両手いっぱいの祝福
2026年5月11日

復活祭から40日を数えた日、教会では「昇天日」と呼ぶ時を刻むことにしている。今年は復活祭が4月5日であったから、昇天日は5月14日木曜日となっている。カトリック教会では、その次の17日の主日を、主の昇天の祭日として祝うのだが、プロテスタントでは定まった主日はもっておらず、まったくその日を気にしない教会も少なくない。
当教会でも、とりたてて昇天日、という扱い方はしていないが、この14日に先立って、本日10日、その昇天にまつわる場面が礼拝説教で取り上げられた。となると、しばしば使徒言行録の最初の箇所がよく読まれるのであるが、今回はルカ伝の最後の4節であった。なかなか渋い選択である。ルカ伝と使徒言行録とは恐らく同じ筆者によるものと見られているため、同じような場面がオーバーラップしている中で、より詳しい描写が光る使徒言行録を、私たちは普通開くのだ。
説教者は、キーワードを拾い、それを深く想うという形で、四つの節を辿って行く。まず「それからイエスは、彼らをベタニアまで連れて行き、手を上げて祝福された」というところだが、「ベタニア」という場所について思い起こすことをした。そこには、親しかったマルタとマリアとラザロの兄弟がいた。そこには、愛と交わりがあった。涙と慰めがあった。死と復活があった。説教者は、私たち一人ひとり、それぞれのベタニアがあるはずだ、と指摘する。神の大いなる祝福を思い浮かべるのだ。
また、「手を上げて祝福された」も、注目するべき箇所だった。今日は、「祝福」を軸として、メッセージが回転するのであった。まず、「手を上げる」についてだが、これは日本語訳の不備と言えば不備である。「手」が複数なのである。
礼拝の終わりのほうで、「祝祷」と言って、牧師が会衆に祝福を祈ることがある。たとえば今日の説教でも触れられたが、民数記6:24-26の言葉を告げることがあるのだ。
24:主があなたを祝福し、あなたを守られるように。
25:主が御顔の光であなたを照らし/あなたに恵みを与えられるように。
26:主が御顔をあなたに向けて/あなたに平和を賜るように。
この祈りのとき、両手を挙げる牧師がいるのだ。もともとユダヤ系の祈りは、手を挙げていたことはよく知られている。しかしこのイエスの昇天の姿に於いて、両手がしっかり上がっている。確かに、祝福が全体を覆うようではないか。
その両手には、釘打たれた傷かあったに違いない。説教者はこの礼拝の中で、イエスの祝福の姿をずっと定位置に掲げたまま、最後まで語り続けたが、この掌への視線の促しは、心が震えさせられた。しかも、ただ十字架の傷、という物理的な説明ではなかったのだ。その手は、裏切りを受けた手だったというのだ。誰が裏切ったのか。ユダか。当然だ。見捨てたペトロたちか。それもあるだろう。だが、この「裏切った」という原語は、他の箇所では「引き渡した」と訳し分けられている。
私は、もしかすると「裏切った」のではないかもしれない。だが、自分の身を守るためにイエスを「引き渡した」というのは、思い当たることがあるのではないか。否、よくよく考えてみれば、イエスを「裏切った」のも確かだ。イエスに救われた。愛の言葉を受けた。慰められ、励まされた。だが、隣人に私は何をしただろう。何を思っただろう。立ち上がることを拒み、いじけていたことだろう。すべて、イエスを「裏切った」ことになるではないか。
しかし、この説教者の説教は、私たちが自分を責めるようには導かない。もちろん責めてもよいのだ。それは必要なことなのだ。自分の罪を覚ることがなければ、神の恵みは分からないのだ。だが、そこに留まる危険性もあるし、なにより説教を聞いて喜びが与えられるようにはならない。
弟子たちはイエスを伏し拝み、それから「大喜びでエルサレムに戻」った、というところを説教者は強調したのである。確かに人生には疵があろう。教会にも、疵があろう。だが、同時にそこには神の絶大な祝福があるのだ。それを信じるということは、自分の中のくよくよする思いや先行きの不安など、小さなことになるはずである。神は大きくて、人の思いでは計り知れないと分かっているのならば、神の祝福に包まれるとき、そこに身を委ねることができる、と教えられるのではないだろうか。
弟子たちは「絶えず神殿の境内にいて、神をほめたたえていた」という。「神殿」を、私たちはイメージとしては「教会」と読み替えてみるとよい場合が多い。イエスの弟子たる者は、教会にいつも来て、神をほめたたえるのだ。いつもイエスが共にいる。教会という建物に住んでいるわけではない。だが、教会という建物には、イエスに救われ、イエスに従いたいと願う者たちが集う。その人の信仰の集いの真ん中に、イエスは立つ。復活のイエスはそのようにして、弟子たちのいる真ん中に現れたではないか。
説教者は説教の初めに、このような主の祝福が限りなく続くことを告げた後に、教会へのひとつの定義を発した。それは礼拝の場である。また、信じる者たちの共同体である。しかし、そこで強調されたのは、こういう定義であった。――教会とは、イエス・キリストに祝福され、その恵みの中を生きる群れである。
それは、キリストにあるならば、誰でも、自らの罪を痛感し、自らの絶望を知り、しかしその自分の外から、イエス・キリストが救いをもたらした、という経験を証しとして有っている、ということを信頼しているからであろう。
私は、どうもそれが信頼できていない。本当に私たちは、自分の罪を知っているのだろうか。私自身も、「本当に」と問われれば、自信がない。ただ、自分の罪が分かっていない人が講壇で説教をし、それを聞く側も、そのことに何も気づかない、という現実を目の当たりにすることが幾度となくあった。そのために、どうしてそれが分からないのか、という思いがどうしても強いのである。
だがそれは、自分の正しさを前提としている考え方に違いない。正しいのは神だけである。イエスの言葉にのみ、正しさの基準を置くがいい。だったら、聖書は何を言っているか。いっそう、礼拝説教に耳を傾け、そこから受ける言葉が、出来事へと熟すことを求めることで十分ではないか。
さて、実はこの説教で最も大切な言葉について、ここまで検討してこなかった。説教者は、一度そのことに触れている。ただ、とても軽く、ほんの一瞬だけだったことが、私としてはもったいなかったと思う。説教の時間そのものは比較的短く、教会行事の都合も特になかったので、次の点について、もう少し深める時間があってもよかったのではないか、という気がしたのである。
それは、「祝福」という意味である。
説教者は、「祝福」という言葉は「よい言葉を語る」という意味だと一瞬漏らした。そして、恵みの言葉、赦しの言葉、救いの言葉をいまも語り続けている、と指摘して、次の話題に移っていった。本日の中心概念である「祝福」の意味そのものについて何かしら告げたのは、これだけであった。
「祝福」というギリシア語は、「よい」と「ロゴス」とをつないでできた一語である。合成語というものは、必ずしもその部分の意味だけで説明できるものではないし、語の成立が必ずしもそのような分析で正しいかどうかも、分からないものだ。ハイデッガーは、ギリシア語をそのように、語の成り立ちから相当に発想を膨らませて、その思想を展開していった。それも学ばされるのではあるが、果たして古代ギリシアの人々が、そのような意識で言葉を使っていたかどうかは疑問である。私たちが「こんにちは」と挨拶するときに、相手の心情を必ずしも思いやっていないように。
だが、やはり気になる。「祝福」は「よい」+「ロゴス」から成る語である。「ロゴス」は実に様々な訳語が可能になる。聖書では「言」としている場合があるが、「理性」とか「論理」「比率」「秩序」など、ひとつところに落ち着かない概念である。しかし、それが「よい」という価値判断を冠するとき、私たちはその「よい」方に引き寄せられる。
神が私たちを、教会を、祝福してくださる。教会によいものをもたらすのだ。神は善なる方としても、神は悪に対しては裁きをなす。しかし「祝福」というときには、「よい」ものを与えるのである。それが声によるものであれば、祝福の言葉であろう。それが物であるならば、物品をもたらしてくれることになるかもしれない。それが傷病に対するものであれば、癒やしということなのだろうか。
否、それは誤解や失望を招く可能性がある。貧乏な人は、神に祝福されないことになる。癒やされない人は、神に祝福されないことになる。そのように決めつけることはできまい。律法学者やファリサイ派の人々たちとイエスが闘ったのは、そういう決めつけに基づく宗教社会の故ではなかっただろうか。
53:絶えず神殿の境内にいて、神をほめたたえていた。
弟子たちは明るい気持ちでエルサレムに戻った。ルカ伝で弟子たちは、マルコ伝のように、ガリラヤ湖からリスタートするようなことをしない。イエスはひたすらエルサレムを目指して進み、そこで十字架と復活を経ると、次は聖霊という形で弟子たちを動かし、エルサレムから全世界へ福音が広がってゆく、という一方向的な福音伝播のシナリオをルカは用意していた。弟子たちは、うれしい気持ちを懐きながら、エルサレムで聖霊が降りる野を待機するのである。
そこで、神殿、つまり教会にいつも来て、神をほめたたえていた、とルカ伝は完全に結ばれる。この「ほめたたえていた」の原語は、今日の箇所で二度用いられていた、「祝福する」と同じ語なのである。
私たちの主イエス・キリストの父なる神が、ほめたたえられますように。神はキリストにあって、天上で、あらゆる霊の祝福をもって私たちを祝福し、(エフェソ1:3)
ここには、「祝福」の語が二つ見える。名詞と動詞という違いはあるが、同じ語と見なしてもよいだろう。ところが「ほめたたえられますように」も、形容詞ではあるが、同じ語なのである。人が神をほめたたえること、これもまた「祝福」なのであるが、これはどうにも日本語として同じ語と分かるような表現をとることができない。ところがこれを英語だと三箇所すべて「bless」を使って示すことができるのである。
神が人に、教会に、よいことをもたらす。そうすると、人は神に、よいことをもたらす。この相互の営みが、ここに美しく表されている。私たちは、人と人との間にも、互いによいことをもたらすようでありたい。それが平和というものではないのか。
それは到底無理なのかもしれない。カントが言うように、そうした理想の姿は、永遠に到達しないから、人間はそこへ向けて日々前進するしかない、というのが現実的であるのかもしれない。また、そうだからこそ、いつか神がガツンとそれをもたらすのだ、ということになっているのかもしれない。
だが、キリスト者は何のためにここにいるのか。自分のことはさておいて、他人に平和を要求するためにいるのではない。自分が神との間に平和を得ていることなく、理想を他者の義務とするためではない。まず、この私が、神との間に、よいことをもたらし合う関係を確立することである。互いの間の祝福が、まずここにできるならば、それが拡がる希望も生まれるに違いない。
そしてそのよいものは、パウロやヨハネグループが強調するように、「愛」であるのだろう。神が世を愛した、そして私を愛してくれた、その「愛」なのだろう。