【メッセージ】新しい人生

2026年4月26日

(コリント二5:10-21, ヨブ22:21-23)

だから、誰でもキリストにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去り、まさに新しいものが生じたのです。(コリント二5:17)
 
◆転生  

昔「テレビマンガ」などと呼んでいたものは、今は「アニメ」となりました。メディアも、テレビだけではなく、ネット環境の方が主流にすらなってきています。そして、昔は半年くらいは一続きで放映されていましたし、中には数年にわたり続き、原作の連載マンガを完結するものもありました。最終回まで一気に流す、というのが当たり前とされていました。
 
いまは違います。ドラマもそうですが、ひとつの季節の3か月を1クールとして、12回から13回でひとまず終わるのが普通です。そして好評だったり、制作側がもっと、と思うときには、またしばらく間を置いて、「第2期」が始まります。1期だけでは、原作の中のほんの初めの部分でしかないのですが、へたをするとそのままもう続きが制作されない場合もあり、アニメ史上には、非常に中途半端にぶつんと終わった作品として遺ることになります。
 
先のクールで、第3期を終えたアニメがあります。「推しの子」です。次の第4期の放送も制作が決定されています。恐らく次が完結だろうと言われていますが、ファンはこのインターバルで苛々するようなこともなく、むしろじっくりと楽しむようになっているのだろうと思います。
 
「推しの子」は、芸能界の裏事情のようなものを描くと共に、スキャンダルの背後にある生まれ変わりがもたらすミステリーの物語です。同じアイドルを愛する若い医師と、その重病患者の12歳の少女とがいて、医師は何者かに殺され、少女も病気で死ぬ。が、アイドルが出産した双子にそれぞれ生まれ変わるが、そのアイドルはやがてまた何者かに殺される。双子として生まれ変わった二人は、成長して、芸能界に入り、アイドルの母親を殺した犯人を捜す……。
 
これは一種の「転生モノ」と言えるでしょう。昔風に言うならば、「生まれ変わり」ですが、アニメ界では不動のジャンルを誇る、人気の分野です。但し、その多くは「異世界」へ別の存在として生まれ変わるため、「異世界転生モノ」などとも呼ばれます。私は殆ど見ませんが、奇想天外な設定により、ぶっ飛んだストーリーやギャグが楽しい様子です。
 
但し「転生」は「てんせい」と読むようです。仏教の思想からすれば、当然「てんしょう」と読むのですが、アニメ界では「てんせい」です。キリスト教も、仏教の「らいはい」を「れいはい」と読み、仏教の「愛」は執着(しゅうじゃく)の極みのようなものですが、キリスト教では「愛」は尊い自己犠牲を意味する傾向がありますね。
 
自分は、いまとは別の人生を歩みたい。もしも違う人生だったらどうなるか。そんな願望や空想があるから、転生ものが面白いのかもしれません。若い世代に、そういう思いが強いのでしょうか。一時期、「親ガチャ」という言葉が流行しました。どうしてこんな親の下に生まれたのか、子どもは親が選べないじゃないか。自分はなんて不運なんだろう。そうしたものと通ずるものがあるかもしれません。
 
◆やり直したい人生
 
転生ほどではなくても、人生をやり直したい。そんな思いをもつ人も少なくありません。私も、「あのとき、こうしていれば」思う瞬間があります。だいぶ心が迷ったのです。勇気を出して、それをしていれば、言っていれば、人生が変わったかもしれないわけです。
 
ドラマチックには「♪あの日 あの時 あの場所で 君に会えなかったら 僕等は いつまでも 見知らぬ二人のまま」という歌が、ピンとくる人もいるでしょうか。「ラブ・ストーリーは突然に」は、1991年当時、史上最高セールスを記録したCDでした。
 
もう一度人生を繰り返す。英語だと、再び生まれるという「リボーン」という語がそれを現します。この4月からも、「リボーン」と題するテレビドラマが始まっています。この1月からのクールでは、生まれ変わりとは言えませんが、別人になりきって生きたらどうなるか、を描くドラマがバッティングしていました。
 
亡くなった人にもう一度会いたいとか、別の人生を試してみたいとか、誰もがどこかで抱く願望や夢想を、物語にする。そういうファンタジーは、一定の人気を得ることができるようです。また、創作する方も、特定の分野の人から文句をつけられるようなことも少ないでしょう。なにせすべて想像上の出来事なのですから、実在の職業や組織などについて虚偽を描くことがないわけです。
 
そこにあるのはただ、「もしも生まれ変われるならば」という空想だけ。現実にはないけれども、どうしても空想してみたくなるテーマは、多くの人に興味を抱かせることができるのです。
 
その背後には、記憶と後悔とが関与していると思われます。以前のことが記憶されているからこその願望です。以前のことが悔やまれるからこその願望です。
 
そしてしばし夢を見たら、もうその夢は夢として引き出しにしまうことができることでしょう。そうして、踏ん切りをつけて、現実を前向きに生きてゆける、そういう心理が生まれるような気がするのです。
 
◆再生の物語
 
こうした捉え方は、よく心理学的に、あるいは哲学的に、「死と再生」という概念で考えられています。民俗学的にも関心の強いものですが、ひとは、あるいはひとの社会は、「死と再生」という二つの事柄を、しばしばセットにして捉えるようにしてきました。その詳細についてはいま取り上げませんが、文学でも実に多くの作品でモチーフに用いられているように思います。
 
もっと好例があろうかと思いますが、私の手近なところにあった文学の中で、「再生」に幾らか膨らませた意味をもたせたように思われたものについて、順に触れてみたいと思います。
 
まず、森絵都の『カラフル』という物語。これは、自分の罪を思い出すために、天使から選ばれて再び地上に戻されるという、ユニークな設定から始まります。人生に再挑戦するというストーリーですが、罪の故に輪廻から外されるというのが、理解を難しくします。そもそも輪廻は、仏教的には迷いによる苦しみの循環であり、そこから抜け出す方がよかったのではないかと思いますし、前世がどうとかいう中に、天使とか罪とか、面食らってしまうばかりなのですが、まあとにかく、そこに魅力を覚える人の多い、名作のひとつと言われている物語のようです。
 
『ライオンのおやつ』は、小川糸さんの作品。ホスピスと言ってよいのでしょうが、「ライオンの家」という施設に、終末期を迎えた人々が集まって織りなす美しい物語です。主人公の女性がそこに来たところから、物語は始まります。そこでは、日曜日の午後に、一人ずつ、おやつがリクエストでき、そのおやつにまつわるエピソードを話す交流の場となっています。そこには死という行き先しかないのですが、それだけに「いま」を新しく生き直すような勇気を与えてくれる物語だと思います。
 
『舟を編む』は、映画やアニメ、テレビドラマにもなり、ポピュラーになりました。但し、2025年にヒットしたテレビドラマは、視点もストーリーもかなり変わっており、原作とは全く違う物語となっていると思いますので、三浦しおんさんの原作にいま目を向けることにします。というのは、『大渡海』という辞書を編纂するストーリーなのですが、その監修を担った松本先生が、テレビドラマでは亡くなることがなかったのです。国語学者の松本先生が、誠実に言葉を編み、海を漂う舟のような辞書に、最後まで命を懸けて取り組む姿勢には、涙せざるを得ませんでした。『大渡海』の完成を待たずに逝った先生でしたが、周囲のメンバーが、どんなにか先生を慕い、尊敬していたかがよく伝わってきました。
 
その編集部に舞い込んだ岸辺みどりが、辞書の何たるかも知らずにふてくされていたような当初とは違い、次第に辞書の仕事に打ち込んでゆく姿勢が、テレビドラマでは印象的に描かれていました。ドイツでも賞を受けるほどに、優れたドラマではありました。
 
輪廻転生というようなあり方や、生き返るという方法も、一つの物語の道でしょう。しかし、『ライオンのおやつ』では、限られた未来の中を生き直す人々を描いていました。『舟を編む』に於いては、仲間を信じて、自分にできることを最後までやり抜く勇気は、その周囲の者を新たな生き方へと導くことにもなりました。いろいろな「再生」の物語が可能なのだと教えられます。だから、物語は、読むべきなのです。経験すべきなのです。
 
◆新しく造られた者
 
いまの自分に満足できない、と思うことがあります。こんな人生は嫌だ、やり直したい、と思うのは、決して否むべき思いではありません。しかし、それだけに留まっているわけにもゆかないような気がします。隣の芝生は青いとばかりに、人を羨むことしかできないのは、寂しいものです。かと言って、自分は最高だ、と自信過剰になるのもどうかとは思いますが、ひとはやはりどこかで、生き直したい、と思うひとときも、もつものなのでしょう。
 
そのとき、新しい生き方を積極的に求めるのは、前進のためにはよいことなのかもしれません。そして、自分はこうなりたい、本当の自分はきっとこうなのだ、というような願いのように幻を見るということもあるでしょう。先ほど挙げた物語は、そういう「自分のため」が、次第にそうではなくなってゆくことへと目が開かれてゆくものだったように思われます。
 
そうです。ただ自分が変わりたい、自分の新しい人生を求める、というだけなら、なかなか迷宮から抜け出すことができないのです。実際、聖書も、そういう前提に揺さぶりをかけます。
 
誰でもキリストにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去り、まさに新しいものが生じたのです。(コリント二5:17)
 
聖書に触れたことがおありでしたら、多くの方が耳にしたことがあるだろう言葉です。勇気が与えられます。もう古いものは過ぎ去りました。新しいものが生じたのだ、という断言。そして、あなたは新しく造られた者なのだ、と告げます。パウロは、なんともうれしい言葉を投げかけてくれました。
 
事実、キリストの愛が私たちを捕らえて離さないのです。(コリント二5:14)
 
このキリストの愛があるからこそ、私たちは新しい人生を始めることができる。パウロはそういう興奮に身を包まれていました。この流れを、聖書の言葉からそのままに受けることにしましょう。
 
14:事実、キリストの愛が私たちを捕らえて離さないのです。私たちはこう考えました。すなわち、一人の方がすべての人のために死んでくださった以上、すべての人が死んだのです。
15:その方はすべての人のために死んでくださいました。生きている人々が、もはや自分たちのために生きるのではなく、自分たちのために死んで復活してくださった方のために生きるためです。
16:それで、私たちは、今後誰をも肉に従って知ろうとはしません。かつては肉に従ってキリストを知っていたとしても、今はもうそのように知ろうとはしません。
17:だから、誰でもキリストにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去り、まさに新しいものが生じたのです。
 
キリストは、すべての人のため――いまはとにかく、私のために、死んでくださいました。すべての人が――私もまた、死んだのです。そのことにより、生きている私が、「もはや自分たちのために生きるのではなく、自分たちのために死んで復活してくださった方のために生きるため」です。
 
私は、「ためです」という目的に聞こえる言葉を、「ようになりました」と結果を示すように読み替えてみることをよくやります。ここでも、キリストの死により、私は「もはや自分たちのために生きるのではなく、自分たちのために死んで復活してくださった方のために生きる」ようになった、と読むのもよいのではないでしょうか。
 
キリストは復活しました。私たちはこの1か月、その思いを抱きながら、毎週神の前に出ることを楽しみにしてきました。だから、いま新たな命に生きるようになったことを、共に心から喜びたいと願います。
 
◆新たに生まれる
 
キリスト教世界では、このように新しい人生を歩み始めることについて、「新生」という語を用いることがあります。新しく生きることなのでしょうが、もしかすると新しい生命のことなのかもしれません。思えば漢字の「生」という文字が、多重な意味を有しており、英語の「life」と同様に、いろいろな意味合いで用いることができるのでした。「人生」「生活」「生命」、すべて「生」の漢字の中に含まれる概念でしょう。
 
この「新生」は、やはりいまは「新しく生きること」のように見えるでしょう。でも、キリスト教はもう少し強い意味をもっています。「新たに生まれる」ということです。
 
思い起こすのは、ヨハネ伝の、ニコデモの件です。ニコデモは、ユダヤ教の中で身分をもちながら、夜こっそりとイエスを訪ねます。イエスに何を求めに来たのか、いまひとつ判然としませんが、イエスを慕って来たことだけは分かりました。そこでイエスは、いきなりこう告げます。
 
イエスは答えて言われた。「よくよく言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」(ヨハネ3:3)
 
ニコデモはそれをよく解しませんが、イエスはさらに「『あなたがたは新たに生まれなければならない』とあなたに言ったことに、驚いてはならない」(3:7)とも言いました。
 
他にまた、ペトロの手紙一の初めの1章のところでも、この「新たに生まれる」ことについて言及されていました。
 
3:私たちの主イエス・キリストの父なる神が、ほめたたえられますように。神は、豊かな憐れみにより、死者の中からのイエス・キリストの復活を通して、私たちを新たに生まれさせ、生ける希望を与えてくださいました。
 
23:あなたがたは、朽ちる種からではなく、朽ちない種から、すなわち、神の変わることのない生ける言葉によって新たに生まれたのです。
 
ペトロの手紙は、少し時代が後になってから書かれたのではないか、と言われています。次第にキリストの教えが落ち着いてきたのだとすると、ヨハネ伝と共に、いわゆる教義も幾らか安定してきたことが推測されます。私たちが「新たに編まれる」ためには、キリストの復活が必要であること、そして神の言葉に基づくべきであることが、こうした記述から窺えるように思えます。
 
しかし、新約聖書の初期のものと言えるパウロ書簡では、もう少しストレートな表現も使われていました。パウロはガラテヤの信徒への手紙の中で、非常に熱い声を発しています。旧約の律法の一つであった「割礼」という儀式が、救われるためには必要だ、と教える輩が、ガラテヤの教会に入ってきたと聞いて、いきり立ったのです。それではキリストの救いは何だったんだ、と憤るのです。それで、新しく生まれることについては、このような言い方をします。
 
割礼の有無は問題ではなく、大事なのは、新しく造られることです。(ガラテヤ6:15)
 
◆和解
 
「新しく造られた者」であることを、コリント後書で宣言していたパウロ。これに続いて、次のように語っているところまでを読むことにします。
 
18:これらはすべて神から出ています。神はキリストを通して私たちをご自分と和解させ、また、和解の務めを私たちに授けてくださいました。
19:つまり、神はキリストにあって世をご自分と和解させ、人々に罪の責任を問うことなく、和解の言葉を私たちに委ねられたのです。
20:こういうわけで、神が私たちを通して勧めておられるので、私たちはキリストに代わって使者の務めを果たしています。キリストに代わってお願いします。神の和解を受け入れなさい。
21:神は、罪を知らない方を、私たちのために罪となさいました。私たちが、その方にあって神の義となるためです。
 
キリストの死、そして復活。それを信ずるならば、私たちは罪に死に、新たな人生を始めることができる。それだけのメッセージでも、十分よいニュースであるような気がしますが、パウロはそこで終わりません。ここで言及されているのは、「和解」ということです。私たちは今日、最後にこの「和解」ということについて、心を探られることと致しましょう。
 
「和解」という語は、少し硬い言葉です。裁判に於ける「和解」という言葉が私の頭に浮かびました。裁判での判決を以て、言わば外部の力によって争いを終えるのではなく、互いに歩み寄り、互いに納得のいく結論を自分たちで引き受けよう、というものです。
 
聖書は、裁判の用語や考え方に満ちています。そもそも旧約でいう「律法」というものが即ち「法律」であることを思えば、それが掲げられて守るとか罰を与えるとかいう次元は、法的な場での話に違いありません。そしてイエスの死についても、それは裁判に基づく死刑でした。決して、暗殺されたわけではありませんし、暴力や病気で死に至ったということでもありません。尤も、死刑というものがひとつの国家権威による暴力だ、という見方は当然できると思われますが、いまはそれには触れないでおきましょう。
 
イエスの裁判の描写も、なかなかのものです。私はそうした法的な手続きには疎いものですから適切なコメントはできないと思いますが、新約聖書にはそもそも、法律用語が多用されている、と聞いたことがあります。法を無視しては、新約聖書は適切に読めないものなのかもしれません。私も、読み足りないところがいろいろとあるだろうと思います。
 
「神の和解を受け入れなさい」とパウロは言います。しかも、「キリストに代わって」とまで言っています。自分は神の使者であるからだそうです。それは、恰も「天使」と言っているようなものです。「天使」は正に、「神の使い」だからです。
 
私たち人間は、神から「和解」を提示されている。だから受け容れよ。いったい、その「和解」とは何のことでしょうか。本当に、この「和解」は必要だったのでしょうか。単にひとが救われたいから、神を救うプロだとして、こんなことを持ち出したのでしょうか。
 
そこで、己れのことを思い起こしました。私はかつて、神の和解案を知るどころか、神を神として敬わず、神から差し伸べられている手を感知することができないでいました。神の愛を棒に振るかのように、まるっきり無視していたのです。
 
◆和解の献げ物
 
本日はもうひとつ、ヨブ記を旧約聖書から開きました。これは一風変わったお話です。あまりにできのいい信仰者ヨブについて、サタンが神に挑戦を仕掛けます。ヨブを不幸に陥れたら神を呪いますよ、と。ヨブは一日にして、不幸のどん底に陥ります。しかしヨブが神を呪うことはありませんでした。子どもたちを喪い、財産も失くしたヨブは、確かに神に文句を言いませんでした。だが、見舞いに訪れた3人の友人たちは、ヨブにも隠れた罪があるはずだ、と追及します。ヨブもそれに応酬しますが、こうした議論が、ヨブ記の大部分を占めています。
 
もちろん、友人たちの議論が、必ずしも適切であるかどうかはまた別です。ヨブは繰り出されてくる友人たち一人ひとりの論客に、懸命に自分の正しさを訴えます。そんな中、この不幸はヨブが犯した罪の故だ、と主張してやまない、テマン人エリファズの議論の中に、「和解」という言葉が現れました。
 
21:あなたは神と和解し、平和を得てほしい。/そうすれば、幸いが訪れる。
22:神の口から教えを受け/その言葉を心に留めてほしい。
23:あなたが全能者に立ち帰るなら/あなたは元どおりにされる。/あなたの天幕から不正を遠ざけるがよい。
 
申し上げたように、エリファズは、この不幸がヨブ自身に因るものだと思い込んでいます。そして罪を認めよと主張するものですから、「神と和解」せよ、と迫ります。罪は、神との間に壁をつくります。だから、神の言葉を心に留め、神に立ち帰れと言っています。そうして、「神と和解し、平和を得てほしい」と願います。
 
しかし旧約の時代に、神との和解をなすものは、動物を中心とした献げ物でした。とくに「和解のいけにえ」と見られるものがあり、おもに感謝や誓願のために動物などを献げるものでした。聖書の中では「和解の献げ物」という名前で記されています。これは「全焼のいけにえ」とは異なり、血や脂肪を除いた肉は献げた後に食べることになっていました。レビ記に詳しい規定が書かれています。
 
神との間の和解のために設けられた儀式ですが、もしかすると、この食事にも意味があるのかもしれません。というのは、共に食すということは、間違いなく仲間であることであって、争っている相手や仲違いをしている相手と食することはないと思われるからです。神と共に食する場を設ける。それは、神との間に和解が成り立っているからでありましょう。
 
私たちは、改めて「最後の晩餐」と呼ばれる一幕を思い起こします。イエスは弟子たちと、食事をしたのです。神との和解を促すかのように、共に食事をしたのです。その食事の場から、イエスを引き渡すユダが逃れて行きました。食事の場にいたペトロを初めとする弟子たちは、逮捕されたイエスを見棄てて逃げました。しかしイエスは、パンを裂き、ぶどう酒を分かち合いました。
 
取りなさい。これは私の体である。(マルコ14:22)
これは、多くの人のために流される、私の契約の血である。(マルコ14:24)
 
弟子たちは一度、イエスから離れるだろう。だが、私が共に食したではないか。和解していたではないか……。
 
このとき、イエス自らが、和解の献げ物になる覚悟を決めていたことを思うと、身が引き締まります。旧約の規定では、献げ物によって、民の罪は赦されることになっていました。そして確かにイエスは献げられました。それによって、罪の赦しが成し遂げられ、罪に死んだと認める者には、新しい命を与えることができるようになりました。イエスは献げ物とされるために死に渡されましたが、神により復活せられたからです。神との和解に立つ者は、この復活に与るのです。このキリストにあるなら、すでにあなたは「新しく造られた者」となっています。俯く必要は、もうないのです。



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