【メッセージ】生ける希望を与える神

2026年4月12日

(ペトロ一1:3-12, ホセア2:16-19)

神は、豊かな憐れみにより、死者の中からのイエス・キリストの復活を通して、私たちを新たに生まれさせ、生ける希望を与えてくださいました。(ペトロ一1:3)
 
◆復活
 
イエス・キリストは、殺され、葬られました。でもその後、復活しました。キリスト教の核心は、ここにあります。ただ、それが物語であるというだけのものではなく、そこに「私」がどう関わるか、それが一番重要なのですが、ともかくさしあたり、イエスが死んで復活したという点が、信仰の中心にあって然るべきです。
 
もちろん、キリスト教は神の「愛」に基づくとか、神は「正義」であるとか、強調したいことは多々ありますが、やはり根本に、十字架と復活とがある、と見るべきだろうと思います。
 
先週は復活祭、その「復活」を正面に出すべき礼拝でした。キリスト教とくれば「クリスマス」が最も有名でしょうが、イエスが誕生したのは、書かれている通りであるのかどうか分かりづらく、またその日付けもよく分からないのが実情です。12月25日としているのも、キリスト教のひとつの流派からくる説明に過ぎません。
 
それに比べると、「復活」は、その背景がはっきりしており、ユダヤの過越の祭りにまつわる出来事であることがはっきりしています。つまり、春先の事件だったのです。過越の祭りにまつわる情況がとてもくわしく福音書に書かれており、その騒ぎからイエスの逮捕、裁判、そして死刑執行の様子までが私たちに伝えられています。
 
イエスは、たいていの死刑囚よりも早い時間で絶命したように記録されています。普通ならば共同のゴミ捨て場のようなところに捨てられるはずの死刑囚の遺体でしたが、イエスの遺体は、支持者によりきちんとした墓に葬られました。当地の墓というのは、岩場に掘った洞穴のようなところで、大きな重い石を転がして蓋をするものでした。
 
イエスが死んだのは、安息日に突入する夕刻の直前でした。慌てて墓に葬られたのですが、安息日が明けた後の夜明けに墓を訪ねた女たちを通じて、イエスの遺体がそこになくなっていたことが分かります。その後、復活のイエスが弟子たちに次々と現れたことが福音書に書かれています。
 
こうした現象を、集団幻覚だと説明する人もいます。けれども、弟子たちは確かに出遭ったと証言しており、やがてイエスが、刑死と復活について語っていたことを思い起こします。イエスと共に旅していたところ、イエスがその復活についても、ちゃんと語っていました。また、教えの中でも、復活を思わせるようなことを話していました。
 
◆復活させられた
 
教会では、この復活について語るのを、復活祭の一日だけで済ますことは普通なく、復活のその後の出来事を聖書から辿ったり、復活の意味をさらに読み解いたりするような説教が続きます。そこへ行く前に、どうしても気づいておきたいことがあります。それは、イエスが「復活した」というような言い方を、聖書はとらない、ということです。
 
日本語訳ではなかなかそうは表現しないのですが、イエスは「復活させられた」と言っているのです。
 
中学二年生の英語で、受動態が登場します。まず「驚かされる」。英語では受動態を使い、表現しています。日本語で考える私たちは、「驚く」と能動的な表現を使います。けれども冷静に考えてみれば、私たちは、何か対象によって、驚きの感情が惹き起こされるはずです。何も対象がないのに自ら突然驚くことは難しいでしょう。「喜ばされる」「興味を持たされる」なども同様であり、対象からの触発があればこそ起こる感情です。自分の中の生理的現象によりなんとなくムカツクのとは違うように思います。
 
イエスは「復活されられた」というとき、それは「神的受動」などというと説明されることがあります。単に受動態が取られている場合には、そこに意味上の主語として「神」が想定されている、という捉え方です。逆に言えば、神によってなされることについては、いちいち「神によって」という言葉を付け加えることがない、ということです。
 
イエスが「復活されられた」のも、正に父なる神が復活させたということです。
 
それに対して日本語は、「自発」の文化を背景にもっていると言われます。助動詞「れる」「られる」については、中学生に、「受け身・尊敬・自発・可能」の四つの働きを教えますが、国語学者によれば、元来この助動詞は「自発」を基本としているように考えられているようです。そこから、他の意味が派生したのだ、と。それだけ、日本の精神風土には、この自発の文化が根づいているというのです。
 
「自発」の文化とは、「自然とそうなる」という世界観です。「昔のことが偲ばれる」という用法で国語の時間は説明するのが通常ですが、「偲ばれる」という言葉が意味するところについて、中学生にはなかなか通じないのが実情です。
 
物事は、「自然となる」という捉え方を、日本語、そして日本人はしがちです。「する」のではなくて「なる」が根本にあるわけで、「窓ガラスを割りました」という言い方はせず、「窓ガラスが割れました」とまず言います。「する」行為を根柢に置かないために、時にそれは責任感を伴わない倫理観を表す、とも言われます。「する」ではなくて「なる」というのは、多分に記紀神話の時代からそうなのだと見る人もいます。
 
日本人である私たちは、主体が確立している中で、対象により触発される、という捉え方をなかなかしないのです。すべては自然とそのように「なる」のであって、対象により「驚かされる」のではなくて、自然に「驚く」のであるし、対象により「喜ばされる」のではなくて、自然に「喜ぶ」という感情についての感覚をもっています。
 
しかし、イエスは自然に復活したのではありません。また、イエスが自分から独りで復活したのでもありません。聖書は、神により「復活されられた」という言い方を貫きます。イエスは、神により復活させられました。神がイエスを復活したのです。
 
◆神が
 
その「神」を主語として、つまり主体として、聖書を改めて読んでゆくことにしましょう。従って、以後しばらく、「神は」または「神が」という形で復活について読み解いてゆきます。
 
神は、豊かな憐れみにより、死者の中からのイエス・キリストの復活を通して、
私たちを新たに生まれさせ、生ける希望を与えてくださいました。(ペトロ一1:3)
 
ここの「復活」は、動詞ではなく、名詞です。「復活」「イエス・キリストの」と並ぶとき、「イエス・キリスト」は属格になっています。日本語でいうところの、「の」が付くような形です。但し、この属格は、日本語の「の」と同様に、曖昧なところがあります。「イエス・キリストの」という言い方に於いて、「イエス・キリスト」が主語になるときもあれば、「イエス・キリスト」を目的語とすることもあるのです。
 
「イエス・キリストの働き」というと、それは「イエス・キリストが働くこと」を意味します。「イエス・キリストの知識」といえば、それは「イエス・キリストを知ること」になります。「が」と「を」の違いは、基本的に文脈で読み分けます。しかし場合によっては、どちらにも読もうと思えば読める、ということもあります。
 
新しい聖書協会共同訳は、その点で思い切った変革をしました。「信」「イエス・キリストの」と並んだギリシア語は、従来「イエス・キリストを信じる信仰」のように読んでいたのですが、それを「イエス・キリストが信じる」方向に、あるいは訳語としては「イエス・キリストの真実」と訳したのです。これは下手をすると、従来の礼拝説教がまるっきり変わってしまうほどの変化です。かつての説教がもはや通用しなくなりかねないのです。
 
それはともかくこのペトロ書での「死者の中からのイエス・キリストの復活」について述べたところでは、主語は「神」です。「神」が主体となって、これらのことを起こし、促しています。神が、豊かな憐れみをもたらした。死者に於けるイエス・キリストの復活をもたらした。すべて神がなしたのです。
 
神は私たちを新たに人生に導きました。ヨハネ伝のニコデモのように、新しく生まれることについては、ニコデモを反面教師として、私たちは的外れな理解を避けるようにしましょう。
 
神が、私たちに生き生きとした希望を与えてくれた。ペトロの手紙がまず伝えたかったことは、これです。先ず、ひとつバン、と示すのがこのことです。
 
神は、豊かな憐れみにより、死者の中からのイエス・キリストの復活を通して、
私たちを新たに生まれさせ、生ける希望を与えてくださいました。(ペトロ一1:3)
 
そうして神は私たちを、「天に蓄えられている、朽ちず、汚れず、消えることのないものを受け継ぐ者」としてくださったのです。
 
◆信仰の喜び
 
今度は、私たちの側から見つめてみましょう。私たちの情況はどうなったでしょうか。私たちは、神に守られています。終わりの時に、救いが完成されるからです。信仰により――信仰を通じて、私たちは守られています。
 
この「信仰」は、私たちの信仰であるのか、神の「真実」であるのか、どちらにも理解はできるだろうと思います。私は、神が筋を通してくれたこと、かもそこに愛と義の原理があったこと、そうしたことをどちらも否定することなく、同時に見ていたいものだと考えます。
 
ペトロの手紙は、迫害の厳しさを知る教会のリーダーが、励ましのメッセージを送っているものと見たいと思っています。手紙はここから、「試練」という名の課題が与えられるように書かれています。
 
7:あなたがたの信仰の試練は、火で精錬されながらも朽ちるほかない金よりはるかに尊く、イエス・キリストが現れるときに、称賛と栄光と誉れとをもたらすのです。
 
こういうのは、単に抽象的に書かれているわけではありません。いまは迫害の嵐が吹き荒れています。ユダヤ人に命を狙われていたパウロと同様でしょうか。ローマ皇帝に睨まれていたのでしょうか。背景については、私たちの想像通りであるかもしれませんが、歴史上の事実を探究するのが、私たちの唯一の読み方ではないと思われます。
 
たとえば、イエス・キリストを直に見たことのない世代へ向けての呼びかけがここにある以上、私たちも、手紙を向けられている人々と、立場が変わるわけではありません。
 
8:あなたがたは、キリストを見たことがないのに愛しており、今見てはいないのに信じており、言葉に尽くせないすばらしい喜びに溢れています。
9:それは、あなたがたが信仰の目標である魂の救いを得ているからです。
 
どうでしょうか。正にいま私たちへ向けてのエールだとして聞こえないでしょうか。うれしくならないでしょうか。聖書の言葉は、こうしていまを生きる私たちへ呼びかけるものとなり、私たちの未来をつくる力となります。
 
ここまでで一度、話を区切ることにします。あなたの心に、何かが留まったことを信じて。
 
◆命の希望
 
神は、豊かな憐れみにより、死者の中からのイエス・キリストの復活を通して、
私たちを新たに生まれさせ、生ける希望を与えてくださいました。(ペトロ一1:3)
 
イエス・キリストは復活しました。神が復活させました。その復活を通して、私たち人間は、罪の赦しを経た上で、新しい命、新生がもたらされます。そして希望がそこに与えられます。新しく生まれ変わること、これは、復活のキリストと出会うことで、新しい命に生きる経験をする、ということです。未来への希望だ、といま言いましたが、あるいはいますでに、ここに備えられているものとして、希望を挙げたい、とも思います。
 
希望。英語ならばホープでしょうか。ドイツ語なら、ホフヌンク。フランス語ではエスポワール。建物の名には、このフランス語がよくありそうです。私たちは先週の復活祭で、その希望を確かなものとして受け取りました。
 
それはしなびた希望ではありません。命のない、疲れた希望ではありません。生きた希望です。生き生きとした希望です。命の希望であり、あるいは永遠の命そのものでありました。
 
けれども、希望を自分の中から振り絞って作り出したとしても、命に至るわけではありません。命へ至る道には、新しく生まれ変わるという、新生の経験が必要です。その新生は、復活のキリストなしにはありえません。すると、キリストが復活したなら、すべての人が無条件で希望の命に届くのでしょうか。そんなこともありません。
 
そうです。自分の罪を知ることが必要です。自分が罪人であることに気づかない者、気づいていながら認めない者、そこからは、命へ至る道は始まらないのです。
 
――などと、クリスチャンの中には、世の罪人を上から見下ろす人がいます。大変デリケートな問題ですから、私も気をつけたいと思います。私は、そして私たちは、自分が正義だと思いたいのです。自分こそが他人を裁くのだと勘違いしやすいのです。私たちは、確かに世の中に罪人を見出します。見えてしまいます。でもそれは、私たちと本質に於いて変わるところのない存在だ、という弁えを忘れてはなりません。私たちは、その人たちと紙一重なのです。キリストがそこにいる、という紙一枚が違うだけなのです。
 
◆愛の先に
 
さて、旧約聖書のホセア書というと、私たちはどうしても、淫行の女を守り続ける男の姿が浮かんできます。お人好しであること限りないのですが、神はホセアに身を以てそれを体験させることによって、神が如何に人を愛しているかを教えようとしています。
 
ホセアという預言者が身を切るようにして語る、その妻とする姦淫の女の描写は、実に生々しいものがあります。よくぞここまで描写するものだ、と恥ずかしくなるほどです。
 
淫行の女を妻とせよ。預言者は、その女を妻として傍に置きます。それでもなお女はホセアを裏切ります。夫は、裏切られ続けても、それでもなお「愛せ」と神に言われます。それは残酷な仕打ちですが、明らかにこれは、神の愛の姿、神の愛の痛みというものを表しています。
 
ホセアは、もう惨めとしか言い様のない立場にいます。いえ、世の中には、それに匹敵する男の話もあります。どこかに、殊勝な男がいるにはいるのでしょう。けれども、概ね、男にとってこのような目に遭うというのは、たまらないことでしょう。神の愛は、そのように普通の常識や感情を超えているのです。
 
どうして、いまここで、そんなホセア書を開いたのか、というと、理由があります。ホセア書は、始まるとすぐに、その淫行の女が登場し、しばらく続くのですが、何もそれだけでこの預言書が終わることはありません。そうした一連の事件の描写の後、早々に、実は「希望」の姿が綴られているのです。が、それはホセア書の中で、あまり注目されていません。少し長くなりますが、改めてお読み致しましょう。
 
16:それゆえ、私は彼女をいざない/荒れ野に導いて、彼女に優しく語りかける。
17:私はそこで、ぶどう畑を彼女に与え/アコルの谷を希望の門として与えよう。/彼女はそこで、おとめであった日々のように/またエジプトの地から上って来た時のように/私に答える。
18:その日になると/あなたは私を「わが夫」と呼び/もはや再び私を「わがバアル」と呼ぶことは/なくなる――主の仰せ。
19:私はもろもろのバアルの名を/彼女の口から取り除く。/もはやその名が再び思い起こされることはない。
 
全体にわたって、神の愛が溢れているように感じられます。ここで神にとって「彼女」は、エルサレムです。イスラエルそのものです。しかし、そこにある「アコルの谷」は、「希望の門」へ変わると言っています。
 
「アコル」というのは、荒廃や困難、あるいは悩み、悲しみなどを伴う語だといいます。かつてそこでは、「アコルの谷」は、エルサレムから死海へと続く、恐ろしい死を表すような谷に付けられた名前です。かつて、ヨシュア記でアカンという者が、財産を掠め取ったことで滅んだという逸話のある場所です。「アカン」のその名に由来するかのように、「アコルの谷」と呼ばれるようになったそうなのです。
 
ホセアは、北イスラエルの中に、そうした谷へと堕ちてゆく偶像崇拝を見ていました。しかし、ホセアはまた、そこに一筋の「希望」をも見出していたのです。配信の罰は受けねばならないでしょう。しかし、すべてが滅亡するわけではないと見たのです。稀であるかもしれませんが、そこには「希望」がもたらされ選るのだ、とするのです。
 
◆生ける希望
 
私たちは、その一欠片の希望を受け継ぐ者となりました。私たちは、自分の罪に慄きました。自分の罪は、もう死しか待ち受けていないことを覚りました。けれども、その罪の自覚の先に、微かに輝く希望がありました。それは突如として、自分の全身を照らしました。イエスの十字架が見えました。イエスの救いの言葉が貫きました。イエスは十字架で命果てましたが、三日目によみがえりました。神がイエスをよみがえらせ、希望は消えないこと、命が続くことを、証拠立ててくださいました。
 
私たちは新しい命に生かされるようになりました。そのときすでに、それは永遠の命であることを確かめました。それは確固たる希望でした。生ける希望でした。私たちは、それを握りしめました。
 
また、そのように見えたのは、自分ひとりではないことを知りました。イエス・キリストと出会い、救いを受けた者が、たくさんいました。その人々は、「教会」という共同体を構成しました。そこに招かれて、共に主を称えることを繰り返しました。
 
古代ローマでは、3月の季節こそが真の1年の活動の始まりだと自覚されていました。現代日本も同様に、4月という時季は新年度とされ、新しい1年の始まりに匹敵する機会となることの多いものです。
 
環境が変わることは、わくわくする楽しみでもあると共に、不安に襲われやすい時期でもあります。新しい生活に不安だったり、疲れたりしている人が、いるかもしれません。
 
復活祭のときに、洗礼を受けた人もいます。新しい歩みを始めた人もいることでしょう。が、悪魔はそうした人を先ず襲ってくるといいます。実際、困難に見舞われた人がいるかもしれません。自信がなくなった人もいることでしょうし、逆に浮かれすぎて罠に陥る人もいないとは限りません。
 
どうか、改めて聖書を開いて戴きたいと思います。聖書には、慰めの言葉があります。勇気を与える言葉があります。人の心を知り尽くした神からのメッセージがあります。神を信じないという人も世の中にはいますが、もし神がいると考えるならば、この聖書のような形で、言葉を以てあなたに呼びかけてくるだろうと私は思うのです。あなたは、あなたを立ち上がらせる言葉に出会うことができます。聖書を開いて、出会ってほしい。あなたを愛して止まない神と。
 
神は言葉でもある、と聖書は証言します。その言葉との出会いによって、あなたは生きるようになります。生かされます。もしいま辛い気持ちがあるとしても、あなたはやはり、生きるのです。神の言葉はひとを生かすからです。
 
もし地上での命が消えようとしていたとしても、キリストが復活したからには、復活のキリストの命がもたらされます。キリスト者は、必ずやそこに希望を抱くことになるでしょう。希望を持ち続けることが、きっとできるのです。



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