復活の光の中へ――形だけでなく――
2026年5月4日

マルコ伝の連続講解説教は、いわゆる変貌山での出来事という、ひとつの大きなヤマ場を超えた。説教者の言葉では、「まるで復活を待ちきれぬかのように」そのシーンが描かれていた。
イエスの姿が変わったその出来事の直前には、イエスが死と復活を予告する場面があり、それから姿が変わり、今日開かれた記事があり、再び死と復活を予告する。死と復活とをモチーフにした、福音書の中央部である。だとすれば、いま開かれた記事にも、そうとう重要な役割が背負わされていることになるだろう。
説教者は、史上初めて福音書というジャンルに挑んだマルコ伝が、周到な準備をして、こうした構成を考えていたであろうことを示唆する。挟み込みの構造も、様々な場所で計算されて書かれていることが見られるのも、その傍証となるだろう。
さて、マルコ伝9:14-29を本日は与えられた。汚れた霊に取りつかれた子を癒やす物語である。幾らか長いせいもあるが、随所にきらめく表現があり、一つの説教では語り尽くせないであろう、と説教者は言う。が、そもそも聖書箇所を読み味わうには、声に出して読むとよい、という点を予め指摘しておく。すると、本箇所には、思わず声に力が入るところ、あるいは声の調子について考えて読み上げたいところがあることに気づくのである。
イエスはお答えになった。「なんと不信仰な時代なのか。いつまで私はあなたがたと共にいられようか。いつまで、あなたがたに我慢しなければならないのか。その子を私のところに連れて来なさい。」(9:19)
その子の父親はすぐに叫んだ。「信じます。信仰のない私をお助けください。」(9:24)
この二つの台詞である。これらの言葉に思いを寄せたい、と告げてから、説教者は一つずつ説き明かし始めた。
まず19節から。ここで注目したい言葉は、「我慢する」という動詞である。この箇所を、山浦玄嗣訳新約聖書『ガリラヤのイェシュー』では、「何時(いづ)までお前(おめァ)だぢのこの様(ざまァ)を辛抱しねァばなんねァんだれ(しなければならないのか)?」と表している。「辛抱」とは良い言葉だ、と説教者は説く。「我慢」だと、したくないことを耐えるという、消極的なニュアンスが伴うが、「辛抱」だと、未来のため必要な苦労を引き受けるという、積極的な姿勢が見えるというのである。
先日、SNSの投稿で見たのだが、「つぼみ」って何かと幼い子どもが尋ねたとき、自分は「まだ咲いていない花」だと答えたが、祖母は「これから咲く花」だと言ったのだそうだ。希望の言葉、躍動的な言葉、これからの生き方に勇気を与える明るい言い回しというのがあるものなのだ。イエスの場合も「辛抱」と表すことによって、そこに愛が滲み出てくるような気がしてくるではないか。
ところで、説教者は、「形式的」なことについて触れる。以後、幾度かこの言葉を用いる場面があったから、本日の説教にとって、ひとつのキーワードであると私は感じた。礼拝などで声を出して祈る場面で、「主のことを忘れて過ごした」というようなフレーズがよく出てくることについてである。それは本当だろうか、と説教者は問う。そこにひとかどの真実があることは確かであろう。だが、ともすれば、そのように言えば祈りらしくなるというような、形式的な言い回しに成り下がるという危険性が伴う問題があるようにも思えるのである。
これについては、私も同様のことを綴ったことがある。しかし、説教者の優れたメッセージ性は、それで終わらないところにある。もし本当に私たちがイエスを忘れて過ごしてしまっていたとしたら、イエス自身が「呻いている」と言うのである。
イエスは、「なんと不信仰な時代なのか」と言った。弟子たちがこの子の中の悪霊を追い出すことができなかった、という父親の訴えに対して、イエスは「不信仰」だと言った。この弟子たちは、以前に癒やしの業を為したこともある。だから今回はどうしたのか、と訝しく思う。この件については、弟子たちに問われたとき、29節で「この種のものは、祈りによらなければ追い出すことはできないのだ」とイエスは答えている。これは不思議なことである。
説教者は、自分の経験も含めて、介護や看病のときに、私たちがきっと必ず祈っている、という点を思い起こさせる。しかしそれは、本当の祈りではないのだ、と言う。祈るかもしれないが、形式的に過ぎない面があるのではないか、ということだ。というのは、祈ることにより、神の癒やしの業を求めているのではなく、心のどこかで、このまま治らない、という見通しをつけているからである。
それはまた、このまま治らないことが見通されることから、そのときの心の準備をしていることなのかもしれない。ついに悪い結果に陥ったときにも、仕方がないというような気持ちで納得することができる。あるいは、神は癒やすことをおゆるしにならなかった、という点についても納得できるような覚悟をしておくことなのかもしれない。
確かに、不信仰には違いない。けれども、イエスはイエスで、この不信仰の中で「呻いている」と説教者は言う。そこから弟子たちの中に、人々の中に、信仰が生まれることを願いながら、「呻いている」のだ。この点は、加藤常昭先生の指摘も参考になる。「信仰を見つけようとなさったのです。信仰を生み出そうとなさったのです。それがこの物語の核心をなすのであります。」(加藤常昭説教全集・マルコによる福音書2)
次に、24節が取り上げられるが、その前に22節を振り返る。
霊は息子を滅ぼそうとして、何度も息子を火の中や水の中に投げ込みました。もしできますなら、私どもを憐れんでお助けください。(9:22)
父親の頼みの中に、「私ども」を助けてください、という言い方を、説教者は見逃さない。子と自分とを区別しないのである。子どもは確かに命に関わる問題の中にある。だがまた、父親もまた、少なくとも霊の命に関わる問題の中にあったに違いない。
そしてここで当然光が当てられるのは、「もしできますなら」という言い方である。説教者は、父親の頼みとして、これは必ずしも不自然なことではない、と言う。確かにそうだ。それは、先ほど触れた、介護や看病のときに祈っている、と話したこととつながってくる。このまま治らないことを、自分の覚悟の中に置いているとすれば、思わず「もしできますなら」という言葉を添えたとしても、とても人間的なことではあるだろう。
それは、自分を守ることでもあっただろう。しかし、イエスはこの一言を聞き咎めた。聞き捨てならない言葉だった。信仰の問題として、イエスにとってそれは由々しきことであった。「『もしできるなら』と言うのか。信じる者には何でもできる」と厳しく指摘した。これは神の問題であるのだ。神にできないことはない。ポイントは、あなたがそれを信じるかどうかなのである。
これは、父親の信仰を試すテストにもなった。そして、父親はこのテストに合格した。「その子の父親はすぐに叫んだ」のである。そう、「すぐに」である。マルコはイエスの行動についてしばしば「すぐに」という語を使う癖があったが、この父親の行動の早さは、決して癖では済まされない、信仰の問題が潜んでいたのだ。
父親は二つのことを叫んだ。「信じます」と「信仰のない私をお助けください」とである。これは、信じるから子どもを助けてください、というものではない。父親は、父親自身を助けてくれ、と叫んだのである。説教者は、このとき父親が、信仰のない自分をまるごとイエス・キリストの中に投げこんでしまった、と説いた。これが光っていた。
確かに、完全な信仰をもつことができたら素晴らしいだろう。だが、それができたら山をも移すことができただろう。人は、完全な信仰をもつことなど、できないに違いない。もしもそれができるなどと豪語する者がいたら、それこそ偽りである。自己愛の極みである。傍から見れば、自己欺瞞そのものである。
ここで「信仰」というものが、「不信仰を克服すること」のことであった、と説教者は語った。不信仰な部分があることは否定できない。だがそれを気にしすぎる必要もないのだろう。イエス・キリストに私たちがなろうとすることが望ましいのではない。ただ、不信仰な私が、それでもなおイエスの前に赦される必要だけがあった。罪を赦されることだけは、どうしても必要なのだ。そして、それをできるただ一人のお方が、そこにいたのだ。
イエスは悪霊を追い出した。子どもは痙攣して、それから動かなくなった。周囲に緊張が走った。子どもは死んだのではないか。そこで「イエスが手を取って起こされると、立ち上がった」という報告に、私たちは安堵する。「立ち上がる」は、復活を思わせる表現である。だが、ここではそれと共に、自分の足で行動できる姿を見せてくれているのかもしれない。父親の信仰の無さの自覚からイエスを頼んだことに合わせて、父親と子どもとが、「私ども」として助けられたのだ。
説教者は、教会でこの物語がきっとたいそう愛されたのだろう、と推測する。それは、あの変貌山での出来事とつながっている。説教者が言うには、そこで復活の光が先回りして射し込んでいるのだ。なんと美しい表現だろう。この父子には、復活の光が照らされている。この光の中で、さあ生きるのだ。「信じられない」その心をも、どうかこのイエスに預けたまえ。
実は本日、新約聖書のマルコ伝の連続講解説教ではあるが、同時に旧約聖書も説教箇所として取り上げられていた。新約を旧約の光に照らす形で受け止めるために、いつも両聖書から言葉が引かれることになっている。本日はハバクク書であった。短い箇所なので、3章のその箇所をここに示すこととしよう。
17:いちじくの木に花は咲かず/ぶどうの木は実をつけず/オリーブも不作に終わり/畑は実りをもたらさない。/羊はすべて囲いから絶え/牛舎には牛がいなくなる。
18:それでも、私は主にあって喜び/わが救いの神に喜び躍る。
19:神である主はわが力/私の足を雌鹿のようにし/高き所を歩ませてくださる。/指揮者によって。弦楽器で。
これが朗読されたとき、私は特定の箇所が輝いて見えていた。17節の、絶望的な有様は、幾重にも具体的に並べられているのだが、それを覆す言葉があるからだ。「それでも」の一言である。
聖書には、こうした鍵になる言葉が印象的に現れる。ダニエル書で神は自分たちを救うと確信をもって弁明しながら、「たとえそうでなくとも」(3:18)と王に宣言する場面があった。「それでも」の逆接の接続詞は強烈である。「それでも、私は主にあって喜び/わが救いの神に喜び躍る」という宣言は、どんなに信仰者を勇気づけることであろう。
実は、この箇所から語られた説教が心に残っている、と説教者は言った。説教は最後に、その方のエピソードで締め括られた。日韓の架け橋となった方だが、その生涯は不遇なことばかりだった。だが、その絶望の中で明るく歌い続けることを宣言する。私たちもまた、先回りして差し込んできた復活の光の中で、私たちの不信仰に対する呻きを伴いながらも、こちらへ来るのだ、と道標となって招いてくださっている、イエスの姿に目を向けよう。イエスの方に、身も心も向けて、歩み出す勇気を戴こう。
澤正彦牧師のその説教が、偶々私の手許にあった。説教の中で特に辿られはしていないが、せっかくなので、このレスポンスの最後を、澤牧師の説教のダイジェストで結ぼうと思う。但し、聖書協会共同訳で「それでも」という訳語になっているところは、当時使われていた口語訳では「しかし」となっていることを踏まえてご理解戴きたい。
「わが救いの神」ハバクク書3:17-19
(イスラエルの詩人の語っている点に)自分の絶望と不毛、虚無を一緒になってひっかけたい。……この詩人は自分の生活の根底が脅かされ、無にされてしまうことに関して、きわめて深刻な挫折感を味わった人であった。……彼がおかれている極めて不安定な政治状況、弱小民の滅亡寸前の危機状態を意味していないか。……不毛、虚無の響きは人間の内面的出来事だけでなく、指導力を失い、信じるものなき政治、社会の混乱、そこから派生する道徳の退廃をも繁栄しているようだ。
……私自身の中に砕かれゆくものはないか。……私達の生活は一生懸命積み重ねても、一夜の中に霧のように消えていくものの上に乗っているのではないか。……私達には厳然として「死」というものがあり、肉体はその死に向って衰えてゆく。……罪の問題も私達の行き先を暗くする。……私達は私達の内外に破れ挫折した生を過去にもっていたし、いまもその傷を引きずって生きている。
……「しかし」は大跳躍の「しかし」であろう。人間の決心や、やり直しの人生とは異なった神の側から送られた奇跡的な「しかし」であろう。……新約聖書を与えられ、イエス・キリストを示されている者には、17節から18節の「しかし」をイエス・キリストを通して告白できるのだ。ハバククの預言も恐らく苦難の僕といわれるイエス・キリストを待ち望みつつ、この歌を歌ったのではないだろうか。……主の甦りこそ私達の絶望と虚無を打ち砕く神の力、働きではないか。……神の「しかし」はひとえにあのイエス・キリストの十字架の姿と復活に示されていることを信じたい。
……新しい神を発見し、告白した者は、神の「しかし」にアーメンした者として、神の香り、キリストの香りをあの高い所で放って生きるのである。不毛と絶望と虚」にみちた世界を神の高き所として歩く。その時この私には生きる世界、私の眼が以前と全く一変してしまっていることに気づくのである。……私達はこのキリストの霊によって烙印をおされているのである。それ故にこそ、この世の桑差の中にあっても、神の「しかし」を自分の「しかし」に置きかえて唱和しつつ生きてゆく人間になってゆこうではないか。……私達は日々、イエス・キリストにあって救われた神の「しかし」を、自分の告白的「しかし」として唱えながら、今日も明日も生きてゆこうではないか。
――この説教集は、『日本の説教者たちの言葉 輝く明けの明星 待降と降誕の説教』(平野克己編・日本キリスト教団出版局)である。一人ひとりの説教者について、3頁程度の解説も付せられていて、素晴らしい。何度も読み返す価値のある本である。(引用は著作権のために不適切であるかもしれません。そうであればご指摘戴ければ、上のダイジェストは削除します。)
いまNHKの朝ドラで放映されている「風、薫る」にも登場した(はずの)植村正久牧師と、その三女である植村環牧師の説教も収められている。キリスト教信仰により看護の道を日本に敷いた大関和(ちか)さんをモデルにしたドラマだが、原案がしっかり描いているその点を蔑ろにし、全く信仰に理解のない人が信仰を抜きにして制作しているのが、残念でならない。