【メッセージ】迷わない羊

2026年4月19日

(ヨハネ10:11,27,28, ゼカリヤ11:15-17)

私は良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。……
私の羊は私の声を聞き分ける。私は彼らを知っており、彼らは私に従う。
私は彼らに永遠の命を与える。
彼らは決して滅びず、また、彼らを私の手から奪う者はいない。(ヨハネ10:11,27-28)
 
◆素直な羊
 
文化が違うので、日本人にとっては、羊という動物は、馴染みのない部類に入ることでしょう。古代に外国から献上されたという記録もあるようですが、西洋文化が入ってきてから、ようやく認識されたのが、羊たるものでした。
 
が、今から半世紀ほど前頃には、日本の原毛輸入や加工、また消費に於いて、世界一位になったこともあるのだとか。現在でも、世界第3位の消費国だといいますから、羊毛は、すっかり文化の中に溶けこんでしまいました。
 
羊という動物のイメージは如何ですか。自己意識を発動せず、周りに合わせてついてゆく、素直な動物だというふうに思う人もいることでしょう。それから、「迷える小羊」というような言葉は、けっこう知れ渡っているようです。
 
クリスチャンは、かつてはその「迷える羊」であったと自分のことを考えることがあります。それが、いまや神に見出されて神に従う者となった、ということでしょうか。
 
羊はまた、導く者をすっかり信用して、おとなしく従うところがあるようにも見られます。クリスチャンは、だから素直な人が多いのだ、と自分で言うのもおかしいのですが、そういうイメージを抱く人もいることでしょう。私は必ずしもそうだとは思わないのですが、それでも「人を信じる」ということは、信仰の「信じる」ことと通じるものですから、人を信じることが良いことであるように考えるのも自然なのでしょう。
 
しかし、どこか「お人好し」であるように見られることもあります。クリスチャンは、すぐに人を信じる方なのかもしれません。でも、「騙すよりは騙されるほうがいいのだ」と開き直る場合もあろうかと思います。聖書では、善いことをするように命じられているのですから、相手を疑って、もしもそれが本当だったら、酷いことをしてしまうことになるのを、恐れているのかもしれません。
 
印象的なのは、申命記の15章です。ひとつの節だけを引用します。
 
この地から貧しい者がいなくなることはないので、私はあなたに命じる。この地に住むあなたの同胞、苦しむ者、貧しい者にあなたの手を大きく広げなさい。(申命記15:11)
 
貧しい人、困窮している同胞に対して、惜しみなく施しをなし、助けの手を差し伸べることを、「手を広げる」という表現で示しています。
 
しかし、厳しい態度をとる牧師や教会もあります。教会に、無心に来るような人もいるからです。あるいは、突然教会を訪ね、財布を落としたから電車代を貸してくれ、と求めてくる人もいます。教会の善意を期待して、金を寄越すだろう、という不届きな考えから、そうする人もいる、ということです。中には、教会について少々知るところがあって、礼拝や集会に加わっておきつつ、困った事情を明かし、どうか新幹線代を……とねだるような人も、いないわけではありません。
 
◆迷える羊
 
「迷える羊」という表現は、宣教師らしい人物を描写するときの、ステレオタイプの台詞だったのでしょうか。実際に教会で「迷える羊」というような言葉で何かを説明することは、私の経験ではまずないと思うのですが、如何でしょうか。
 
百匹のうちの一匹の羊が迷い出る喩えがあり、とても有名です。ルカ伝15章の、「失われた羊のたとえ」です。但し、そもそも羊という動物は、周りが動いたらそれにつられて動くような気もします。自分の判断できびきび行動することがないわけで、それというのも集団に紛れていた方が、何かと安全だという本能の故であるかもしれません。
 
羊は臆病であり、単独行動をしたくないものだ、という説明もよく聞きます。視力が弱いからとりあえず周りに従う、という話も聞いたことがあります。だとすれば、百匹の中の、迷い出た一匹の羊というのは、よほど変わった羊だったのかもしれません。あるいは、わざわざ冒険をしてみようと考えて、仲間と違う行動をとろうとしたのでしょうか。
 
いえいえ、妙な穿った見方はしない方が無難です。そもそもその羊のたとえは、イエスのいわば作り話です。たとえ話は、細かなところにこだわって重箱の隅を突くようなことをするためのものではありません。大まかな象徴性を感じ取ればよいのですから、この百匹の羊のたとえも、いなくなった羊をどこまでも求めて探す羊飼いが、神の姿を表している、と受け止めればよいのです。そして、それが今日のこのメッセージの大筋であることも、心に留めておいてください。
 
でも、その羊には、羊飼いがいました。導く牧者がいました。「迷える羊」の場合は、その飼い主をもたないのです。分からないのです。何を信じてよいのか分からなかったのです。教会の外からこの信仰を見る場合、何を信じてよいのか分からない、という気持ちで見ているのではないかと思います。
 
イエスに出会う前の私も、そうでした。仏教の素養は少しあったものの、それは信仰と呼べるものではありませんでした。ただ、生活習慣のようなものとして、神仏には手を合わせ、神の罰なるものになんとなく恐れをもつというような、如何にも平均的な日本人の宗教心であったのだと思います。
 
とても、何かを信仰するとか、何かに人生を懸けるなどというものでは、ありませんでした。私は確かに、「迷える羊」であったのです。
 
◆羊飼い
 
迷える羊は、移動するとき、誰かに導いてもらわなければなりません。牧羊犬は、その役目を果たします。右に左に動いて、羊たちを一定の方向に誘導するのです。さあ、こちらがお家だよ、囲いはこちらにあるよ、と急かすように走り回ります。羊たちも分かっています。この犬は敵ではない、と。自分たちを安全な方向に動かしてくれるのだ。おっと、こちらは間違っていたのかい。はいはい、こちらに行けばいいんだね。分かったよ。
 
牧羊犬としては、様々な品種の犬が用いられるようですが、有名なのはやはりシェパードでしょうか。誘導だけではなく、見張りとしても一流です。盗賊から羊たちを守ります。野生の動物が襲おうとしても、立ちはだかります。そう言えば、ダビデ王は、若い頃はこうした羊飼いとして活動していました。
 
「シェパード」と言えば、その英語は同時に「牧師」を表すことがあります。迷える羊を導き、また守る存在として、確かに「シェパード」は相応しい呼び名でありましょう。
 
現実の牧師がこれほど逞しく、頼りになるのかどうか、まあいろいろあるかもしれません。けれども、イエスこそ理想のシェパードであることについては、信徒ならば異存はありますまい。今日お開きしましたヨハネ伝10章には、そのことがたっぷりと書かれています。
 
11:私は良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。
 
ドキリとします。命を捨てる、というのは、ダビデが、羊を襲う獅子や熊に打ちかかり倒してきた(サムエル上17:35)と言ったことを思い起こさせます。そしてイエスは、文字通りに命を捨てました。迷える弟子たちのために、まあ飼い主が役に立たず路頭に迷っている民衆のために、イエスは十字架の上に殺されていったのです。
 
このとき、ふと気づかされることがあります。イエスが「良い羊飼い」である、というのは、それはそれでよいでしょう。しかし、その「良い羊飼い」が、「羊のために命を捨てる」と言っていることです。どういうことか? 「良い羊のために命を捨てる」とは言っていない、ということです。
 
ただ端的に「羊のために」としか言っていません。どんな羊であるか、については形容していないのです。もちろん省略しているのかもしれません。事実、ここにいる羊というのは、囲いの中にいるからです。
 
◆イスラエルの羊
 
この良い羊飼いは、「自分の羊の名を呼んで連れ出す」(10:3)のです。羊たちは、「その声を聞き分ける」(10:3)のです。羊たちは、「自分の羊」です。ですから、「羊の囲いに入るのに、門を通らないでほかの所を乗り越えて来る者は、盗人であり、強盗である」(10:1)と、敵に向けて厳しい眼差しを向けています。
 
イエスにとり「自分の羊」というのは、どのような羊でしょうか。つまりは、どのような人間のことなのでしょうか。私はふと、マタイ伝15章に登場した、ティルスとシドンの地方に生まれた異邦人の女のことを思い出しました。
 
悪霊に苦しめられている娘を癒やしてほしい、とイエスに願い出るのですが、イエスは実に冷たい態度をとります。「私は、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」(15:24)とはあんまりです。しかし、女はそれでもイエスのところに向かって助けを求めます。イエスはさらに「子どもたちのパンを取って、小犬たちに投げてやるのはよくない」(15:26)と女を退けました。
 
女はそれでも諦めません。「主よ、ごもっともです。でも、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただきます」(15:27)と機転を利かせた言葉をイエスにぶつけます。いえ、それは機転などというものではなく、女の真心であり、女の信仰でした。イエスは女の信仰を褒め、女の求める通りに娘を癒やしました。
 
この場面は、ある意味でイエスの敗北を伝えています。異邦人に力を表すのを拒んだイエスの閉じた心を、女が開かせたのです。イエスは「イスラエルの家の失われた羊」にのみ遣わされたと言ったのに、それを覆したのです。イエスが、「羊」ということで、イスラエルのみを想定していたことが窺えます。異邦人は、聖書で卑しいものと見なされていた「小犬」になぞらえられているのです。
 
私たちはどうなのでしょう。普通の日本人であるならば、私たちは間違いなく「異邦人」です。イスラエルの国に属するとは言えません。しかも、せめてパン屑でも、という謙虚さすらいまや失った、厚かましい異邦人であるように思えて仕方がありません。こうした異邦人が、本家のユダヤ人を差別し、迫害し、あるときは根絶やしにしようとさえしたことがありました。私たちもまたその異邦人の仲間です。
 
そして、イスラエルの羊たちが元の牧場に戻ってきたことについて、その牙を剥いた獰猛さに対し、いまやどうすることもできません。聖書の終末を呼ぶための神の業だ、と言って、自ら「聖書に忠実である」ことを自負するグループによって、イケイケの強気の態度を示しているほどです。
 
けれども、イエスは必ずしも、イスラエル民族だけを、その「羊」とは見なしていなように思われます。
 
私には、この囲いに入っていないほかの羊がいる。その羊をも導かなければならない。その羊も私の声を聞き分ける。こうして、一つの群れ、一人の羊飼いとなる。(ヨハネ10:16)
 
◆腑抜けの羊飼い
 
イスラエルの歴史の中でも、「羊飼い」というのは、一定の象徴的役割を果たしてきました。イスラエルを導き守る指導者を、そのように喩える言い回しは、旧約聖書のあちこちに見られます。邦訳では、それを「牧者」と訳している場合があります。
 
そして、イスラエルの歴史には、不幸な羊飼いたちがいた時代がありました。いえ、不幸なのは羊飼いではなくて、民衆です。たとえば、今日お開きしたゼカリヤ書11章では、その前の箇所にも、詳しく書かれています。いえ、実際はその前の10章に於いて、為政者が神に背を向けたために、イスラエルは罰を受けた、ということが記されています。
 
人々は羊のようにさまよい/牧者がいないので、苦しむ。
私の怒りは牧者の上に燃え/私は指導者たちを罰する。(ゼカリヤ10:2-3)
 
さらに、その牧者もある意味では仕方がない事態に陥ったことをも書いています。バビロニア帝国に攻撃されて、イスラエル民族の国は滅んでしまったのです。
 
聞け、牧者の泣き叫ぶ声を。/彼らの見事な牧場は荒れ果てた。/若い獅子のほえる声がする。/ヨルダンの茂みも荒れ果てた。(ゼカリヤ11:3)
 
神は、もはや従来のイスラエルの指導者たちのままでよい、とは考えていません。
 
私は一月のうちに三人の牧者を消し去った。私は彼らに我慢ができなくなり、彼らも私を嫌った。(ゼカリヤ11:8)
 
何がどうした、という細かな指摘をしているのかもしれませんが、当事者でなければ、その全貌を理解することは難しいことでしょう。とにかく、イスラエルの「羊飼い」、即ち指導者たちは、もはやイスラエルの「羊」、即ち民衆を守ることができなくなりました。羊たちを見捨てました。見放して、この「羊飼い」たちは逃げ去ったのです。
 
神が引きずり下ろした、というような言い方をしていますが、もはやイスラエルの上に立つような存在としては、認められなくなったものと思われます。
 
◆一時的な回復
 
けれども、いつまでもそのままでいるわけではありません。イスラエルの力は再び盛り返すであろうことも預言されています。
 
私は彼らをもろもろの民の間に散らしたが/彼らは遠い国々で私を思い起こし/その子らと共に生き長らえて、帰って来る。(ゼカリヤ10:9)
 
ゼカリヤ書は、捕囚からの帰還を知った上で記されているものと見られています。つまり、一時的ですが、イスラエルが復興したことを知っているのです。ですから、イスラエル民族は滅んでしまったのではなくて、よみがえったのです。そのため、預言書としても、神の計らいは希望のあるものと理解されるべきものとなりました。
 
なんとか捕囚から、人々が戻ってきて、イスラエルが立て直される見通しがつきました。少なくとも、その希望がもてるようになりました。しかし、真にイスラエルが回復されるためには、信仰の道が必要であることを指摘します。つまり、預言者ゼカリヤに対して神は、新たな牧者が必要であることを知らせるのです。今日お伝えしたかったのは、ゼカリヤ書のこの箇所です。
 
15:主は私に言われた。「あなたはもう一度愚かな牧者の道具を取れ。
16:今、私はこの地に一人の牧者を起こす。彼は失われたものを訪ねず、迷ったものを捜し求めず、傷ついたものを癒やさず、飢えているものを養わず、肥えたものの肉を食べ、そのひづめを裂く。
17:災いあれ、羊を見捨てる役に立たない牧者に。/剣がその腕と右の目を打つように。/その腕が全く力を失い/右の目は全く見えなくなるように。」
 
ゼカリヤの役目は、これで終わります。では、その後イスラエル民族はどうなったでしょうか。結論的に言いますと、この回復の希望は、そのまま続くものとはなりませんでした。確かにバビロニア帝国が滅び、後を継いだペルシア帝国は、イスラエルの民を帰還させます。その背後には、実のところ政治的な思惑があり、宗教的な理由からそうしたのではなく、ペルシア帝国にとり、それが得策であっただけのことなのですが、イスラエル民族は、大喜びでした。解放したキュロス王を、油注がれた者、即ちメシアであるというほどに絶賛したほどです。
 
こうしてイスラエルの国は、ペルシア帝国のひとつの州として、一時的な自治ができるようになりました。イスラエル民族は、B.C.538年以来、宗教を支えとして、なんとかアイデンティティを保って生活を続けてゆくことができました。
 
◆まことの羊飼い
 
先ほども触れたように、ゼカリヤ書は、捕囚からの帰還を踏まえて書かれた預言書でした。神学者たちは、ゼカリヤ書の後半については、時代的にさらに遅く、ヘレニズム文化が広まっていた、エジプトやシリアの支配があったころに付け加えられたのではないか、と考えているようです。
 
比較的平穏な宗教的共同体を営むことが続いていたイスラエルでしたが、セレウコス朝の王アンティオコス4世からアンティオコス4世エピファネスにかけて、ユダヤ教の中でどう従うのか、分裂が起きたと言われています。そして愛国的右派とも言えるグループが、B.C.167年にマカバイ戦争を始めました。長い戦いが続きますが、その結果生まれたハスモン朝が、一時的な独立を生みます。
 
このときに、ユダヤ教が厳密に支配してゆくことになったと見られています。旧約聖書が次第に整えられていった時期だとも言えます。正式に「正典」として成立するというのは、現代と違って、何年に制定、と考えるわけにはゆかないのですが、宗教的基準が必要になったこの時期に、次第に固まっていったと見るのは、大きく的を外していることにはならないと思われます。
 
ところが、この後に勢力を強めたのが、ローマ帝国でした。独立できたユダヤの国も、百年ほどすると、ローマ帝国の支配下に入ることになります。それは、イエスの誕生の数十年前のことでした。
 
ハスモン朝の成立の頃から、ユダヤでは復活の教義が表に立つようになり、メシアを待望する信仰が強くなったようです。そして、イエスが登場したとき、人々は、この方こそイスラエルを救うメシアではないか、と見たことが、新約聖書にはふんだんに書かれています。このような背景の中で、私たちは新約聖書を見るべきなのでした。
 
11:私は良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。
 
イエスはメシア、つまりキリストだと期待されました。イエスもまた、それを当初はあからさまにはしなかったものの、その自覚の下に、教えと癒やしの活動を続けていたものと思われます。弟子たちにそれを明かしても、弟子たちはすぐには信じることができませんでした。
 
というのは、このメシアは、人々に恨まれ、捨てられ、十字架の上で命を落とすことになったからです。イエスが命を落とすことについては、受難週からの私たちの祈りの中で、私たちの心に十分心に刺さっているものと思われます。そして復活祭で、その先の景色が見えるようにもなりました。私たちはそれを確認してきました。
 
27:私の羊は私の声を聞き分ける。私は彼らを知っており、彼らは私に従う。 28:私は彼らに永遠の命を与える。彼らは決して滅びず、また、彼らを私の手から奪う者はいない。
 
私たちも、このイエスの声を聞いています。イエスの声を聞く。聞き分けるのです。他の世の紛らわしい正義や愛の声ではなく、神からの言葉を、神の声を、それと聞き分けます。そのためには、イエスとの交わりのうちにいることが必要です。それはイエスと出会うこと、イエスを「知る」ことです。
 
私たちの目の前には、まことの羊飼いがいます。そしてそのイエスに「従う」道が与えられています。その道の行き着く先には、「永遠の命」が待っています。
 
私たちは、その道を、聖霊というシェパードに導かれながら歩む羊です。私たちは確かに羊です。けれども、イエスの声を聞く限り、そして聖霊というシェパードに導かれる限り、もう迷うことのない羊なのです。



沈黙の声にもどります       トップページにもどります