無理なことを言う教会に

2026年5月6日

マタイ伝には、しばしば「山上の説教」と呼ばれる、イエスの長い説教が載せられている。一応場面が設定されているが、様々な時と場所でイエスが口にした教えを、マタイが編集して並べたのではないか、と理解されている。
 
けれども、聖書を読み始めた人にとっては、そのような説明はあまり意味がない。私はかつて、渇いていた。救いが欲しくて、神の言葉を求めて新約聖書を開いたのだ。そのとき、これだけ立て続けにイエスの教えが並んでいるのは、とてもよかった。次々と、これでもか、と球が飛んでくる。千本ノックを受けることは、やる気のある選手にとってはありがたい訓練である。
 
心が洗われるような教えが、心地よいかもしれない。だが、ときにその「神の教え」は、残酷である。男中心の言い方でしかないが、「情欲を抱いて女を見る者は誰でも、すでに心の中で姦淫を犯した」(5:28)などは、凡そ不可能ではないか、というくらい打ちのめすものだが、やはり人間として、正に頬面を殴られるような思いをするのは、これであろう。
 
しかし、私は言っておく。悪人に手向かってはならない。誰かがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。(5:39)
 
そんなことができるわけがない。殴られたら殴り返せ。倍返しだ、とまで意気込むことはないかもしれないが、そんな聖人めいたことができるものか、と抵抗したくなるであろう。
 
ただ、私たちが日常的に、これを実践していることは、実はあると思う。残業を強いられたり、なんやかんやとハラスメントを受けたりしても、業務上、一切逆らうことができない情況は、そこかしこに見られるであろう。この「ハラスメント」という言葉は、最初は「セクシャルハラスメント」という形で広まったかのようにも見えるが、その後パワハラ・カスハラ・モラハラ・ロジハラなど、何でも冠を付ければ幾らでも概念を増やすことができるようになった。そのいずれもが、逆らえない情況をもたらすのだ、と見なすこともできるのではないか。もちろん、「いじめ」という呼び方ができる場面では、悪人に手向かえないことは明白であるのだろう。
 
それを、キリストの教えとして、教会は正面に掲げている。これは不可能ですね、と言いながらニヤニヤする「牧師」もいるようだが、自分はこれを実践しています、と堂々と言う人も、たぶんいない。言えないだろう。
 
教会は、神の言葉を世に伝える任務を負う。あなたがたはキリストの証人である、と説教者は壇上で告げる。キリスト者は、キリストを証しする者でなければ、もう塩気を失っているとして捨てられるものだ、と聖書を読んで受け止めるものである。
 
だが、この教えを堂々と世に向けて発している教会は稀であるように見受けられる。変にキリスト者は「敬虔」だというレッテルを貼られているものだから、このような超越的な「赦し」ができないことを「負い目」に感じるのだろうか。つい、この箇所は、もにょもにょ、と言葉を濁して語るに留まり、まして世に向けて、これが聖書の教えです、と堂々とぶつけることができなくなっているのかもしれない。
 
右の頬を打たれたら、左の頬をも打てとばかりに向けよ。何者かに、法的な措置として下着を取られようとしたら、上着もくれてやれ。さあ無理にこれだけ働けと強いられたならば、その者と一緒に倍働くようにすればいい。何かくれと言われたら、与えるがいい。貸してくれと頼まれたら、断ることをしないがいい。
 
こんなことを、イエスは畳みかけてくる。いずれも、ハンムラビ法典とのつながりを思わせる、旧約聖書の「目には目を、歯には歯を」の規定の反対のことをせよ、と言っている。否、「反対」というよりも、きっと「止揚」に当たるのだろう。旧約聖書の規定を否むというつもりは、イエスには基本的にないからだ。
 
しかし、現実の教会はどうだろうか。全部の教会などとはもちろん言わないが、右の頬を打たれる前に、相手の頬を打とうとし、なおかつそれこそが正義だ、と主張しているような教会や組織はないだろうか。世が間違っていて、教会が正しいのだ、と言うようにして。なぜなら、自分たちは世界の王たる神を信じているのだから、決して間違っていないのだ、そんな心理がそこには潜んでいないか、よくよく考えてみたらいい。
 
自分にはできないから、強くは言えない。その心理は、分からないわけではない。自分のことを棚に上げて、偉そうなことを言えば、必ず反論がくるであろうし、簡単に論破されてしまうのが怖いのだ。
 
だが、私たちは主の証人である。自分が偉いことを宣伝したのではない。この主人がどれだけ偉かったか、すごいことをしたか、何でもできるのだ、そんなことを証言するのが、キリスト者の使命ではないのだろうか。
 
外国が攻撃してきたらどうするのだ。家族が殺されていたぶられても、黙って見ている丸腰がいいのか。威勢のいい権力者と、それから世の感情に振り回される人々は、そのように迫る。それはもう、昔からある戦争論者の常套手段である。だが、かつての論理が通用するような「戦争」と、いま懸念されている戦争とは、次元が違う。論理の形をとった感情に、世は簡単に靡くものであることを指摘することも、教会の使命ではないだろうか。
 
いま、それを法的に正当化するような動きが顕在化している。また、そういう背景をつくってしまったのは、いわゆる「民主主義」による投票だったのである。
 
教会が、山上の説教を世に告げ、イエスの証人となるのは、こういう危険が正に動き出そうとしている、そして取り巻いている幻をキリスト者が確かに見ている、いまこの時ではないだろうか。教会が信じている、聖書というものを、堂々と伝える時が来ているのではないだろうか。「おめでたい」と丸腰を嗤われ、平和ボケと罵られることが、みっともないし、怖いのであろうか。否、イエスはそもそも、人には無理だが神にはできることを、告げていたのではないだろうか。
 
しかし、私は言っておく。敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。(5:44)
 
キリスト教会は、そしてキリスト教会の内にいる私たちは、何を信仰し、どういう任務を負っているのだろうか。



沈黙の声にもどります       トップページにもどります