振り向くと見える

2026年4月20日

   星とたんぽぽ
   
  青いお空のそこふかく、
  海の小石のそのように
  夜がくるまでしずんでる、
  昼のお星はめにみえぬ。
  見えぬけれどもあるんだよ、
  見えぬものでもあるんだよ。
  
  ちってすがれたたんぽぽの、
  かわらのすきに、だァまって、
  春のくるまでかくれてる、
  つよいその根はめにみえぬ。
  見えぬけれどもあるんだよ、
  見えぬものでもあるんだよ。
 
説教題には、「見えない」という言葉があった。それを見て思い出したのは、金子みすゞのこの詩だった。それから、『星の王子さま』にもこれとつながるキツネの言葉がある。
  
  心で見なくちゃ
  ものごとはよく見えないってことさ。
  かんじんなことは
  目に見えないんだよ
  
これらの言葉の解釈は、いろいろあってよいものと思われるため、その意味をいま問うものではない。ただ、「見えないもの」に特別な意味をもたせているのは確かであろう。
 
聖書の中では、思い起こすのは次の2つの箇所である。
 
私たちは、見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは一時的であり、見えないものは永遠に存続するからです。(コリント一4:18)
 
信仰とは、望んでいる事柄の実質であって、見えないものを確証するものです。(ヘブライ11:1)
 
だが、この朝の説教は、「見えないもの」についてあれこれ探す……というものではなかった。目に見えないもののことではない。言うなれば、「見えているのに見えていない」というものである。この場合、「見る」という語の意味が異なることになる。最初の「見えている」というのは、目に映っているという程度の意味であるが、「見えていない」というのは、認識されていない、というようなことを意味するものと思われる。
 
私は、数学の図形の問題の解説で、よくそのようなことを言う。そこには複数の線が描かれ、図形がごちゃごちゃしている。その中に、二等辺三角形を見つけ出せば、問題は解決されるのであるが、それが見えない。目に映っているはずなのに、二等辺三角形だと意識されていないのである。ウォーリーとかミッケとかいう言葉はいまの子どもたちにもだいたい通じるので、なかなか目的のものが見つからないのも、そういうことだね、などと話すことになる。
 
だがもしかすると、私たちは、見たくないものを心からシャットアウトしてしまうことがあるかもしれない。説教者も触れたが、世界の戦争や飢餓などの事実を、私たちは意識しないようにして生活している。自分が楽しく生きるためには、できるだけ考えないように、心が自動的に働くのかもしれない。
 
被災者の困難も同様で、ふだんは気にしないようにしている。何かのニュースで聞いたときには、気の毒に、などとも思うが、やがて心から追い出してしまうのである。それがどうしても気にかかる、という人が、何かの行動に移すことがあるかもしれないし、逆に言えば、少しばかりの寄付をしておけば、責任を果たしたという安心を得ることができる、という計算も無意識のうちにやっているのかもしれない。
 
さて、聖書はヨハネ伝の20章が開かれた。マグダラのマリアが、未明にイエスの体の納められた墓を訪ねるところから振り返る。蓋をしていた石が取り除けてあったので、ペトロとヨハネと思しき弟子にそのことを知らせ、二人も走って墓を見に来る。二人は家に帰るが、マリアは戻らなかった。「墓の外に立って泣いていた」という場面から、聖書を辿ることになった。
 
最初に問うたのは天使であった。「女よ、なぜ泣いているのか」と。マリアは困惑した情況を返答する。マリアが振り向くと、そこに人が立っているのが見えた。それはイエスであったのに、イエスとは認識できていなかったことが記されている。
 
今度はその人物が問う。「女よ、なぜ泣いているのか。」それは、「視線を外に向けさせる問い」であった、と説教者は示した。マリアは、喪失感と絶望感に打ちひしがれていた。自分の内や足元ばかりを見る心理状態だった。説教者は、父親を亡くしたときにそのような思いに満たされていたことを告げた。聞く者も、多かれ少なかれ、それと同じ気持ちになったことがあるだろう。
 
マリアは、その人物を、園の番人だと思い込んでいた。まさかそれがイエスだとは思っていなかったのである。それは、イエスは死んだという心理的認定に基づくものであった。説教者はそれを「思い込み」と言ったが、少し厳しすぎるかもしれない。思い込むも何も、常識は万人が、マリアと同じ気持ちであったに違いないのである。「マリアの中で、結論が定まっていた」という説教者の指摘は、だからマリアを批判しているのではない。私たち万人に、問いかけているのである。あなたは、信仰ではなく、常識によって、思い込んでしまっていないか。あるい、あなたの感情がそのようでなければならない、と決めつけているいか、と。
 
そしてここからが、説教者の最大の着眼点である。事実として、イエスはすでにそこにいた。つねにすでに、イエスは傍に立っている。ただ私たちが、気づいていないだけのことである。つまり、イエスは「来た」のではない。イエスはすでに「いた」のである。
 
復活の種はそこに立っている。私たちの目が他のものに奪われていて、気づかないだけのことである。ここから、先ほどのコリント前書とヘブライ書の、「見えないもの」についての言葉が、私の心の中に拡がってゆく。
 
イエスはこのとき、「女よ」と言った。そしてマリアの反応の後に、初めて「マリア」と名を呼んだ。説教者がこの変化に目を注いだのは慧眼であった。イエスにしてみれば、それがマリアであることは分かっている。そしてザアカイなどの例にもあるように、人の名を呼ぶことで、神の個人対象の召しというものを強く示すことができるにも関わらず、マリアに個人的に呼びかけはしなかった。それは、マリアの心を開くためだ、と説き明かすのだった。マリアは自ら、心を開かなければならない。いきなり、そこにいるなどとは思いもよらないイエスから言葉が来た、と無理矢理心を開くのではなく、マリア自身から、振り向いて心をイエスに向けて開くように促した、というのである。
 
描写の言葉通りに見ると、私たちは戸惑う。ここで一度振り向いたマリアが、そのままもう一度振り向いたかのように読めるからである。従って私は、園の番人だと思い込んでいたときに、マリアは再びイエスに背を向けていたのだ、と理解する。そうでないと、この現場を再現することができないからである。
 
だが、この「振り向く」は、体の姿勢だけを意味するのであろうか。「振り向く」とは、方向転換をすることである。「悔い改め」という言葉は、その方向転換を意味する。もしそのような象徴的な意味がこめられているとすれば、マリアのこの二度の「振り向き」を、体だけのものと見る必要はない。イエスが「マリア」と呼んだときにマリアが振り向いたというのは、マリアの心が悔い改めた、つまり方向転換して神の方を向いた、ということを意味するのであって、それが園の番人だという常識的な思い込みから、見えないものを見る信仰という神との向き合い方を知る者として、神と向き合った、という変化を表すのではなかっただろうか。魂の向きが変わった、つまり神の方を振り向いたのである。
 
事実、マリアはここからイエスを認識したふうに描かれている。説教者はこのとき、イエスがマリアに言ったことの内容については、一切解説をしようとはしなかった。ただ仲間たちのところへ「行って、こう言いなさい」ということ、つまり「行きなさい」という命令にだけ着目した。それが、マリアへの「使命」であったのだ、と強調した。
 
簡潔にまとめる。イエスに出会って、マリアは使命を受けたのだ。「出会い」から「使命」へ、スムーズにつながる線がここに描かれる。その時に、マリアの「私は主を見ました」という証しが現れる。
 
イエスがいない、と嘆くだけのマリアが、主を見ました、に変えられた。問題は、神の不在ではない。私たちの「振り向き」にある。私たちの「気づき」である。そしてそれは、「信仰」によってのみ、果たせるものである。そのときイエスは名を呼んでいる。そのイエスと「出会い」、「使命」を受ける。そこから、私たちの希望への道が始まるのである。



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