現実たる「もしも」

2026年4月13日

「試合前からすでに……」

『ああ……これから試合だけど、相手は強そうだ。負けるかもしれないなあ』
 じゅん君は、戦う前からびびっています。そこへ、審判が声をかけます。
「それでは、今から試合を開始します」
『ああ……ついに始まる……神さま、助けて!』
「この試合、じゅん君の、勝ち!」
「え? ぼくの勝ちなの? なんで? なんで?」
 とまどうじゅん君に、審判はすました顔でこう告げました。
「もう、あなたは勝ちは決まっている。だから、弱気になる必要はない」
 イエスは、信じる者は、もうすでに勝利が約束されていると言います。
 どうなるだろうか、と不安な心は、いっさいいらないのです。
 
あなたがたは、この世ではなやみがある。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝っている。(ヨハネによる福音書16:33/口語訳-日本聖書協会)
 
だいぶ前に書いた文章である。あるいはまた、いくら人気のコンサートであっても、前売チケットをもっていれば、必ずコンサート会場に入ることができる安心感がある、といった話をしたこともある。
 
キリストの福音は、そのような安心に基づいている。それは、この究極の勝利についてばかりではない。キリストにあって私たちが信じている様々なことに於いて、言える構造であるに違いない。
 
教会は、新年度に入った。法人格として一定の約束に基づいて運営すべき組織は、年度という区切りの中で、何らかの手続きをしなければならない。それに合わせて活動の指針を出す、ということは、動きをスムーズにするためにも適切であろう。
 
先週が、年度初めの礼拝であったが、復活祭の礼拝がちょうど当たっていたために、その翌週たる12日が、年度初めの聖書の言葉を語るに相応しい場となった。今年度、教会のモットーとなるべき聖書の言葉が語られた。
 
牧師が選ぶ教会もあろう。役員会が決めるところもあるだろう。当教会では、信徒全員の要望を募ったものを、役員が検討するという型式をとっている。そのときひとつの光る言葉があった。礼拝のための祈りで、役員がしばしば――というより、もう毎週――祈りの中に含めていることは、平和であった。ウクライナへのロシアの攻撃に加え、アメリカがイランを攻撃し始めた。イスラエルがパレスチナに攻撃していることも続いている。遠い地での出来事ではあるにしても、教会に集う人々は、ずっと心を痛めている。
 
「すべての人と平和に過ごしなさい」(ローマ12:18)
 
ああ、そうだ。改めていま、私たち自身がこれを我が物として受け止め、そしてこの世界もまた、この言葉に従うような成り行かないか。この祈りを、教会の一筋の祈りとして核とすることが必要である。
 
だが、このローマ書の言葉は、一文がこれだけで置かれているわけではない。
 
できれば、せめてあなたがたは、すべての人と平和に過ごしなさい。(ローマ12:18)
 
前半が付くと、先ほどの断定的な命令のようなものが、だいぶ譲歩されるような響きになる。さあ平和に過ごせ、という勢いが、できれば、と弱気になるように聞こえるかもしれない。あなたがたは、と言われるならば、あんたは特別だからね、のようにも響く。
 
復活祭で、私たちは、罪の力・死の力から解放されるメッセージを受けた。キリストの復活は、「武装解除の神学」をもたらし、平和をただ待ち焦がれるというよりは、積極的に創造する働きを私たちに与えるものとなり得るものとなった。だから、キリスト者と教会が、平和のために積極的に何かを行うことについては、異論はないと言えるだろう。
 
しかし、そこへ「できれば」というのは、消極的な方向へ転ずるものではないのだろうか。否。説教者は、ここからが本日の説教の本領発揮とばかりに、聴く者の心に突き刺さるようなメッセージを流し続けることになる。
 
原文の構造を凡そ伝えると、こうなる。「もしも・可能・あなたがたから・すべての人真ん中に・平和に暮らす」。この「もしも」の言葉について、説教者は別の角度から穿った真実を見出してゆくのであるが、その前に、説教者も注目させた、この言葉の措かれた基盤を確認しておこう。
 
いまのはローマ12:18であったが、その前後を挙げてみよう。
 
17:誰にも悪をもって悪に報いることなく、すべての人の前で善を行うよう心がけなさい。
18:できれば、せめてあなたがたは、すべての人と平和に過ごしなさい。
19:愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。「『復讐は私のすること、私が報復する』と主は言われる」と書いてあります。
20:「あなたの敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませよ。そうすれば、燃える炭火を彼の頭に積むことになる。」
21:悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい。
 
説教者が取り上げたのは、「誰にも悪をもって悪に報いることなく」と「悪に負けることなく」というところだった。「平和」のフレーズを挟み込むようにして、「悪」という問題が取り囲んでいる。イスラエルの文学に普通に見られる構造が自然とつくられているように見えるが、悪と善の対比がなされた上で、「平和」の問題と、人が復讐すべきでないことが際立たせられている。
 
説教者は、「悪に引きずり込まれない」ことを肝要とした。そのとき、誰かとの出会い、他者との向き合い、ということの重要性が指摘された。ひとは単独で何かになるのではないし、単独で何事も解決してゆくというものではないのだ。逆説的だが、他者がいてこそ自我が成立する、と指摘する哲学者や心理学者もいる。私もそうだと思う。
 
つまり、自分の中にもしも善いものがあるとすれば、それを引き出すのは相手の存在である。良い師に出会うとき、子どもの中の良いものが引き出される、という考え方をする教育論がある。逆に、この人と向き合うとき、自分はどうにも悪へと傾いてしまう、という場合もあるだろう。朱に交われば赤くなる、という諺がよく示している通りだ。
 
聖書は、イエス・キリストと出会う場であり、出会う世界である。この方と出会うならば、どんなによいものがもたらされるだろう。どんなによい方向へと自分が変えられることだろう。
 
説教者は本日、「教会」という場を徹底的に歩き回ろうとしている。説教のテーマは間違いなく「教会」である。だから、共に同じ神を見上げることでつながりが保たれる「教会」というものは、「悪」を避け「善」を喜ぶような場であるべきである。そして、そうなっているかのように、思いがちである。
 
けれども、本当にそう認めてしまうと、教会の慢心にもつながるし、自己義認に陥る可能性がある。説教者は、教会がその「内」でのみ完結と思い、「外」を軽んずるような過ちに陥る可能性を示唆していた。仲間内だけの平和、仲間の外への軽蔑や憐憫のようなもので成り立つような場に、教会がなってはならないのだ。私はそれこそが、ファリサイ派や律法学者などの陥っていた状態ではなかったか、と案ずる。そうなると、たとえキリストの名を冠していたとしても、教会が、あのイエスが敵視し徹底的に糾弾したエリートたちの姿に、全く成り代わってしまうことになると思うのである。
 
教団全体に言えることや、教会内での痛みを伴う実話のエピソードも交えながら、説教者は警戒すべき「悪」へのすり替わりの可能性を零していった。それは、そういう誰かを批判するような眼差しではなく、説教者が自身の襟を正し、また自身の責任を噛みしめながら、痛みを伴いつつ絞り出していたのではないか、と私は見ていた。
 
さて、戻ろう。ローマ12:18の元のギリシア語の並び方は、凡そ次のようだ、と先に挙げていた。「もしも・可能・あなたがたから・すべての真ん中に・平和に暮らす」と。
 
邦訳では、「できれば、せめてあなたがたは、すべての人と平和に過ごしなさい」であった。「せめてあなたがたは」との訳は絶妙だが、原語だと「あなたがたから」のような表現である。このような言い方は、隠れた対比をもつと理解するのが自然である。つまり、「他人からではなく、あなた方から」と受け取るのである。このとき私は、やはりこれを思い出してしまう。
 
平和を造る人々は、幸いである/その人たちは神の子と呼ばれる。(マタイ5:9)
 
「すべての人の真ん中に」と挙げたが、もちろん「すべての人と共に」で全く構わない。だがここに、特定の仲間内の出来事ではなく、「すべての人」が対象となっていることにも改めて注目することになる。説教者が言った、「教会」だけの問題ではない、ということである。
 
ところが、依然として引っかかりがある。冒頭の「もしも」である。その語は確かに原語にある。聖書協会共同訳はこれを「できれば」と訳しているが、「もしも可能ならば」という意味にしか私たちには届かない。「できなかったら仕方ないもんね」の響きで、日本語の「できれば」という言葉は伝わってくるのである。本当にそんなつもりでパウロは言っていたのだろうか。できない可能性を保険に入れて、せいぜい頑張ってくれたまえ、と言いたいがために、わざわざ悪と善の対比を強調し、あなたがたの方から動け、というような言い方をしていたのだろうか。
 
お待たせしたことになるが、説教者が本領発揮した内容に移ることにしよう。説教者は、この「もしも」の語の特殊な使い方を紹介したのだ。「もしも晴れているなら」という語を使うとき、ひとは必ずしも、外が晴れているかどうかを知らないわけではない、というのだ。実際に外が晴れていることを知っているにも拘わらず、「もしも晴れているなら」という語法は可能であるだろう。「もしも晴れているなら、部屋に閉じこもっているのはもったいない」のように、晴れている事実を確認する「もしも」という使い方があるのだという。
 
気になって調べてみたが、『基礎日本語辞典』(森田良行・角川学芸出版)の「もし」とその関連語の項目にも、このような用法は載っていない。つまり、純粋に「語」としての意味からすれば、すべて、まだ分かっていない情況か、または反実仮想に用いるというケースしか考えられないのである。
 
だが、いまちょうどEテレの「100分de名著」で扱われているウィトゲンシュタインの言語哲学からすれば、彼のいわゆる転向によって新たに提示された境地としての、「生活形式」と「言語ゲーム」という捉え方によって、「もしも」が、語り手の既知の場面で使われるという可能性が拓けてくるのである。
 
もちろんこの場合、語り手は神である。パウロは人間であるが、神の出来事を語る役割を担っているとなると、それは神という語り手が主体であることになるし、そもそも聖書というものは、そのようにして神が語った、あるいは聖霊が書かせた、という前提になっているので、既知の神が「もしも」という形で持ちかけている、という説明が成り立つわけである。
 
この読み方は、すでに神学者の内では有名な説であるらしい。だから、件の「もしも・可能・あなたがたから・すべての真ん中に・平和に暮らす」は、キリストにある者ならば、すべての人と平和に暮らすことは、十分可能なのだ、と口に出していることになる。神の言葉は、仮定ではなく、すでに現実なのだ。
 
説教者はこの後、教会のあるじはイエス・キリストであることを告げ、特にすべての人を招いていることを強調した。また、受難週の特別な集いに於いて、ヨハネ伝13-16章を味わったことを話した。その次の17章は、イエスのひたすらな祈りである。そこには「一つとなる」ことが節に祈られていた。それは、教会の内部での一致でもあるだろう。だが、教会からすれば外にいる人々すべてのために、「すべての人を一つにしてください」とも言っていたのだ。そこに平和の礎が置かれるに違いないのだ。
 
父よ、あなたが私の内におられ、私があなたの内にいるように、すべての人を一つにしてください。彼らも私たちの内にいるようにしてください。そうすれば、世は、あなたが私をお遣わしになったことを信じるようになります。(ヨハネ17:21)
 
これは、私がかつて所属していた、YMCA(キリスト教青年会)の創設の聖句である。青年たちの祈りの内から生まれた団体であり、このヨハネ17:21を以て、理念とした。そのロゴにも刻まれている。但し、日本YMCAは2017年から、別のロゴを導入している。
 
そして説教者は最後に、サルバドール・ダリ(1904-1989)の一枚の絵を紹介した。宗教のモチーフのある絵である。最後の晩餐をダ・ヴィンチへのリスペクトのような構図で描くが、中央のキリストが天を指さしている。するとその先に、裸の男の胸部と広げた両手だけが大きく見えるという奇妙な絵である。それは十字架に架かるキリストの手のようでもあるが、世界を大きく包むようにも見える。その手の下に、すべての人間がいる。
 
教会は、神にこうして救われて、そして包まれて、共に愛を軸に成り立つのであり、時間的存在の私たちにとっては「いまだ」であるために「すでに」現実であることを確認しているわけではないが、実のところ確実に出来事となること指す「もしも」の言葉による私たちの平和への歩みが、つねにすでにいまここで、始まっているのである。



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