で、崩壊がすでに始まっていることを指摘する。既に弟子たちが、イエスを殺し始めている、というから物騒な言い方だが、非常に抽象的な形ではあるが、正にその通りである。弟子たちは、イエスが殺されという言葉を聞いたが、「怖くて尋ねられなかった」というよりも、むしろ尋ねることを避けて、忘れてしまった、と言ったほうがよいのではないだろうか。そして、「誰がいちばん偉いか」といった話に興じていたのである。
 
イエスは座って、十二人を呼び寄せて言われた。(9:35)
 
教師が座るというのは、落ち着いて教えを施すときのスタイルである。イエスは確かに弟子たちを「教育」しようとしている。さあ教えよう、と十二人を呼び寄せたのである。そしてイエスが告げたことは、有名な「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい」という言葉である。
 
いつか礼拝説教で取り上げた、桃井和馬さんという方がいる。『妻と最期の十日間』で、信仰の中で突然妻が倒れることを綴っていた。その方が、「正義の反対は悪ではない。正義の反対は正義」だと言っている、という指摘をした。これは14年ほど前のあるキリスト教系雑誌の読者の集いでも引いていることが、調べると分かった。しかしその時とは異なり、いま引用するのは、もっと深刻な情況であると感ずる。戦争は、互いに正義を自称する者同士でしか起こらないからである。
 
他人を自分に仕えさせる。これが、自己肥大の隠れた動機である。自分は常に正義である。これがその本音である。そして自分では意識していないながらも、自分を神としている姿がそれなのである。世界を、自分の意志に従わせよう、とする自己愛に基づく感情が、端的に言ってはた迷惑を起こすのである。人の命を奪うのである。
 
説教者は、「命の重さ」についても語る。「人が全世界を手に入れても、自分の命を損なうなら、何の得があろうか」(マルコ8:36)を呼び出して、世界と命との対比の中で、私たちが礼拝に集う意義を問いかけるのだった。
 
そして、その命を捨てたイエスを信じるということは、またイエスに従うということは、「私」「私」という主語(主体)から自由になることであることを訴える。自己を肥大させないのがよい。むしろ自己が神の在す風景の中で、ゴミのように小さく世界の片隅に置かれていることを覚るならば、そのときにようやく、神は私を「より大きく」してくださるであろう。
 
説教者はこの後、詩編を開き、新しい聖書協会共同訳の訳が大きく変わり、解釈が変わったことを指摘した。新しい訳からは、これまでと全く違うイメージが与えられるのだった。
 
そして、一人の子どもを連れて来て、彼らの真ん中に立たせ、抱き寄せて言われた。(マルコ9:36)
 
このイエスの姿を、詩編の解釈から、説教者は浮かび上がらせた。その幼子たちを、大人は守らねばなるまい。そういう世界を築かねばなるまい。すでに世界が崩壊しているのならば、もうダメではないか。それは、信仰の世界では愚問であろう。イエスを十字架で私たちが殺したとき、世界は一度崩壊した。だが、イエスは復活した。新しい世界が、すでに始まっている。
 
但し、「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい」とイエスは釘を刺している。「私」「私」が主語となって先頭に立とうとするのではなく、「仕える」ことから始めることが提案されたのだ。確かに、この復活後の世界も、何かが壊れている。私もまた、壊している一人である。しかし、確かにここにいる一人である。世界を立て直すために、できることはあるはずである。イエスに仕えることから始めれば、きっと。
 
「人に気付かれるのを好まれなかった」イエスに、人類が気付くようにと願いつつ。



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