献金の勧め

2026年5月10日

やもめの二レプタという逸話がある。新約聖書のルカ伝21章の初めである。
 
イエスが見ていた。金持ちたちが、神殿の献金箱(賽銭箱)に次々と金を入れている。イエスはまた、一人のやもめも見ていた。女性は、女性も入れる庭までしか行けなかったから、たぶんその金持ちも、一般人として、そこで献金していたのだろう。話によると、口がラッパ状になっていて、少々的を外しても金銭を取り入れることができるようになっていたらしい。
 
やもめ。それは働き手の男を失った女性であり、当時まともな稼ぎが得られるとは思えなかった。なんとか食いつないでいても、大した額にはならない。ある意味で、現代もそれを引きずっているところがあるところが皮肉である。やもめは、2枚の銅貨を握っていた。それがあれば、わずかでも食の足しになるかもしれない。だがやもめは神殿に来ていた。それを神に献げようと思って来たのだ。葛藤があったのか、なかったのか、そんなことは分からない。ただ、事実としてやもめはそれを、賽銭箱に入れた。
 
イエスは言う。その貧しいやもめは、誰よりもたくさん入れたのだ、と。ありあまる中から献金した者とは異なり、乏しい持ち金のすべてを、生活費とせず、神に献げたのだから、「たくさん」献げたことになるのだ。
 
時折、ここから礼拝説教が語られる。美談である。そして信徒はどきりとする。その後で献金をするとき、自分はなんて不信仰なんだと悲しくなる。罪の意識ばかりが心に広がるのだ。
 
逆に、開き直る人もいるだろう。あれは新約聖書の中の逸話だ。自分がそこまで本気でするわけにはゆかない。現実に生活費を全部教会に献げるなどというのは、狂気の沙汰だ。実際また、この話を持ち出して、教団に全財産を献げよ、あまり持ち分がなかったら借金をしてでも献金せよ、と教えるカルト組織もある。そういうのに引っかかってはいけない。だから、話半分に聖書の話も聞かなければならない。実際、女性を見て片目を潰した人はいないし、罪を犯したと片手を切り落とした人もいないだろう。すべては比喩なのだ。
 
確かに、このやもめの話を聖書の標準にするというのは危険である。だが、確かに金にしがみついている自分を見せつけられる、というのも本当だ。ある牧師は、献金の説教はどこかでしなければならないが、内容やタイミングが難しい、と漏らしていた。世間で話題になっている事件と噛み合えば、何かしら皮肉になることもあるし、最近献金をしていない人にとっては、当てこすりだと見なされかねない。神の言葉を語るにも、人間の側の事情や背景というものは、配慮しなければならないときがあるのである。
 
その牧師は、信徒との間に信頼関係が失われたとき、これまで献金を騙されて取られていた、と訴えられかけたようなことがあった、とも話していた。
 
自ら神を知らず、命のない説教をするような人を「牧師」に迎えた教会に対して、そういう「牧師」のためにはできない、と献金をしばらく送らなくなったら、除名扱いのようにした教会も、世の中にはある。命のない説教を喜んでいる「教会」は、こころまで失ってゆくのだろうか。
 
献げるお金がないから、自分が献金袋に入ろうとした、という少年の逸話も伝説的に残されているが、ともあれ美談に傾きがちでもある献金についての勧めは、簡単ではない。私たちがそうだから、ルカ伝の16章が、いつまでも難しく見えるのであろう。



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