聖書の言葉の意味なんて

2026年4月22日

「金閣寺をつくった人は誰でしょう?」「足利義満」「残念でした。答えは、大工さん」
 
こんな会話で、子ども時分に笑い合うことがあった。ナンセンス・ギャグなのかもしれないが、案外言語の使用法について考えさせる事柄ではある。それは、「つくる」の主語を考えるのであるが、もちろん義満か命じて建てさせたというのが本当であるし、歴史上の叙述はそのように考える。だが、実際に建築行為をしたのは、大工さんである、と言ってもよいだろう。
 
言語使用は、文字通りの意味とは別の意図でなされることがある。日本語でも英語でも、「穴を掘る」と言うが、「穴」を目的の言葉だとする言い方なのだろう。だが、「掘る」対象は、地面であって、「穴」にいまからスコップを当てよう、というようなことではない。「湯を沸かす」のも同様である。「水を沸かして湯へと変える」のであって、いまそこにある「湯」を、沸かすのではない。
 
ときに、文化が違えば、それを直訳したって意味が理解できない、というケースもある。慣用句やイディオムというものは、しばしばそのような例に満ちている。しかしまた、ただの概念であっても、その語がもつニュアンスというのは、翻訳した後には消えてしまう場合がある。英語だけを取り上げても、「責任」には、「応答」が含まれているとか、「個人」や「個性」には「分けられない」という感覚が伴う。「原子」もまた「分けられない」というギリシア語であるが、現代物理学は構造上原始はズタズタに分けてしまい、ひとつの物質の単位として「分けられない」意味に減じている。
 
聖書の言葉も、直訳だと何を言おうとしているのか、分からなくなる事例が多々ある。ギリシア語の新約聖書だと、英米語にいくらか馴染んだ私たちには、少し理解できる部分もあるが、ヘブライ語だと、全く理解できないこともしばしばである。それは、西欧語に基づく神学を営む学者たちも同様であるらしく、注釈入りの聖書には、欄外に、直訳を入れてみたり、意味不明であるとの正直なコメントを載せたりしている。
 
翻訳したものを正典とは認めないイスラム教と異なり、聖書はどの言語に翻訳しても、聖書である。それだからまた、翻訳によって、様々な受け取り方も起こるし、別の言語だと訳の与える印象がかなり違う場合もあり得るだろう。だからギリシア語原語の知識が必要だ、という神学者もいるが、そのギリシア語理解だって、しょせん他言語との照合などに基づく解釈に過ぎない、と言えばそうである。元の原語の伝えたいニュアンスを完全に分かると豪語するのはどうだろう。
 
さらに問題はある。新約聖書はギリシア語で書かれている。しかしそもそも、イエスがギリシア語を話していたのではない、とされている。それを記した弟子たちも、ギリシア語を母語としていない場合が多々あると思われる。いうなれば、日本人が、日本思想を英語で世界に発表しているようなものであり、日本思想そのものは形として遺らず、ただその英語だけが後世に伝えられた、という事情なのである。
 
その英語が、どこまで日本思想を伝えきれるか、心許ないではないか。いつか、Eテレの100分de名著という番組で、『源氏物語』のウェイリー版を取り上げていたが、英米人に伝わるように工夫した英語は見事だと思ったが、それはとてもじゃないが光源氏そのものではない。もちろん古語として見る私たちからしても、平安文化を完全に理解しているとは言えないわけである。
 
パウロは、かなりギリシア語ができたようだ。実に頭の良い人である。だが、福音書をギリシア語で知る人の言うことには、福音書のギリシア語は相当に稚拙である場合が多いらしい。そもそもギリシア語として下手だ、とも言われることがある。私のような者が、英文を綴り、本を書いたとしたらどうだろう。何を言っているか分からん、と言われそうだ。それほどではないにしても、新約聖書のギリシア語原典そのものが、文章としても翻訳としても、曰く付きのものだ、と言えそうだ。
 
そのギリシア語を、文法的にこうだから、こういう意味だと受け取らねばならない、と言うのが、学者である。それを、信仰を基にして読み取るのであるのならばまだよいが、ただギリシア語ではこうだ、と言い切って、その意味を、信仰に基づかない自分の見解によって解釈し、他の訳は間違っている、というような態度でいることがあると、私はそこにあまり信を置かないようにしたいと思っている。
 
イエス・キリストと出会い、霊的に――という語はとても曖昧なのであるが、とりあえずそのまま使う――受け止めた聖書の言葉の意味を、時分の信仰として提示する。説教は、そういう場となるだろう。信仰によらないギリシア語文法で斬りまくって示すためのものではない。キリスト者の礼拝は、神の言葉を出来事として受け取るためのものである。もちろん、根柢的には、神を拝するのであり、神に身を献げる場であるべき、とも言える。
 
聖書の言葉は、人を生かすものだ、と私は捉えている。それを神の言葉として受け止めた者が、全身全霊で語る、命の言葉である。言語には言語としての働きや限界があるが、その背後に働く霊が、神の恵みを載せて届けられるであろう。そんな礼拝に恵まれていることを、うれしく思う。



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