【メッセージ】教会を省みよう
2026年5月10日

(マラキ2:1-9, コロサイ2:20-23)
だが、あなたがたは道を踏み外し
多くの人を教えてつまずかせ
レビとの契約を破棄してしまったと
万軍の主は言われる。(マラキ2:8)
◆イエスの復活を振り返って
復活のイエスを、私たちは追いかけて聖書を読んでいます。復活のイエスと、弟子たちが出合ったときの記事を、復活祭以後は読んでいらっしゃると思います。弟子たちのその出合いにより、彼らは劇的に変わった――というわけではありません。変わったとすれば、それは五旬節の不思議な出来事を境にしてのことです。少なくとも使徒言行録は、そのように記しています。
最初、弟子たちはイエスの遺体を収めた墓が空であることを知りました。その後、復活のイエスを見ることになります。弟子たちは、跳び上がるほど喜んだようですが、それからガリラヤ湖に戻って漁師の仕事を再び始めた、という記事もありました。それを見て、弟子たちは所詮意気消沈したのだとか、せっかく復活のイエスを見たのに、信仰のないことだとか、弟子たちの意気地の無さを指摘するような人もいます。
私は必ずしもそうとは思いません。少しばかり想像してみましょう。自分たちのリーダーが当局に逮捕されました。メンバーは散り散りに逃げました。本能的に、捕まりたくないから逃げたのでしょう。リーダーは直ちに裁判にかけられて、死刑が執行されました。その有様は公開されていましたが、弟子たちは殆どまともに見ていないような気配です。ただ、リーダーの遺体は通常とは異なり、棄てられずに、丁寧に埋葬されました。
そこに、墓に遺体がない、という知らせを、安息日明けの早朝に、仲間の女たちが知らせてきました。メンバーの二人が確かめに墓へ走ります。確かに遺体は消えていました。そのリーダーは蘇ったのだ、とすぐに思ったかどうかは疑問かもしれません。そういえばリーダーはかつて、自分は殺される、と言っていた。彼らは思い出します。殺されるなんて、そんなことあってなるものか、と思っていたけれども、そのときリーダーは付け加えるように、自分は三日目に蘇る、と言っていたような気がする。
メンバーは集まって、時を待ちます。何かあるはずだ。リーダーの仲間ということで、自分たちが当局から目をつけられているだろうから、おおっぴらには外に出られないけれど、とにかく隠れて集まって、祈るしかない。
どんな雰囲気であったのか、私にはよく分かりません。ただ、そんなメンバーのアジトに於いて、彼らの真ん中に、突如イエスが現れました。
◆待機
復活したイエスは、いろいろな形で弟子たちの前に現れています。そしてガリラヤへ行くように促したり(マタイ28:10)、エルサレムに留まっていよと命じたり(ルカ24:49)して、福音書の間でも揺れが見られます。弟子たちは、すべての民を弟子とするようにも励まされました(マタイ28:19)。
ただ、それらの命令には、あまり具体性がありません。それに、イエスはそう度々姿を見せたわけではありません。弟子たちは、今度いつ復活のイエスに会えるのか、分からない状態でいたのではないかと推測します。弟子たちの間では、どんな空気が漂っていたのか、想像してみるも面白いと思います。
「で、これからどうしようか。」「待っていろと言われたけどな。」「どうやって、どこで待てばいいのだろうか。」「でもガリラヤへ行け、と言われたな。」「この先、どうなるんだろう。どうすればいいんだろう。」
このときは、まだ聖霊が降りていなかった、というのがルカ伝と使徒言行録の見解です。だから、明確に霊を受けて示される体験のないままに、弟子たちは戸惑っていたのではないでしょうか。
はっきりと、こうすればいい、という指針がないのです。その状態を、人間的かもしれませんが、精一杯想像してみます。それだったら、ペトロたち漁師出身の弟子たちが、田舎に帰って、漁の仕事をしていたからといって、ある意味で当たり前のことではないでしょうか。仕事をしなければ食っていけないとなると、尚更です。
どうしてこんなことを言うかというと、ヨハネ伝21章で、ティベリアス湖に弟子たちの内の7人が漁をしている様子を、悪く言う説教者がいるからです。イエスへの信仰が足りないから、伝道を諦めて元の生活に戻っていたのだ。イエスに従っていた弟子たちは諦めてしまったのだ。そんなふうに語る人がいるからです。
しかし、明確な行動指針がないのです。その状態で、とりあえず生活のために魚を獲っていたからと言って、それほど非難する必要はないのではないでしょうか。聖書の証言では、むしろこの後聖霊を受けて、何をするべきかが教えられ、エンジンがかかった、と言うことになっています。そのために、それまでは引っ込んで隠れて仕事をしていたとしても、不思議はないと思うのです。
どうしてよいのか、分からない。私たちだったらどうでしょう。「何かしなければ。」「こうすればいい。」「こんなふうにするとよいのだ。」そんなふうに焦ったり、知ったかぶりをしたりするならば、それはただ「人間の知恵」で何かをやろう、としているに過ぎません。
だから私は、漁をしていた弟子たちを、偉いと思うのです。自分の知恵で何とかしようとしたなら、きっと人間の知恵に基づく、人間臭いことばかりして、神の業を信じることとは正反対の向きに進んだかもしれません。つまりまた、人間の知恵を正しいこととして構え、逆に暴走するようなことから、弟子たちは護られていた、ということになるかもしれません。
自分の考えが正しい、と推し貫くような気持ちは、彼らには少しもなかったのです。
◆マラキ書
さて、旧約聖書にも私たちは馴染みたいと思っています。旧約聖書には、私たちのカウントの仕方では、39巻が並んでいます。ユダヤ教での並べ方と少々違うところがあるのですが、キリスト教側で決めている並べ方では、最後に並ぶのがマラキ書です。マラキ書は、預言者マラキの言葉から成っており、旧約と新約とをつなぐ架け橋のように呼ばれることがあります。
マラキ書の一部が、新約聖書の洗礼者ヨハネの登場を示唆している、と言われからです。マラキ書を読み、そのまま続きの新約聖書に入ると、確かに間もなく洗礼者ヨハネが登場しているため、新約聖書への橋渡しをしているかのようにも見えるのです。
ただ、描かれている時代としては、ずいぶんと差があります。そして、多くの預言者が、指導者と民が、主なる神への信仰を離れたことを非難しているのですが、マラキ書は少し雰囲気が違います。登場する指導者たちは、主への礼拝をきちんと行っているのです。それでも、マラキはそこに批判の目を向けるのです。いえ、激しい非難をぶつけています。
私はあなたがたを愛してきた――主は言われる。(マラキ1:2)
神は、イスラエルの民を愛してきたのです。けれども、適切な礼拝がなされていない。ここからだんだんそのような批判を神がぶつけてきます。マラキの言葉は、礼拝をしないことについてではなく、礼拝の仕方がおかしい、と言ってくるのです。旧約聖書の歴史を描いた巻では、しばしば王が神を礼拝しなくなった、あるいは他の神々を礼拝した、という不信仰を非難します。しかしマラキの標的は、明らかに祭司です。祭司とは、礼拝を司る担当だからです。
この時代、礼拝とは、献げ物を中核にするような儀式だったと思われます。動物を殺し、それを焼いて天に煙を送るのです。しかしマラキ書を見ると、どうやらその献げ物というのが、傷のある動物を使っていたようです。傷のない動物を献げるよう、旧約聖書の律法は規定しています。
どうして傷のない献げ物でなければならないのか。もちろん律法にそう書いてあるからには違いないのですが、理屈を考えてみても、神が新品を欲しがるさもしさからではありません。神はそんな献げ物を求めて怒っているのではないのです。「献げる」という、人の心の方を求めています。傷のあるものを献げるということは、良い部分を人間のためにとっておいて、神には価値の低いものをやっておく、という態度を示すわけです。神など二の次にして、自分の欲望を第一としているからです。神にはこれくらいのものでも献げておけばよいだろう、と見下していることになるように思われます。
◆祭司
献げ物について責任を負うのは、祭司でした。いまで言えば、やはり牧師という立場がそれに匹敵すると思われます。教会運営も忙しいでしょうが、なにより礼拝を司るというのが最大の仕事だと思われます。そして信徒の信仰を育む教育者の使命も有しているわけで、先生が理解していないことを生徒に教える、ということが、当然ですができないことを弁えておく必要があるでしょう。
祭司へ向けて、預言者の声はまっすぐに向かいます。「今あなたがたにこの命令が下される」と厳かに告げます。預言者の警告に対してどうするか。事と次第によっては、「祝福を呪いに変える」というところまで言い及びます。「いや、すでに呪いに変えてしまった」と直ちに言い加えていますから、実のところこのマラキの言葉は、選択を求めているのではなくて、ある意味でもう裁きが決まっている段階を現しています。
懐を膨らませながら、実のところ厳しい裁断を決められている。却って恐ろしいものです。もう、これまでのイスラエルの祭司の態度が、裁かれています。この警告をすら、「心に留めなかった」というところまで見通しています。
イスラエルの宗教を導く立場の祭司が、傷物を献げるという、合理的な計算をしていた。マラキは、そう見破ります。そうです。これは、単に自分の欲のため、というよりは、「合理的」な判断をしていることになります。
ふと、思います。教会で献金を募るということにも、実のところ教会のあれやこれやの費用が必要なのだ、ということで募るとすれば、こうした「合理的」な判断に基づくものではないのか、と。予算を決めて決算を出すことは、宗教法人としては義務なのかもしれません。この世の務めであるから必要なのかもしれません。ですから純粋に、「神に献げましょう」と呼びかけるのと、「何々を買うために献げましょう」と呼びかけるのとを、恐らく私たちは区別していません。でも、マラキ書をいま受けながら、私は、そこにも何か光が当てられているような気がしてきました。
では、マラキは何をするように期待しているのでしょうか。
レビと結んだわが契約は命と平和であり/私はそれらを彼に与えた。/それは畏れをもたらす契約であり/彼は私を畏れ、わが名のゆえにおののいた。(2:5)
レビ人というのは、儀式を司るイスラエルの役職であり、祭司の助けをする人々です。いまの教会でいうならば、役員や執事のような代表者が近いかもしれませんが、このレビ人は、他の仕事をしないような立場とされていますので、教会専属の人のようなことになりそうです。日本では、よほど大きな教会でないと、いないかもしれません。
いえ、マラキが契約を結んだ、というのは、レビ人だとは言っていません。単純に「レビ」です。これならば、十二部族のひとつであり、言うなれば祭司も含むような形で、とにかく宗教祭儀のために働くグループ全体を指していることになります。神は、イスラエルの宗教の担当者たちに、主への信仰を調え、人々を礼拝に導くように、使命を与えたことになります。
この後、歴史的な情況の変化もあって、イエスの時代には、イスラエルの民の共同体は、ローマの属国としての位置にありました。福音書にある「サドカイ派」が、およそこのレビ人に相当するのではないか、とも思います。特にイエスの時代には、動物犠牲を献げるような形で礼拝が行われにくくなっており、シナゴーグという会堂で集まり、聖書が読まれ、勧めが語られるスタイルになっていたのではないかと思います。
それは、いまのキリスト教会の礼拝の形の原型だと言えるものです。祭司と呼ばれるエリートたち、あるいはさらにそのトップの祭司長たる者の役割は、またマラキ書に言われるものとは変わってきているのだと思います。
ところが、気づきたいことがあります。16世紀以降、プロテスタントと呼ばれるグループが、カトリック教会から分かれて出てきましたが、その考え方たるプロテスタンティズムに於いては、「聖書のみ」「信仰のみ」という合い言葉と共に、「万人祭司」という原則が掲げられました。すべての人が神の前には、聖書で言う祭司の役割を果たすのだ、というわけです。
神は教皇や司祭など、特別な立場の人とのみつながり、他の人々はそれら司祭を通じて神から恵みを受ける、というような構造を廃したのです。ルターを初めとする新たなグループは、一人ひとりが神とつながり、神の前に平等である、とする考え方を基本に置きました。キリスト者一人ひとりが、祭司の役目を負うこととされたのです。
◆律法学者やファリサイ派の人々
イエスの時代には、祭司長という権威が、サドカイ派の指導者として立ち、イスラエルの民の信仰を決めていた、ということを確認しています。ローマの支配は、宗教に於いて必ずしも制圧的ではなく、一定の自由は認めていました。そもそも広い帝国を支配するのに、思想や信仰をすべて改めさせる、というのは得策ではありません。取り締まりのエネルギーを要することです。帝国に反逆する者だけは見せしめでもし徹底的に弾圧しますが、個人としての生活については比較的自由にさせておくことで、属国として安定した支配をすることができる、と考える方が利口です。
イエスの目には、そのような祭司グループの姿勢は、民衆支配の姿を呈しており、また神に対する信仰としては偽善であるように見えました。サドカイ派は、宗教的であると共に、政治的な立場です。ファリサイ派は、サドカイ派とすべて同じ考えとは言えず、政治的権力を振りかざしたわけではないけれども、宗教については模範的な位置にありました。社会運動をしない教会を想定すると、少し雰囲気が伝わるかもしれません。
宗教的道徳的であるファリサイ派の人々、あるいはより学的に律法を研究する律法学者たち。イエスは、そこに信仰理解の欺瞞を見出し、またいわば庶民の上に立って庶民を精神的に脅かし、人々にら信仰的不安を植え付ける様子を見抜きました。そのため、イエスから彼らへの批判が手厳しく、福音書には多くの攻撃的な発言が記録されています。
律法学者とファリサイ派の人々、というまとめた言い方で幾度もイエスは批判します。その動きは、福音書の早いうちから最後の十字架と復活まで、繰り返し書かれています。まるで宿命のライバルのように、敵として向き合う相手でした。だから、度々彼らから命を狙われていましたし、祭司長などの当局の思惑を結びついて、裁判から死刑へと続いていったののもその延長でした。
しかし、すべての律法学者やファリサイ派の人々がイエスの敵であったわけではありません。時に親しげに共に食事をする相手もいましたし、イエスがその信仰を評価したような者もいました。グループそのものが敵だ、というよりも、彼らの主流の考え方のベースに、暗黙の前提となっているようなことがあり、イエスの救いとは反対のものであった、というふうに捉えるとよいのかもしれません。
律法を守り行うことにより救われる。それは、旧約聖書を通じて神から徹底的に言われていたことでした。だから律法を守るということ自体が、本質的に批判されているのではないと思われます。イエスにしても、「あなたがたの義が律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の国に入ることができない」(マタイ5:20)と言っていましたし、その場面では「私が来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである」(5:17)とも言っています。
けれども、律法を守る自分を誇り、守れない輩を虐げる。極端な言い方ですが、そういうところが、イエスの運動の要点だったと言ってよいでしょう。神に奉仕しているかのように見せながら、その実、神とは関係なしに、自分自身を誇るようになってゆく。さらに言えば、神を正しく礼拝する自分が神の立場になり、本当の神を利用していただけであるのかもしれません。
◆キリスト教の歴史
私は、キリスト教の歴史を思うと、いつも心が痛みます。
キリストを信じる者たちの教会は、初期には確かに迫害を受けました。ユダヤ教からは異端として弾かれました。ローマ帝国からは、「無神論者」として危険視されました。いえ、気味悪がられたのでしょう。「無神論者」というのは、ローマ人のように多くの神々を信じず、自分たちの神だけに固執していることで、そのように言っていたようです。
弱い小さなグループは、スケープゴートとしても有用です。その見せしめを通じて、他のメジャーなグループを支配しやすくなります。帝国に逆らうとこうなる、ということで、痛めつけ甲斐があろうことになります。
しかし、そのローマ帝国もやがて弱体化してゆきます。帝国は、数百年続いてきたキリスト教会を利用しようとします。この機を利用することで、今度はキリスト教が権力側に立つことになります。その後、歴史の展開の中で、王と並ぶ、否、王以上の存在となり、この世の法律から裁判から統治まで、教会が絶大な権力を示すようになりました。
そして、魔女裁判や動物裁判、異端狩りなど、聖書の教えを盾にして、弱者を虐げて支配力を強めました。世界進出が技術的に可能になると、古代から続く文明をも征服し、破壊もしました。LGBTQと呼ばれる人たちを犯罪者とし、迫害してきました。それはつい先般まで、殆どの国でそうでした。教会と、教会の教えに基づく政治が、それを常識としていたのだす。
それは、律法学者やファリサイ派の人々と、必ずしも違うものではないのではないでしょぅか。新約聖書のままのイエスが、もしもこの教会の歴史の中に現れたら、何と仰るでしょうか。
20:あなたがたは、キリストと共に死んでこの世のもろもろの霊力から離れたのなら、なぜ、この世に生きている者のように、
21:「手を付けるな、味わうな、触れるな」などという規定に縛られているのですか。
22:これらはみな、使えばなくなるもの、人間の戒めや教えに基づくものです。
23:このようなことは、独り善がりの礼拝、自己卑下、体の苦行を伴うもので、知恵あることのように見えますが、実は何の価値もなく、肉を満足させるだけなのです。
きつい言葉がありました。「独り善がりの礼拝」に「自己卑下」。形だけの謙遜をしている私たちの日常。そして、もしかするとマラキから非難を受けるような「合理的」な考え方による礼拝を正当としているような教会運営。イエスがここに現れたら、福音書で律法学者やファリサイ派の人々を責めていたような言葉を向けられるかもしれない、という想像にすら気づきが及ばない私たち――ではないでしょうか。
◆教会を省みる
キリスト教徒には、そこに冠する慣用表現として、「敬虔な」というフレーズがあります。私は、キリスト教徒が敬虔かどうかは分からないし、そうでないことが殆どではないかと思っています。立派な人もいますが、それはキリスト教徒だからだ、というふうには考えません。
教義的に、罪人であるから敬虔ではない、というような意味ではありません。それもあるかもしれませんが、世界史の中で、醜い仕打ちをし続けた事実がそこにある限り、キリスト教は、取り返しのつかない悪をたくさん歴史の遺してきた、と見ています。いえ、今なお、聖書に手を置いた大統領や、国の教会のトップと称して善人ぶる指導者が、世界を滅ぼしかねない場所にいて、ヒヤヒヤし通しです。彼らの精神状態を疑うのは、私だけではないでしょう。
私は、そうした残酷で危険な集団の掲げている、その宗教を信じ、信仰を続けています。私はずいぶんと、迷惑なことをしでかしています。そうした覚悟を常にもっています。それは、いまも世間を騒がせている新興宗教のカルト集団と、必ずしも遠いものではありません。あるいは、それ以上の悪をもたらしているのかもしれません。
もちろん、素晴らしいことをした信仰者も大勢います。社会を善くした教会の働きが何もない、などと言うつもりもありません。それはそれです。でも、だからすべて善いことだけだ、などとは口が裂けても言えません。
――そして、「過去の」キリスト教がそうだった、などという言い方をしそうになったとしたら、そのこと自体が、また大問題だと考えます。私たち教会が、いまどういうところにいて、何をしているか、振り返らなければなりません。ぜひ振り返ってください。
教会は正しい、という前提からものを考えたり、発言したりしていないでしょうか。自分たちのしていることは正しいのだ、という揺るがない信念を、当然だという顔をして前提していないでしょうか。自分では気づかないままに、律法学者やファリサイ派の人々と同じように考え、行動していないか、そこを自ら問わなければならないと思うのです。
マラキ書で先ほど、レビとの契約のことが言われたとき、実は耳を傾けたい、美しい言葉がありました。「真実の律法が彼の口にあり」「平和と正しさのうちに」主と共に歩むというのです。レビとは本来、「多くの人々を過ちから立ち帰らせ」もした、「万軍の主の使者」なのです。これは、まるでキリストのことを言っているようにも聞こえます。
私のような、信徒の末端でほざく煮え切らない者が、そういうキリストと比べられてもたまりませんが、その言葉に続いて、「だが、あなたがたは」と厳しい指摘が続いていました。「レビとの契約を破棄してしまった」とまで言われています。あなたがたは「偏って律法を教えた」と非難されていますが、その中に私たち、いえ、私がいないでしょうか。
後味の良くないお話となり、申し訳ありません。でも自戒をこめて、呼びかけたい思いでした。それは、決して礼拝の場に相応しくないわけではない、と思うのです。なにしろ、ここは主の言葉を取り次ぐ場です。預言者マラキのように、大胆に告げるべき言葉があってもよい場なのです。