真っ白に変わったイエス
2026年4月27日

マルコ伝の連続講解説教。復活祭などを挟み、ここのところ講解説教は間が空くこともあった。今日は、いわゆる「変貌産の出来事」と呼ばれる場面が開かれた。
六日の後、イエスは、ただペトロ、ヤコブ、ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。すると、彼らの目の前でイエスの姿が変わり、衣は真っ白に輝いた。それは、この世のどんなさらし職人の腕も及ばぬほどだった。 (マルコ9:2-3)
という始まり方をするペリコーペである。マルコ伝には珍しいこの「六日の後」というような語りだしは、十字架の死と復活の予告が六日という意味である。それほどに、この予告は重要だった、ということであるかもしれない。
そして、この変貌山の出来事は、イエスの地上生涯に於いても、そしてまたマルコ伝に於いても、重要なものだった、と思われる。形式的には、マルコ伝もここで折り返し、全体の中央に位置すると見ることもできるのだ。ユダヤ文学では、中央をクライマックスとして、その前後に対称的に、関連する表現を配置する、というスタイルがある。その意味でも、この記事は、福音書全体にとった大きな意味合いをもつ、と見ることもできるわけである。因みに、十字架の予告は9:30、10:33と、二度目、三度目と続けられる。
弟子のうちで、ペトロ、ヤコブ、ヨハネの3人は、しばしば特別扱いをされる。後の教会の中心人物であった、という見方もできるだろうが、この山での出来事は、どこか秘密裏に行われ、しかしまたイエス単独であってはよくないことでもあったのだ。誰か、弟子の証言が必要。そうなると、選ばれた3人がここに配置されたということになる。
イエスの衣が真っ白に輝き、この世のものとは思えないほどだったことが記されている。表現されていない対比を、読者は時に思うべきである。それまでイエスの衣は白くなかったのだ。説教者は今日のその出で立ちについて、幾度も繰り返して強調した。それは汗と埃にまみれていたことだろう。つまりは「黄ばんだ服」であったに違いにい、というのである。このイメージが、ずっと説教の中で保持されていた。
イエスの変貌という出来事を機に、「日常の中に神が介入する」ことが告げられた。それが新しい光である。そして私たちを照らす。私たちの心を刺激するものが、非日常の次元で、外から遅う。それは、「不思議な幸福体験」というような表現で、もう少し詳しく紹介された。
それは、20世紀アメリカの心理学者、アブラハム・ハロルド・マズローのいわゆる「至高体験」という概念であった。
以前、高校の推薦入試の作文課題で、中学生に、「努力のない状態で課題に専念できることこそ、本物の努力の姿である」というマズローの考えを挙げ、それに対する意見を書かせたことがある。一部の中学生は、その意図を汲み取って論じていたが、全く意味が分からない生徒もいて、反応が面白かった。物事について深く考えたことがあるかどうかが、かなり明らかになるように思われた。
説教者のマズローの引用は、その「至高体験」というものであったが、この変貌山での弟子たちの体験も、そういうものではなかったか、と推測していた。そして、そこから自らの体験を語ったのには驚いた。自身の宗教体験については、殆ど説教の場では話したことがないと思う。また、説教というものは、牧師の個人的な体験を強調する場ではない、という戒めを有している方ではないか、とみていたので、この語りは意外だった。
その内容はここには明らかにしないが、それはいわば召命体験と言えるものであろう。こうした体験の有無については、その牧師の説教を聞けば、分かることがある。同じ土地を旅したことがある人の話は、通じるものを感じるが、その土地に行ったことがなく、知識だけ集めている人の話は、心に響くことがなく、宙に浮いたような感じがするからだ。特に、罪の自覚やその赦しという体験については、全く知らないままに「牧師」として通用するような「神学校」もあるから、用心しなければならない。
それからこのイエスの変貌について、説教者はこのようなことも説いた。イエスは、十字架を俟たずして、復活の光を見せたのだ、と。
実はこの場面の直前、イエスが十字架と復活を予告したとき、ペトロがイエスを諫めるようなシーンがある。すでにその箇所の説教は終えているが、そのとき「サタン、引き下がれ」(8:33)とイエスがペトロに厳しい言い方をしている。この「引き下がれ」の言葉は、「後ろへ回れ」というようなニュアンスの語であることも話されている。
それはまるで「私を利用するな」というような響きをもっていることが、今日叫ばれていた。どきりとする。私たちは、時に自分を正当化するために、イエスの名を、イエスの言葉を、利用することがあると思うからだ。サマリア人のたとえのときの正当化どころではない。私たちは、神を利用して、自分を正当化することで、自分を神とするという、最大の罪を厚顔にも犯してしまうかもしれないのだ。否、そのような報道を、世界から届けられていることはないだろうか。
「引き下がれ」というのはまた、「手を空にして新しい命を受け取れ」というところにまで私たちを連れてゆく。「私は」「私は」とこだわり続ける自分の手を「ほどけ」と命じたようなことなのだ。説教者が立て続けにこのように連想を連ねることは、よほどそこに伝えたいことが含まれていることではないかと思う。私たちは、教会として世の人々を「ほどく」使命が与えられている、とも見られるが、実のところ、私自身が一番怪しいのである。自分が、「私」という杭にしっかり結わえつけられているかもしれないではないか。
そのペトロへの叱責に続いてイエスは、「私の後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を負って、私に従いなさい」(8:34)と、決定的なことを述べていた。これについても、説教者は畳みかけるように言った。それは、愛に生きることだ。やわらかな心をもつようになることだ。自分を小さくすることであり、互いに仕えることだ。ああ、結局「愛」の一言で賄えるかもしれないような、私たちへの戒めなのであるが、思えばそれは、イエス・キリストその方の姿であることに気がつく。だからこそ、「私に従いなさい」の意味は、こうした「愛」すべてを含むものだったのである。
このようなことを告げつつ、説教者は、歴史上の「教会」にも、厳しい眼差しを向ける。教会は、過ちを続けてきた、と。歴史上の数々の出来事を挙げるのは、まるで私の姿を見るようであった。いや、それは高慢に聞こえるかもしれない。要するに私も同意見だということだ。教会は、仕える道、愛する道、赦す道、それを歩まなければならない。イエス・キリストに従う道だ。キリスト教は、キリストそのものであるということだ。
説教者はまた、この「イエスの姿が変わり」という箇所について、別の角度から掘り下げた。それは、この「変わる」という動詞が、受動態である、ということだ。同様の例は、「復活した」にも言える。「復活されられた」という語の使い方が聖書ではなされているからだ。そして、受動態の意味上の主語は、しばしば神である。
幾つかの観点を加えながら、説教は最後に、マルコ伝と同時に開かれた、ヨブ記の箇所に関連した展開を見せた。但し、本当は、マルコ伝と同時に開かれたのは、詩編であった。
主の怒りは一時。/しかし、生涯は御旨の内にある。/夕べは涙のうちに過ごしても/朝には喜びの歌がある。(詩編30:6)
しかし、こちらについては言及をすることなく、ヨブ記の方が相応しいとして、次の箇所を読んだのである。
人々は多くの責め苦の中から叫び/偉大な者の腕に助けを求める。
しかし、誰も言わない。/「私の造り主である神はどこにおられるのか/夜に歌を与えてくださる方は。(ヨブ35:9-10)
ヨブ記が終盤に向かう中で、突如として登場した謎のエリフという若者が、神の道を説くような中での一幕である。「夜に歌を与えてくださる方」を、人は求めるべきである、というのである。夜とは何か。闇である。暗いところである。ひとつには、罪であろう。が、ひとつには苦難であるだろう。エリフが言おうとしているのは、前者であるように見える。だが私たちは、後者のように読むことも許されているだろう。
ちょうど、親しい者が、人生最大とも言えるような試練の中にいる。正に夜である。いま懸命に回復を待ち、日々を生きている。凡そ変貌山の輝きとは異質のレベルではあるのだがに、暗い中に置かれているようなところだ。
ところが、19世紀イギリスの名説教者、スパージョン(チャールズ・ハッドン・スポルジョン)が、実はこの言葉を好んで説教していたのだという。「夜に歌を与えてくださる方」というテーマである。当時その説教は、たちまち文書化されてイギリス中に届けられていたというスポルジョン。その説教に触れたくて、19世紀の英語が載っている辞書を私が好んで用いていることは、私の周囲の誰もご存じないだろうと思う。
調子の良い昼に歌うのは、さして不思議なことではない。だが、夜の状態のときに歌うようにさせてくださるというのは、正に神がなさることであるに違いない。それは、「黄ばんだ服」の方である。しかし、それが輝く白い衣に変わったのであり、それは復活の栄光の予型であった。あるいはまた、いつか実現する神の国の成就に於ける、救われた者たちの姿であるかもしれない。
この出来事は、イエス・キリストに従う教会に於いて、必ず実現するだろう。否、いまも実現しつつあるし、実のところ、これまでの歩みの中で、確かに私たちが目撃し、経験したことに違いないのである。立ちこめた雲の上には、輝く太陽がある。夜の帳の向こうには、神の栄光がある。マルコはもしかすると、それを楽しみにしてもらうために、イエスの復活の姿を描くことをしなかったのかもしれない。説教者ももしかすると、そのような可能性を考えていたのだろうか、とも思った。そしてまた、黙示録の記者は、この真っ白な輝きをなした衣は、十字架の血で洗ったためである、と付け加えるかもしれない、などと想像をしてみるのだった。