錨はないが怒りはある
2026年5月16日

平和の時には、息子らはその父を葬り
戦いの時には、父たちはその息子を葬る
ヘロドトスが、ペルシア戦争について著した中にあるそうだが、この言葉を先般、日野原重明先生の『老いを創める』という本で知った。それは、来栖三郎元駐米大使が、第二次世界大戦で戦死した息子の墓石に、この言葉を刻んだ、という記述であった。
来栖三郎は、ベルリンで日独伊三国同盟に調印した後、大東亜戦争直前の日米交渉に関わったという。どこかで聞いた……と思って調べたら、加賀乙彦の『錨のない船』が、この来栖三郎をモデルにして描いていた。
その小説についての感想文めいたものを、かつて書いている。いまそれを掘り起こすことにも少しは意味があるものと思ったので、以下にそれを再掲しようと思う。私がいま、時代がとても危ない、と睨んでいるからだ。
『錨のない船』(加賀乙彦・講談社)
『宣告』で出会った加賀乙彦氏の小説も、その後たくさんを読んだわけではなかった。ただ、カトリックの洗礼を受ける過程など、報道されたことについてはずっと注目していたし、新書で触れることもあった。この小説の存在はずっと前に知っていたのだが、買いそびれてずっとそのままになっていた。それがずいぶん久しぶりに、古書店で格安に美本が上下揃っているのを見かけてすぐに購入してみたのであった。
小説を読み慣れないせいもあるし、なにしろ長編である。一冊で400頁を超えるので、電車の中で主に読む私としては、日数を要した。だが、内容はずっと心を捉えていた。
来島という大使とその家族を追う物語である。それは、かの真珠湾攻撃の時の外交を担っていた人物であった。これが下巻で読み終わった後の「あとがき」で、ようやくその辺りの事情が説明されるので、まあその方が適切ではあろうかと思うが、私は実録ものであるのかと思っていた。創作なのだそうだ。名前の似た人物が実際にいて、その家族に戦死した若者がいたというあたりの情報を聞きつけてから、作家の想像力が羽ばたいていったものらしい。従って、一定の史料に基づいてそれなりの事実を踏まえてはいるものの、人物像や家族、とにかく人間関係の殆どは創作なのだそうである。しかし、ずいぶんとリアルであった。リアリティがあった。
小説であるから、ネタバレを避けたいと願っている。この来島は、小説では真珠湾攻撃がなされることを知らずに交渉をしていた。確かにそれが成立しなければ戦争へと進むことは誰の目にも明らかだった。だが来島自身は平和へと導きたかった。そこへ、奇襲攻撃の知らせが入った。つまり交渉決裂の故に宣戦布告を突きつけてから攻撃したというのではなかったの゛だ。後にこれが、来島の評判を米国で落とす。分かっていて演じていただけで、時間を稼いで攻撃を有利にしたのだ、と。
来島の妻はアメリカ人だった。確かに「だった」。日本国籍をとり、日本人として生きる上での覚悟はできていたし、事実そのままに振る舞った。物語は最後に、この妻が幕引きをする形になる。2人には子どもたちがいたが、途中から健またはボブという男子に主人公が移るような形をとる。実は加賀乙彦氏が耳にして魅力を覚えたのは、この健のモデルの人物であった。
健はハーフという姿ではあるが、日本男児として招集される。見た目のために誤解を受けたりひどい扱いを受けたりするが、魂はひとに負けないものがあった。飛行機の開発に勤しむのだが、このメカニックな描写と軍隊の内実について、ほんとうによく調べて描かれている。たいへんな臨場感を伴いながら、物語は進む。
タイトルが「錨のない船」と不思議である。飛行機の開発と操縦ばかりなのに、どうして船なのか。この意味は、下巻の214頁に会話の中で明かされる。ネタバレにもなるのでこれは記さない。しかし、私は違うようにも感じた。耳で聞くとそれは「怒り」である。作者は、この物語を読む者が「怒り」を懐くことを予想していたのではないだろうか、と感じた。事実私は下巻のそこから後の場面では、怒りを強く覚え続けていたのである。
米軍の占領の様も、いけすかない様子ばかりが見せられる。占領軍であるから、甘く優しいはずなどないのだが、理不尽もいいところだ。極東軍事裁判の背景も、こじつけや強引な結論ありきの見せかけの裁判である様子が描かれている。来島自身は、軍事裁判にかけられずに済むことになるが、その後のありさまについても、読んでいてもどかしいというか、憤るというか、気持ちのよいものではない。その中で女たちが赦しているさまも印象的である。
真珠湾攻撃の背景については歴史的にもいろいろ言われているが、本書のような理解が近年の強い理解となっているようだ。従来、アメリカのみならず、日本政府外務省も、大使館員の職務怠慢が通告の遅れだ、という見解を示していたが、小説はそれに真っ向から「違う」と述べる。来島自身がなんとかそれを証ししようとするが、聞き入れてもらえず半ば殺されるような結末を迎える。そのために謎となってというのだろうか。
しかし、どうして戦争が始まったか、というあたりは、作者の怒りがそこかしこから伝わってくるような気がする。言葉は悪いかもしれないが、ばかばかしいのだ。真珠湾攻撃がもう決定的に、日本の敗戦をもたらしたのだ。権力をもつ者が、自らは戦地に赴くことのない者たちが、それをもたらしたのだ。
平和な時代であれば、子が親を葬るだろうが、戦争はその逆をなす。これはもう逆説などでもなく、怒りの対象としてよい。小説は、不思議なことだが、はっきりとテーゼ化していないにも拘わらず、読者の心に何かしらつながる感情を与えようとする。はっきりと言語化できないかもしれないが、それを伝える。しかし来島家は、その中でゆるしを与え、希望を受け止め、怒りを自らの中に大きくさせることなく、歩んでいくのである。船が家族を象徴することができるとすると、私はそこに、感慨をもつ。
文学という形で、戦争の愚かさを訴え、伝えられていく。何もそのために小説を著したのではないとは思うが、私にしてみれば、そのように受け止めるほかないという具合である。