看護の日と赤十字

2026年5月12日

世界赤十字デーが5月8日、アンリ・デュナンの誕生日(1828年)である。そして看護の日が5月12日、フローレンス・ナイチンゲールの誕生日(1820年)である。そしてこの12日を挟む日曜始まりの一週間を、看護週間と名付けて、アピールをなし、理解を深めてもらえるようにしている。
 
2026年は、折しもNHKのいわゆる朝ドラで、看護婦(看護師)の草分けとなった人物たちの物語が放送されている。看護週間の催しに、その主人公役の俳優が出演している報道があった。ドラマは、看護学校で学ぶことや、その地位の構築についての歴史を辿るようなところがあるし、ナイチンゲールの切り拓いた看護の思想を、世の中に知ってもらうひとつの契機となっているように思う。
 
残念ながら、原案の本を殆ど無視して全く別の物語にしているので、原作本を知る者としてはがっかりしている。特に、信仰の「し」の字も出てこない点は、原案も史実も完全に蔑ろにしているとしか言いようがない。原案の本を見ると、大関和が、信仰によって看護の仕事を始め、貫いていることがとてもよく分かる。周囲の人たちもそうだ。植木正久が看護婦を勧めたことも、嫁して強いられていた畑仕事を手伝った少女たちが遊郭に売られたことを悲しみ、校長代理や院長たる矢島楫子と、廃娼運動に関わったことなども、看護婦誕生の背景としてとても重要なポイントであるのだが、全くその気配がない。脚本家は、やはりクリスチャンの新島八重についても、「八重の桜」でその信仰に触れることができなかった。幾らミッションスクール出身だからといって、キリスト教を知らない人に脚本を依頼すると、何も描けないのだということがよく分かる。
 
日本赤十字社は、何年か前から、上白石萌音さんがアンバサダーとして活躍している。いまは、そのCMの背景にUruさんの歌が流れていて、涙が出そうになる。姉夫婦が赤十字関係で活動していたこともあり、活動の一端に参加することがあった。それで高校生では、青少年赤十字が私の部活動だった。聾学校や、自閉症の幼子たちの集いを訪ねることを定期的にしていたこともあった。弱小クラブだったが、校内献血を企画して実行に辿り着けたのは、ひとつの仕事だったかもしれない。
 
個人的に献血も、ずいぶん長い間させてもらった。血液検査の結果を送ってきてくれるのと、ジュースをもらえるのが、案外楽しみだった。
 
アンリ・デュナンについても、当然基本的なことは知っていたわけだが、ナイチンゲールとの関係を知ったのは、後のことである。妻は本来、マザー・テレサに憧れて看護学校に入った。朝ドラで紹介された、ベッドメーキングでは最初苦労していたようだ。戴帽式も、家族のような顔をして見た。以後、私には、中途半端な医学知識や、かねてから愛読していた『ブラック.ジャック』に描かれた奇病の知識が身につくようになった。ナイチンゲールの『看護覚え書』は、もっと後になってから手に入れて読んだ。
 
イギリスのナイチンゲールは、兵士の看護から看護学を築いたほかに、職業看護婦としての地位確立を願っていた。報酬なくして看護職は成立しないのである。自己犠牲に基づく看護が続くはずもなく、看護婦の地位も築かれない、としたのである。実際の現役看護婦としての期間は短かったが、統計学を応用して、看護を学問にもしたのであった。そのためにヴィクトリア女王に膨大な報告書を提出し、衛生改革を実現した。だからどちらかと言えば、組織確立と理論的な基盤をこしらえた、と言ったほうが適切であろう。
 
対してスイス人のアンリ・デュナンは、奉仕の精神をモットーとした。そこが、ナイチンゲールとは方向性が違ったのである。赤十字の組織を設立した中心人物であったが、後生、銀行の倒産や事業の失敗から赤十字委員会から辞職を求められ、20年ほども、誰からも知られずに暮らしていた。それを新聞記者が見出して報道したことから、世はデュナンのことを思い起こし、ついに数年後、第一回ノーベル平和賞を受賞することとなった。その賞金は、殆どすべて、赤十字社に寄付されたという。
 
赤十字のマークは、デュナンの祖国であるスイスの国旗の色を反転させたものである。しかし、イスラム諸国では、十字形を使うことを求めなかったが、運動そのものには賛同し、三日月のマークの「赤新月社」として活動している。目的は何も変わらない。



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