(コリント二13:1-4, エゼキエル34:11-16)
キリストはあなたがたに対して弱い方ではなく、あなたがたの内にあって強い方です。(コリント二13:3)
◆礼拝説教とは何か
案外、「礼拝とは何か」と問われたら、答えづらいものです。「神を礼拝する」というのは、つまりどういうことか、と問うのです。こういうのを、哲学と呼ぶことにしますと、何か論理的な説明、誰にも伝わるような説明が求められる、ということになります。
もう少し問いを絞りましょう。「礼拝説教とは何か」、これならどうでしょう。実は私は、常々これが不思議だったのです。
聖書の解説でしょうか。違うでしょう。聖書について、牧師が思うところを述べることでしょうか。やはり違うと思います。聖書研究会や神学研究の発表会でしょうか。それはかなり違うようです。いずれにしても、定期的な「聖書講演会」がなされている、ということはまさかないでしょう。いえ、よくよく省みる必要はあろうか、とは思いますよ。
やはり、定義めいたものは難しいだろうと思います。たとえば、まだ信じていない人がそれを聞いて、信じるようになるもの。一理ありますが、それは「伝道説教」と呼ばれます。日曜日の礼拝とは限らず、一般の方々に、できれば教会につながってほしい、という願いをこめながら、聖書について基本的なところから説くような話をするのです。
でもクリスチャンは、毎週教会に集い、毎週礼拝説教を聞きます。信仰の長い人も、つい先般洗礼を受けた人も、同じ説教を聞きます。だから、教育の手段というのも少し抵抗があるでしょう。他方、それは教育のひとつだ、と指摘する人もいます。
信仰をもつ者を、説教を聞かせることによって、昂揚させる。それはあるかもしれません。辛い気持ちを励ます。それもあるでしょうか。俯く顔を上に向けさせることができる。きっとあるでしょう。足を踏み出し前進する勇気を与える。そういうこともあるでしょう。語る側にしてみれば、それは嬉しいものでしょう。
礼拝説教は、神に向けて語られるもの、というわけではないように思われます。説教者は、会衆と呼ばれる、人々に向けて語ります。そこでは、神のことを話します。神とは何か、を教える、とも言えます。ある意味で当然のことです。
神が、あなたにしたことを伝えます。それにより、あなたは過去の神の業に気づかされます。次に、神が、あなたにいましていることを教えます。正にいまここで、神があなたと出会おうとしている。それを伝えるのです。そして、神があなたにこれから、いつとは言えないにしても、将来してくださることを見せようとします。聴く者に希望を与えます。
◆神の言葉
礼拝説教は、神からの声として、会衆は聴いているのだろうと思います。従って、説教の言葉は、神からの言葉だと受け止めています。礼拝説教を、心をそこへと差し向けて一心に聴き入るのは、神が今日、私にどのようなことを告げるのか、知りたいためです。私が聖書を選んで開き、私の思うようにのみ理解する、というのとは違い、説教は私が選んだ聖書の言葉ではないところから、私が予想もしない、私が理解していなかった景色を開いてくれます。つまりは、私の外から、それは訪れるのです。
私の内からも、神は来てくださり、何かを教えることはあります。しかし、いろいろなキリスト者の体験を見聞きするとき、神の声は、自分の外から呼びかけているように思います。礼拝説教は、毎週その機会を与えてくれるものです。耳を澄まし、心を研ぎ澄ませて、説教を聴きたいものです。
旧約聖書では、たとえば預言者と呼ばれる人々は、神の声を聴いていました。そしてそれを、人々に向けて語るのが預言者であったのです。神と人との仲介をするのですが、基本的に神からの言葉を受けて、つまり預かって、それを人々へ伝えます。預言者という扱いをしていなくても、神と対話をする人々は、たくさん描かれています。幼いサムエルのように、子どもでも、神が呼ぶ声を聞き、対話をするということがあるのでした。
私たちは、礼拝説教で、本当に神の声を聴いているのでしょうか。さすがに、神の姿を「見る」というのは、伝統的にまずいようなのですが、「聴く」というのはどうでしょうか。
そして、この礼拝説教を語る方は、どうなのでしょうか。説教者は、自分の語る言葉が会衆によって神の声だとして聴かれている、ということを、どう考えているのでしょうか。「そうだ。私は神の言葉を語っているのだ」と豪語することには危険が伴うかもしれません。かといって、「いえいえ、私のような者が語ることが神の言葉だなんて、畏れ多いことです」と謙遜ぶっていたとしたら、人々はその言葉を以て神を礼拝する、ということを諦めなければなりません。
説教者は、祈ります。自分は、とにもかくにも、神の言葉を「取り次ぐ」ことをしようとしている。直接神が声を発して届けるというのは難しいから、神の意志を代弁する。確かに声色は説教者の声ですし、説教者が書いた原稿や筋書きに従って読むのですが、説教者自身もまた、何か気づかされたからこそ語っているわけです。
神の言葉は、空しく消えるものではありません。人の口に上ることは、実現するとは限りません。けれども、神の言葉は実現します。神の言葉による真理は、そのまま存在します。存在といっても、それは物体とは限りません。何らかの出来事になることがあります。神の言葉が出来事になる。ヘブライ語は、「言葉」という語が同時に「出来事」を意味することがあるそうです。
神の言葉を語るのは、プロテスタント教会では、普通は牧師です。もちろん信徒説教というのもあります。そのときには「説教」とは呼ばず「奨励」という名でプログラムする教会もあります。プロテスタントに於いては各教団や教会で規則が異なりますから、カトリックのように、制度が一定しているわけではないのです。
◆プロテスタントとパウロ書簡
そのプロテスタント教会ですが、近年その将来が危ぶまれています。信徒の減少と高齢化、そもそも一つひとつの教会の規模が小さいことが多く、牧師を賄う財力も乏しい。それどころか、牧師のなり手も少なく、牧師の平均年齢が世の中の定年を超えているとか、しかも複数の教会を一人の牧師が兼任しているとか、挙げれば悲観せざるを得ないような事態ばかりです。
月刊『福音と世界』は、今月号で、ついに「教会の生き残りではなく、信仰者の歩みの継続を」という特集を組みました。まるで、教会の生き残りを断念することを前提する名前の企画です。
もう10年も前に、『データブック日本宣教のこれからが見えてくる キリスト教の30年後を読む』という本が発行されました。でも、牧師の数や教会の人数、また兼任牧会の有様など、ずいぶん悲観的な数字が並んでいました。給与も、私が関わっていた教会がまだ恵まれていたことも知りました。
尤も、牧師館があれば住居費が不要な牧師も多く、書籍費も教会から援助される場合があるようなところでは、世間の給与水準と少し違う景色が見えるのかもしれませんが、それにしても厳しさを否むことはできません。
フィリピ書にある言葉を、ふと思い起こします。
貧しく暮らすすべも、豊かに暮らすすべも知っています。満腹することにも、飢えることにも、有り余ることにも、乏しいことにも、ありとあらゆる境遇に対処する秘訣を心得ています。私を強めてくださる方のお陰で、私にはすべてが可能です。(4:12-13)
パウロも生活は楽ではなかったようです。が、それで不満を漏らすような人ではありませんでした。パウロは伝道旅行をしていましたから、一つところで長きにわたって説教を繰り返していたわけではないと思われます。当時は旅するにしても、費用もさることながら、身の危険についての心配が半端なかったことでしょう。
パウロは、手紙を各地に送りました。表向き「パウロが書いた」と記していても、そこに数え入れることを認められないものがありますが、パウロ書簡と呼ばれるものは、概して、宛先のある手紙です。というのは、他の「手紙」と称する文書は、形こそ手紙のようになっていますが、明確な宛先がないようなものもあるからです。
パウロは、どこかに送る文書を沢山綴っていたものと思われます。それは、誰かが届けたはずです。パウロが関わった教会に、パウロの文書を届けます。そして、その教会から、またパウロに向けて連絡がきます。あるいは、誰かその教会に行った人や、その教会からの伝手があって、教会の噂がパウロの耳に入る、ということがあったかもしれません。
時に、ずいぶんとがっかりする話が、パウロの耳に入ってきたようです。ガラテヤ書では、田舎の教会に向かって、ずいぶんと高みから罵るような思いの滲んだ言い方をしているようにも感じられます。コリント後書には特に、都会の信徒の奔放さに、パウロが涙した場面も描かれています。同時に、たいそう憤っていることも伝わります。
このコリント後書は、どうもすっと読み進めることが難しい、まとまりを欠く構成が感じられるとして、もしかすると複数の手紙が繋がれてまとめられているのではないか、と考える学者がたくさんいます。中には、これを切り貼りして、幾つかの手紙を再現して見せた学者もいますが、あくまでもそれは恣意的なものであって、参考にはなるけれども、私たちは従う必要はないだろうと思われます。なにせ、いまある形の聖書の文書は、それなりに長い歴史の検討を受けてきたものですから、さしあたりこれを崩さずに読んでゆこう、というのが穏当であると考えられるからです。
もし複数のものをまとめたとしても、古代人がひとつにまとめた理由がなにかしらあるのでしょうし、その編集力を信頼して、私たちは聖書として受け止めて差し支えはないだろう、と私は思っています。
◆コリント教会の問題提起
せっかく開いたコリント後書です。今日はそこから、ひとつの大切なメッセージを受け取ろうと思います。4節分ですから、改めてお読みして、振り返ることにしましょう。
1:私があなたがたのところに行くのは、これで三度目です。すべてのことは、二人ないし三人の人の証言によって確定されるべきです。
2:以前罪を犯した者たちと、他のすべての人々に、二度目の滞在中に前もって言っておいたように、離れている今もあらかじめ言っておきます。そちらに行ったら、今度は情けはかけません。
3:なぜなら、あなたがたはキリストが私によって語っておられる証拠を求めているからです。キリストはあなたがたに対して弱い方ではなく、あなたがたの内にあって強い方です。
4:キリストは、弱さのゆえに十字架につけられましたが、神の力のゆえに生きておられるからです。私たちもキリストにあって弱い者ですが、あなたがたに対しては、神の力のゆえにキリストと共に生きるのです。
古の記録です。背景の事情について、定かなことは分かりません。もちろん研究は多々あり、解説もいまはインターネットで沢山調べることはできます。でも、やはりそれらは学説であり、憶測に過ぎませんから、それを決定的な事実だとして語ることは控えましょう。
ただ、パウロがコリント教会に対して、そうとう怒っているのは、よく伝わってきます。三度重ねて訪ねるなどとするのは、複数の証言により立証されるという裁判の規定にも重ねられているような気がしてきます。一度何かがあったから断罪する、というふうにはしたくなかったのではないでしょうか。しかし度重なるならば、「以前罪を犯した物たち」は放置できない、という厳しさを感じます。
そればかりか、そうした罪に対して甘い「他のすべての人々」も同罪であるかのように取り扱います。以前にもそのことは告げていたのです。「そちらに言ったら、今度は情けはかけません」と、きつい対処を言い渡しています。
どうやら、パウロへの批判が教会で高まってきていたように聞こえます。あんたの言うことが、まるでキリスト本人の言葉であるかのように命令しているのと違うか。どうしてそうと分かるのか。あんたは本当にキリストの代弁者であるのか。そんなにあんたが偉いのか。
そう問われれば、現代の私たちも、適切に返答できるかどうか、怪しく思います。パウロの手紙を、私たちは聖書であり、神の言葉として扱っているのですが、それは正しいのでしょうか。パウロの手紙が新約聖書の文書では最初期に書かれたとされており、福音書もそれに則って綴られていると思うのですが、どうしてそれが神の言葉なのでしょうか。
教会の教えというもの自体が、パウロの手紙を基礎として建て上げられたのかもしれません。そのことの故に、それが神の言葉だ、としてしまうのは、論理が飛躍しています。人間の越権である可能性が、確かにあるかもしれません。
◆弱さと強さ
パウロは、なにもコリント教会を罵倒しているわけではありません。悔しいのです。もどかしいのです。どうしてこの信仰を貫いてくれないのか。分かってくれないのか。信じられないのか。イエス・キリストのことを伝えたとき、あんなに目をキラキラ輝かせて、信じますと口にしたではないか。
今日開いた聖書箇所に続いて、パウロは次のように書いています。
あなたがたの内にはイエス・キリストがおられる。(13:5)
信ずる者の内に、キリストが生きているのだ――そう、まるで自分に言い聞かせるように告げています。そう言いたいがために、この章の初めで、パウロは言うのです。「キリストはあなたがたに対して弱い」ことは否みますが、その「弱さのゆえに十字架につけられ」たのは確かです。そして、「私たちもキリストにあって弱い者」に過ぎないのですが、キリストは「神の力のゆえに生きておられ」るのだと宣言し、パウロと仲間は、「あなたがたに対しては、神の力のゆえにキリストと共に生きる」のだ、と、コリント教会との一体感をもっていることを明かします。
いったい、「信じる」とはどういうことを謂うのでしょう。案外、私たちはそれに対する明確な答えをもっていないような気がします。いえ、明確な答えなどない、というのが本当のところであるかもしれません。私たちはそれぞれの立場から、それぞれの角度から、それぞれの「信じる」ということをもっているのではないでしょうか。
ある人は、「神さまって本当にいるんだよ」と、「存在」を信じることが大切だと考えているかもしれません。ある人は、「神さまは私を助けてくれる」と信じています。神の力や、神の業を、自分に及ぶこととして捉えているのです。またある人は、「神さまは見守ってくれる」と思うかもしれません。実際に奇蹟を起こしたり、癒やしたりはしないかもしれないが、確かに自分は神に見守られている、という感じ方をしている、というのです。
他にも、「神さまは私を天国に連れて行く」という確信をもっている人もいるでしょう。そして、これらすべてについて、神はそのようにしてくださるのだ、と信じていることも当然あり得ることです。どれが正しくて、どれが間違っている、ということはできないでしょう。そして、それらが独り善がりでないという安心を得たいならば、聖書を、特に福音書を幾度も読み返すことが望ましいと思えます。その都度その都度、信仰とは何かを示し、あなたは何を信じるかと問いかけていると思うのです。
ここでもパウロは、嘆きまくりたいコリント教会の信徒を相手に、信じる者にはすでに内にイエス・キリストがいるのだ、とぶつけます。キリストは強い方です。あなたがたの内にいます。人に弱さがあって然るべきですが、キリストは神の力にあって、弱さを超えて強さをもたらします。キリストは強い方なのです。
◆エゼキエルの幻
旧約聖書からも、慰めを受けたいと願います。もうひとつ、預言者エゼキエルの書を開きました。エゼキエル書といえば、37章の枯れた骨の谷の場面が有名です。恐らく幻の内に、エゼキエルは枯れた骨の谷に連れてゆかれ、それらが生き返るか、と神に問われます。神はその骨らをつなぎ合わせ、肉と皮を生じさせ、神の霊を吹き込んで生き返らせます。死に体となったイスラエルが復活することを象徴するのです。
その場面の少し前の34章をお開きしました。エゼキエルの見た幻は、イスラエルのこれからのことを知らせると共に、いまそれを聞く者に、希望と勇気を与えてくれます。それによると、神が、ご自身の群れを捜し出し、救い出します。そして養います。そこには良い牧草地があるといいます。
16:私は失われたものを捜し求め、散らされたものを連れ戻し、傷ついたものを包み、病めるものを力づける。しかし私は肥えたものと強いものを滅ぼす。私は公正をもって群れを養う。
どうしようもなく打ちのめされ、滅んだも同然の小国イスラエルに、くすぶるように残る信仰を呼び起こします。そればかりか、強い帝国の方が次は滅ぶのだ、とまで告げ、それこそが公正な神の業である、と聞かせるのです。
その姿は、古代のイスラエルだけでしょうか。昔話でしかないのでしょうか。私たちはどうでしょう。私はそこに自分の姿を見ます。ぼろぼろの姿であることにさえ気づかなかった私が、その本当の姿を思い知らされ、罪の中に死んでいたことを思い知らされます。滅んだも同然の自分でしたが、神はそんな私を見出してくださいました。それまで私は神を知らなかったのですが、たとえ私が知らなくても、神は私を知っていました。私が罪を知り頭をハンマーで殴られたような衝撃を受けた、その時を定めたようにして、神は私を呼び出したのでした。
呼び出されはしましたが、私自身には、立ち上がる力はありませんでした。私の中には、そんな力は残されていませんでした。自分には力がない、ということまでも痛感させられたのです。
そういう経験は、イエスが逮捕された後、イエスの弟子たちは噛みしめたのだと思います。死んでも従うなどと粋がっていたくせに、自分には何の勇気もないこと、自分が如何に弱いかということ、それを思い知らされたに違いありません。打ちのめされたことのある私には、その気持ちが少し分かるような気がします。
◆信じているか
キリストはあなたがたに対して弱い方ではなく、
あなたがたの内にあって強い方です。(コリント二13:3)
幾らパウロを貶めても、神はあなたがたに対して黙って見過ごすことはなさらない。パウロはそのように、コリント教会の不埒な者たちに突きつけます。殆ど脅しのようですが、時にこうして強い口調で責めます。それは、神の突きつける刃のように鋭く迫ります。
パウロは、弱々しい存在かもしれません。コリントの強気な者から見れば、実に弱いようにしか見えないかもしれません。しかし、何よりも神はそんな弱い方ではありません。神がいまあなたがたを放任しているように見えるからといって、好き勝手なことをしていると、神は黙ってはいません。神は強いのです。あなたがたをやがて裁くことになるでしょう。パウロは、そういう神を以て、脅しをかけているようにも見えます。
キリストは、イエスの十字架の死という、最高に弱い形で現れました。しかしキリストは、神に生きています。神により復活されたのです。キリストはその強さを以て生きています。パウロもまた、同じ神によって生かされています。パウロも、神の強さを受けているのです。
パウロが愛しつつ、しかし愛するが故にその傲慢さや勘違いを嘆いた、コリント教会。そのコリント教会の姿は、私たちにとり、他人事なのでしょうか。遠い世界の、遠い昔の話なのでしょうか。それを他人事に見て、よいのでしょうか。
私たちは、礼拝説教が神の言葉であり、神の計画の実現する場を生むということを、いったい本当に信じて、神の前に出ているでしょうか。神の言葉を信じ、それを受けて、その結果神の言葉と霊が、私たちの内なる力となって生き働いているでしょうか。
本当に、神の言葉を聴いているのでしょうか。そして、説教を語る者は、その生きた神の言葉を、語っているのでしょうか。
いま、キリストがこの会堂に、説教の中に立っています。強いキリストが、立っています。キリストは、教会を戒めます。厳しい言葉ももたらします。でもそれと共に、教会を建ち上がらせる強い方としても、立っています。このことを、信じているでしょうか。信じられるでしょうか。
私たち一人ひとりもまた、主にあって強くなるということを、信じているでしょうか。