AI(人工知能)の普及

2026年5月18日

とにかくいま、AIの話題が多い。世間でもそうだが、入試の国語、その対策としての問題集でも人気である。ネットでもいろいろな情報が飛び交い、相当な熱気がある。意見も様々だ。つまり、大人たちも、よく分かっていないのだ。目立つ機能は派手に宣伝される。大人たちは、しばしばその意義を考える。これからどうなるのか、を懸念する。若い世代では、そんなことは気にせず、どう使うか、使いこなすかだけに関心があり、面白い作品を生み出そうとしている。
 
すでに中学生で、殆どすべてと言わんばかりの割合で、AIを利用しているという統計もあるし、生成AIを使いこなす若い世代の人たちは数知れない。宿題をさせるのはもちろんのこと、もはや大学の論文もそういった人工知能に書かせている場合がある――というより、あたりまえにそれがある、と言うべきなのかもしれない。
 
こうなると、「ドラえもん」でのび太がやりがちな安易な道を選ぶことが、普通になされている、というようにも見える。
 
AIが創ったもので世の中が惑わされる、ということもよろしくないが、AIに物事を考えさせ、人間が何も考えないようになることは、いっそう心配である。ここのところ、人間関係もAIに相談しているケースが多いとも聞く。他人には相談できないことも、AIになら気軽に相談できるからだ。
 
自分らしく生きるとはどういうことか、AIの指示を受けようとしているとなると、手塚治虫が描いていた悪しき未来像がいまや現実になっている、とも言える。ものを考えるのが億劫になる。また、自身が判断を下すことを避ける。責任をとらなくて済むからだ。それでいて、ちゃんと自分で判断しているよ、というつもりになっているから、どうかすると、そういうのを見越していいように操ろうとする輩から狙われることにもなる。
 
教育制度は、かなりしっかりしている。だが、一律に教えても、それが負担になり却って重荷になるケースもある。なかなかすべての人をすべての知識レベルに到達させようするのは難しい。もちろん、機会を与えないということは望ましくないが、無理強いをするのも考えものである。大切なことを教えるという観点の他に、「ことば」を適切に知るように心がけるという視点が、教育の根柢にあってほしいと願う。
 
その「ことば」が、「考える」ための唯一の素材であるからだ。「ことば」の貧困が、「考える」ことを遠ざける。「ことば」以前の気質というものも存在するのは確かだから、「ことば」を失う、あるいは不自由がそこにあったとしても、魅力的なひと、幸福の中にあるひとは、当然いる。けれども、大抵の人々は、「ことば」から「考える」という場によって、生活や関係を築いてゆく。
 
その「考える」を「他人任せ」にするのが常態となってゆこうとしているのか、AIのもたらす負の側面となっているように見えて仕方がないのだ。
 
電化製品が次々とつくられ、価格が下がり生活に浸透してゆくことで、確かに生活の手仕事が軽くなった。時間と労力をかけて洗濯や掃除をしていた時代は、とうに過去になったと言えるだろう。業者は次々と、それらが楽によくできるような商品を開発し、益々生活の労苦は減少する。「外食」はしないとしても、「中食」と呼ばれるように、調理された食品が当たり前になっているし、何々の素、とでもいうような、味付けすべてがワンセットになっているものを使うのが、「手作り」の料理となっているのが現実である。
 
それらは、仕事を軽くした。すると、忙しさから人々は解放されただろうか。速く移動する交通手段により、忙しさは減ったのだろうか。むしろ、もっともっと面倒なことになっているのではないだろうか。
 
思い悩み、考えるということを軽減したAI利用は、私たちに何をもたらすのだろう。一定の仕事の能率を上げる効果はあるかもしれないし、ちょっとした知識を確認したいときには確かに便利である。だが、それを利用しているつもりが、いつしか利用されている、ということにならないか、よほど目を配っていないといけないのではないか。
 
それを遊びや娯楽でちょっと使ってみる、という程度の「楽しみ」では、もはや済まされないように、現実は加速している。それは現在電子データで出回っている凡ゆる情報を拾うから、ときにデマも取り入れる危険もあるが、少なくとも出回っているデータしか集めない。従って創造性がない、などとも言われる。けれども、問題はもはやその程度のことではない。
 
教会の礼拝説教を試しにAIに頼むと、実に尤もらしい文章が返ってきた。すでに利用している牧師もいるのではないか。いや、私はそんなことはしていない、という牧師に対しては、失礼なものの言い方をしてしまったことをお詫びする。だが、自分が神と出会い、神から言葉を受けるということを「考える」という概念で捉えるとすると、これもやはり、「考える」ことをしなくなった末路でもあろうが、AI「程度」の説教しか話していない人がそもそもいることは、確かである。



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