責任
2026年4月24日

事故や災害の報道について、その全てを記憶することはできないのだが、その人にとり、忘れられない報道というものはあるだろう。
福岡西方沖地震が発生し、被害そのものは甚大とまではいかなかったが、福岡がだいぶショックを受けていた、その約1か月後、JR福知山線の列車が、尼崎でとてつもない事故を起こした。カーブを曲がりきれないスピードのまま走って脱線し、沿線のマンションに突っ込んだのだ。先頭の2つの車両はもはや形を為しておらず、それはそれは悲惨な事故状況だった。
2005年4月25日朝のことだった。
「福知山線」という名前が報道で連呼された。妻の実家が福知山市である。京都市と結ぶ線ではないので、そのときまでは利用したことはなかったが、事故現場ではないのに、全国に「福知山」という名前が轟くことになったのであった。福知山は、京都府北部の都市。事故現場は兵庫県である。ちょうど、鹿児島本線が博多を通る、と言っているようなもので、事故が福知山で起こったわけではないので、言い方も難しい。
死者は107名とされているが、負傷者がその何倍もいることに加え、精神的に与えたダメージは大きく。本当に悲しい事故となった。
原因が、果たして確定しているのかどうか、私は知らないが、運転士の行動の不可解さが要因とされ、それをもたらしたJR西日本の体質が問題視されていたと思う。ただ、事故当初、そのJR西日本が、「置き石」の可能性を強調していたことは、醜かった。まだ何の調査もなされておらず、事故発生からわずか6時間後、まだ救出活動も進んでいない中で、「置き石」だろうとの見解を発表したのである。
そういう企業体質が、運転士を追い込んでいた、ということが後で分かってゆく。
人間は、まず言い訳を考える。また、誰か他人のせいにしたがる。気持ちは分かる。私たちも多かれ少なかれ、そうなのである。自分が歩きスマホをしていても、ぶつかったのは相手が悪い、と考えるに違いない。自分が傘を斜めに向けて握って歩いていても、自分は何も悪くない、と主張するに違いない。
もし、直ちにそれは自分の責任です、ときっぱり宣言する人がいたら、どうだろう。世間はそれを「潔い」と称するかもしれない。だがそうやって褒めておきながら、内心はそいつを葬ってしまうのだ。「馬鹿なやつめ。損を買って出るなんて」と見下すのだ。
「責任」という日本語は、造語だとされている。日本語では何も感じないだろうが、翻訳する元の語は、英語なら「responsibility」である。これは、レスポンスすること、即ち「応答すること」を意味する。「応答」は、確かに外からのものに対してではあるが、自ら応答してゆく積極性をもっている。だが、訳語としての「責任」は、ただ義務を負うというようなニュアンスを表に出す。
「応答」は、言うまでもなく、神への応答が基本である。人間は、命を与えた神に向き合い、その神から与えられるものに対して応えるという立場にある。そこに、「責任」を覚えるのである。
自ら責任を負うことを、表向きは「潔い」と称える恰好をして、その実「損なことしたな」と軽蔑するようなことは、神の存在とは程遠いレベルのさもしい心ではなかろうか。
日本では、「潔い」という美称と共に、「潔く散る」とする「切腹」により、家を守る、というような文化もあった。それは、ごく一部のそうした潔さを尻目に、殆どの者が、「自分は悪くない」という穴に逃げ込む実態を示しているように思われてならない。