修学旅行船転覆事故から

2026年4月30日

沖縄の辺野古沖合で、同志社国際高校の修学旅行中、高校生の生徒らを乗せた小型船二隻が転覆した。4月15日午前中のことだった。船長と、生徒一名が亡くなった。痛ましい事故である。同じ子をもつ親としても、なんとも言えない気持ちになる。お悔やみを申し上げるというようなありきたりの言葉では、言い尽くせないものがある。
 
事故自体については、いまのところ全貌が結論化されていないと思われるが、安全性について不備があったことは確実のようで、高校側の責任も問われることは必定であろう。
 
京都で進学指導をしていた経験のある私としては、同志社国際高校がどういう学校であるか、ある程度理解している。但し、それはずいぶん以前のことでもあり、今回の旅行や、事故当時の目的である平和学習については、知るところがなかった。亡くなった船長が日本基督教団の牧師であり、辺野古の新基地建設のための埋め立てに対して反対運動を行っていたということも、事故の報道から知ったまでである。
 
波浪注意報が発令されていた中だった、ということもあり、安全管理に問題があった、という報道があったが、概ねそこが取り上げられるべきであり、もし他に法令違反などがあれば、それもまた問われるべきであろう。また、ただ責任がどうとか処罰がどうとかいうことだけでなく、今後の安全な乗船ということへの改善が見込まれるべきであろう。しかし、平和学習ということが事故を起こした、と決めることには無理があると考える。
 
キリスト教界の中には、平和運動のために営んでいた船長の行為そのものに同情する声もあったようだ。しかし、生徒が亡くなっている点で、安易な同情はよくないという意見も当然強かった。これに対して、SNSなどの気軽に何でも意見が言える場では、船長や平和学習そのものに対する、雑言の如きものも飛び交っている。
 
そこへ、最近になって特に、産経新聞が、特集欄を設置して、連日のようにこの問題を厳しく追っている。もちろん、事故について究明するという姿勢は大切である。だが、この新聞の口調には、特定の意図が伝わってくるような気がしてならない。というのは、事故の責任ということをきっかけにして、そもそも辺野古建設に反対する運動が悪い、と思わせたい狙いが、見出しからも見て取れるからである。
 
辺野古事故「産経新聞しか報じない異様」安全管理と平和学習、メディアの疑問
 
<独自>辺野古沖転覆死の船長、自著に「仲間が命落とした」 海上抗議の危険を明白に認識
 
<独自>校長説明と食い違い 辺野古船長が生徒に「抗議船」と明言 昨年研修報告に記載
 
<独自>船長「きちんと救命胴衣を着けていなかった」説明 辺野古転覆、着用指導が焦点
 
辺野古転覆、4年前の知床事故での教訓生かされず 抗議団体の杜撰な運航管理「野放し」に
 
辺野古転覆事故はまれにみる人災=@玉城知事の「抗議船というくくりで」発言に反論する
 
幾つかだけ拾ってみたが、一番上の評論と「独自」の記事は、比較的最近のものである。「独自」ということは、産経新聞だけが細かく調べていることを意味する。なんとか落ち度を探そうという執念を感じる。もちろん、調査することが悪かろうはずがない。
 
但し、ここに玉城知事も絡めてくるところが、社の方針であることは、明確な意図を感じる。もちろんここに挙げてはいないが、玉城知事に対する酷評を繰り返すのは、この新聞の従来からの方向である。
 
私は無責任な立場から感想を言うに留める。この問題を調べたとは言えないし、何らの知識をもつわけでもないからだ。繰り返すが、この事故について論じようとしているわけではない。
 
この産経新聞の独自報道が始まってから、SNSでは、転覆事故について、多くの荒っぽい意見が増加している。――他の新聞が沈黙しているのは偏向だ。産経新聞が正しい。一人生徒が死んでいるんだぞ。平和学習がいけない。基地反対運動を禁止させろ。
 
産経新聞がこのような意見が強まるように煽っているという形になっている。平和運動に関する中で一人が亡くなった。だから平和運動が悪い。辺野古基地建設に反対なんかするからだ。知事も反対していた。あの知事は次に落選させろ。――こうした動きを計画してのことのように思われてならないのだ。
 
他方、統一教会問題について、同新聞は、この組織に対する厳しい姿勢を見せており、解散すべきだという調子が強い。そして、自民党は教団との関係を断ってクリーンになるよう意見を述べている。お分かりだろうか。他の新聞は、自民党の責任を問うこともかなり強いのに対して、産経新聞は、自民党の側の責任については殆ど言わないのである。
 
転覆事故は、世論を味方につけることができるかもしれない。一人の死を強調すれば、世論は基地反対運動を敵視するように仕向けることができる。他方、実は統一教会関係では何人の方が亡くなっているか知れないのだが、そこへは決して取材を向けないか、報道をしない。
 
もちろん、こうしたことが会社の方針である、ということははっきりしているのであるから、そのこと自体に意義を唱えるつもりはない。言論は自由である。他紙や意見のことなる相手を「偏向」と呼びつつ、果たして自身に偏向がないのかを顧みないようであったとしても、新聞社を非難しているわけではないことはご理解戴きたい。問題は、民主主義の主権者たる国民一人ひとりである。本当に自分が正義を主張しているのかどうか、顧みてもらいたいのだ。少しばかり世間と違う穿った見方をする意見が現れると、すっかりそれが真実であるかのように考える人々が一定数いることは、陰謀説などから心理学的にも説明されている。よくよく自分の意見の根拠について、顧みることが必要なのである。
 
最近出版された『宗教のアメリカ』(藤本龍児・岩波新書)には、「魔女裁判」について、次のような結論を以て言及を終えている(p83)。それは「時代が進み「理性」が行きわたれば無くなるとも言えない。」「「魔女」とは、価値観が動揺した社会にあって、やり場のない不満な憎悪を解消するために「罪」を着せられる身代わりや生贄、つまり「贖罪の山羊scapegoat」なのである。」「正しい」とされる価値観がふりかざされるようになる」とき、「理性が自己正当化や攻撃に使われ、都合のよい証拠だけで「悪」を告発し、無実の者を社会的に抹殺することも起こりかねない。」
 
旧約聖書には、一人の死をセンセーショナルに掲げたために、イスラエル全体を感情的に巻き込んで、十二部族のひとつベニヤミン族が滅亡寸前になるほどに激しい戦争を起こしたという記録がある(士師記19-21章)。もしかすると、一人の死に自称義憤を起こしたことで、百万人の死を招くことになるかもしれない。そういう可能性を、現実にするのもしないのも、私たち一人ひとりなのである。



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