風が薫らない

2026年4月28日

NHKの連続テレビ小説、というと却ってそれは何だ、と言われるかもしれない。通称「朝ドラ」がすっかり根づいている。2026年春からは、第114作「風、薫る」が放映されているが、前作「ばけばけ」に比べると、世間の評価が厳しいようだ。
 
登場人物の知名度のせいではないか、あるいはダブル主演のスタイルが人物関係を複雑にしていて分かりにくいのではないか、といった評も見かけた。視聴率も伸びていない。尤も、オンデマンドの時代になり、視聴率そのものの数字は、かつてと比較できないから、その点は私はどうとも思わないが、私は他の点で引っかかることがある。
 
そもそも私はこのドラマに、たいへん期待していた。というのも、原案とされる『明治のナイチンゲール 大関和物語』を最初に読んでおり、その後に、それがドラマ化される、ということを知ったのであるが、これは信仰の物語であったからだ。何しろ、主人公の大関和(ちか)自身が強い信仰の持ち主であった。鈴木雅(まさ)は、葬儀は仏式だったらしいが、クリスチャンであったことは間違いない。そればかりか、初期の女性看護婦、医師などは概ねクリスチャンだった、と見られるほど、この時代の医療は、クリスチャンによって支えられていたのだ。さらに、名説教者の植村正久が和の信仰を導いたことや、教育者の矢島楫子の下に学び、廃娼運動も医療と共に展開されている。どう見てもこれは、クリスチャンたちの信仰の物語でしかない原作であった。
 
放送が始まってみると、私は戸惑いを覚えた。設定があまりに違う。ドラマは、先の本を原案とする、ということを発表しているから、本の設定は保たれている、と勝手に思い込んでいのだ。
 
もちろん、原案をそのまま脚本にする必要はない。ドラマという舞台設定があるから脚色もするだろうし、展開上、登場人物の改定や、ゲストキャラクターも出てくることはあるだろう。また、放送の長さなども影響するものであろう。原案を変更して悪いなどとは少しも思わない。「ばけばけ」にしても、ずいぶんと実在の人物や設定が変更されていた。
 
ただ、「ばけばけ」の場合、原案とされるのは小泉セツの「思い出の記」であり、その中のエピソードはふんだんに活用された。ただ、こちらの場合は、軸となるストーリーかなかったから、筋道は殆どオリジナルだとしてよかった。
 
「風、薫る」の場合は、原案がきちんとしたストーリーの本である。その物語自体、現実を忠実に辿るだけでなく、適宜脚色もあるには違いないが、実によく実際のところを調べて綴っている。だから、それを当然活かしてドラマ化するものだ、と私は信じていたのだ。
 
ところが、人物設定自体が、原作の構築した建物を、ものの見事に破壊していた。
 
和が嫁いだのは、妾との縁を切るという前提だったが、夫は妾を囲い続け、そのために和は家を飛び出している。しかも子どもは男の子と女の子と二人産んでいる(ドラマでは一女のみで、名を環と呼んでいるが、植村正久の三女が環という名で、後に女性牧師としての嚆矢の一人である)。その夫にとってはそれ以上の子どもがすでにいる。また、和は農作業が強いられており、そのとき近所で手伝ってくれた女の子たちは、次々と遊郭に売られていっている。このことが背景にあって、将来矢島楫子を中心とした廃娼運動に関わってゆくことにもなる。
 
矢島楫子らしい、看護学校の校長は今週登場したが、果たして廃娼運動は描かれるのか心配である。すでに「べらぼう」という大河ドラマが、吉原を美しく描いただけに、その後のこととはいえ、廃娼運動を扱うつもりはないのだろうか。ドラマでは扱い難いのだろうか。しかし、女性の人権擁護が、看病婦と蔑まれていたことから看護婦という地位を確立した、というのが和と雅を取り上げるモチーフだとすれば、廃娼運動を無視するというのは解せないように思う。先の妾に関することも、そのモチーフに該当すると言えよう。
 
和の人物像が、もっと芯の強い、頑固なところがある、というのが原作からは窺えるのであるが、テレビではいまのところそういうふうには見えない。だが、それもドラマの目的があろうから、うるさくは言わないようにしよう。子どもを取り返す云々も、ずいぶんと原作と違うが、それも構わないことにしよう。
 
しかし、英語に関することもかなり違う。もともと幼いときの体験から英語に興味があった和は、東京で女中の仕事先の主人の勧めを受けて、英語があれば女性の仕事が広がるということで、植村正度(まさのり)の英語塾に通うようになったのだ。英語塾の近くに鹿鳴館があり、和は通訳に憧れる。
 
植村正度の兄が、植村正久牧師である。和はキリスト教に興味をもち、教会へお酔い始める。そこで、女性の平等性に感銘を受けたこともあり、正久の手から洗礼を受けた。
 
その後、勤め先から鹿鳴館での婦人慈善市の手伝いをするよう言われた和だったが、そこで、看護学校設立を図っていたその代表者の大山捨松と出会う。このとき、英語とフランス語ができる捨松が、外国人相手に独り奮闘しているところへ、和は、通訳ができますと申し出たのだった。だから、ドラマで雅が鹿鳴館と関係があるかのようにされているのは、完全に和の話を雅に当てはめていることが分かる。実は雅のエピソードは、原案にはそれほど詳しくないのだ。だから、雅という人物を描くのに、和のことを使った、としか考えられない。
 
和に看護婦の話を持ちかけたのは、牧師の植村正久である。というのは、女性宣教使が、やはり看護学校の設立を進めていたことで、英語のできる和に声をかけたのであった。和は自分の中で、看病婦の差別的な立場への躊躇いがあったのだが、正久はナイチンゲールの話も加え、職業に貴賎はない、と教えた。和は宣教師たちと貧民街に出茎、貧困と病の関係を強く感じ、看護婦こそ女性のため、人のための仕事だと納得するのであった。
 
そうして、桜井女学校付属看護婦養成所の一期生として、和は入学する。実は、母親がやはり偏見などから看護婦への道へは強く反対していた。和は、大山捨松や、新島八重が看護学校に関わっていることを話す。すると、新島八重という名に母親は反応する。八重は、かつて大河ドラマ「八重の桜」の主人公でもあったが、会津藩の砲術師範の娘として銃の使い手でもあった。後に同志社設立の新島襄と結婚し、晩年は日本赤十字社をリードする。武家の妻たる母親は、会津の武家の八重の名の故に、和の看護学校入学を許したのであった。
 
雅については、看護学校の入学式で隣りにいた、断髪の雅に和は惹かれている。そこでの出合いである。和は後に、いくらか心情的に揺れることがあったが、雅は常に冷静に物事を判断するタイプだった。雅は、ナイチンゲールの著作を読み、その人となりに魅せられたことから、看護の道を目指したのだという。従って、入学後、看護を教える宣教師が到着するまで、生徒たちはナイチンゲールの『看護覚え書』の翻訳に取りかかるのだが、そこで雅が常にリードする形になっていた。ナイチンゲールは、ご存じの通り、看護職という立場をつくり、看護がボランティアであってはならない、という立場を貫いた。そのため、奉仕をモットーとするアンリ・デュナンとは意見が対立していた。ナイチンゲールについて別の生徒が詳しいようなドラマになってしまったのも、残念である。
 
雅は、英語が学びたくて、2年間英語学校に学んでいた。英語力は大したものであった。西南戦争で脚に大けがをした男性と結婚し、二人の子どもを産んでいる。その夫は4年前にその傷が元で他界した。自分に看護の技術があればと悔やみ、子どもを静岡に置いてこの学びに就いた。互いに二人の子がいるということもあり、二人の結びつきは強くなる。
 
いま放送されているのは、だいたいこの辺りまでである。如何にドラマが原作と異なるか、お分かりになると思う。否、繰り返すが、設定やストーリーが変わったことをとやかく言っているのではない。原作の軸のひとつ、女性の人権ということについても、廃娼運動が出てこないことに対する不満がひとつある。そして何よりも、ここまでテレビでは、信仰が少しも描かれていないこと、教会の登場も、ただの飾りでしかないことが、和と雅の人生のため、そしてたぶん看護職そのもののためにも、よろしくないと思うのだ。
 
植村正久牧師は、もう少し厳しい方ではなかったか、と私は推測するのだが、それは不明であることにしても、もっと和の人生を、実はかなり後になっても、度々支えている。和は、行き詰まる毎に教会を訪ね、また植村にアドバイスを受けている。それは、信仰をベースにしたものである。ところが、テレビドラマでは、その気配がない。もしいま登場している牧師が植村のことであるとすれば、雅に強く関わっているだけである。
 
これでいいのか。信仰抜きで大関和を描くということは、私は不可能であると思う。百歩譲って、信仰物語を訴えているのではないから略すのだ、という言い分が制作側にあったことを認めたとしても、原作へのリスペクトが、全くと言っていいほど感じられないのだ。
 
それとも、ここから大きく変わってゆくのだろうか。最初の1か月、六分の一が終わった。いよいよここからが、看護婦の物語になるはずだが、私の懸念が杞憂に過ぎないことが分かるようであってほしいと願うばかりである。



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