新しい聖書を買えない教会の裏事情への邪推

2026年4月12日

2017年、新改訳聖書が「新改訳2017」という新しい訳の聖書を打ち出した。翌2018年末、日本聖書協会が31年振りに新しい翻訳聖書を発行した。「聖書協会共同訳」と呼ばれるようになった。
 
たとえばある教会は、日本聖書協会のものを使っていた。1987年発行の新共同訳聖書である。これは、カトリックとプロテスタントとの合作として、日本の聖書発行に於けるエポックと言えるものだった。どうやらカトリックに気を使うか、カトリックに譲歩するかした気配が感じられるが、逆にカトリックからすれば、「イエズス」を「イエス」にしたなど、プロテスタントに譲歩した、と考えているのかもしれない。
 
聖書協会共同訳が出たとき、日本の教会は、「食いつき」が悪かった。切り換える出足がよくなかった。様子見、というのもあったかもしれないが、その訳がかなり思い切った変更をしたことに戸惑ったのだろうか、などとも私は考えた。しかし私はひとつには、教会が聖書を大量購入する予算を組めなかった、という事情もあるのではないか、と見ている。
 
聖書はそれなりに高価である。もちろん発行社とてボランティアではないのだから、いくら寄付が多少あるからと言って、ペイを度外視して配布するわけにはゆかない。教会は、規模にもよるが、一定の聖書を棚に構える必要がある。「中型」を標準とすると、一冊で5000円ほどかかる。信徒は個人で買うため教会の予算には関わらないが、教会ではこれを20冊置くと10万単位が臨時に必要となる。
 
教会員の数が減っている。賑やかだった頃は、献金もそれなりに集まっていた。では会堂を綺麗にしよう。パイプオルガンを入れよう。そういう夢を実現する力がまだあった。だが、ひとたび信徒が減ると、それらの維持だけであっぷあっぷし始めることになる。エレベータだって、メンテナンスが大変なのだ。
 
信徒とて、その事情は分かっている。だから、新しい聖書を導入するために、その必要性を訴えて、特別献金を募るという方法もあるだろう。新しい研究成果、従来の訳の不都合な点の改善、日本語の変遷を含めた凡そ30年周期の考えなどを踏まえて、新しい聖書を取り入れたい、という意欲は、アピールとすれば、信徒もそのために献金を惜しまないかもしれないのである。
 
だが、その教会は、聖書協会共同訳の導入をしない、ということに決めたという。そしてその理由をはっきりこう言った。「新しい聖書は、これまでのと殆ど違いませんから、替える必要がありません」と。
 
もちろん、替えないなら替えないでよいのだ。だが、「これまでのと変わらない」というのは、明らかに嘘である。苟も「牧師」をしているならば、それがどれほど違っているか、発表されているものに目を通すだけでも、必ず分かる。しかしもしも本当に「違わない」と考えているのであれば、それはどう見ても無知である。「牧師」と言いながら、聖書を知らないことになる。これまでの解釈を覆すほどの大きな変化もあるし、新しい研究成果を沢山取り入れていることは明白である。
 
だがまさか、知らないということはあるまい。教会の備品とするための金がない、と言えば信徒も献金をするかもしれない。が、信徒に金を出させたくない、という「配慮」をしているのかもしれない。もはやこれは、信仰を核とする共同体ではない。実際その教会は、そうした人間臭いところであって、仲良しクラブ活動は盛んなのだが、肝腎の聖書への関心は薄い。有り難い神学者の話を、意味が分からずともにこにこ聞いていればよいか、あるいは聖書を知らない「牧師」の話に、何の感動も覚えず毎週お勤めを果たすことが習慣となっているか、そんなところなのだろう。
 
聖書も信仰も「知る」ことのない「牧師」を雇うための費用を捻出するために、減り続ける献金を、備品の聖書のためになど使えないという事情が、嘘をつかせたのではないか、と言われても仕方がない事態である。
 
だがもしかすると、信徒を丸めこむために、どうせ聖書の事情など分からないだろう、と高を括り、嘘をついているのだろうか。だとするとそれは、もう「罪」と呼んで差し支えないだろうと思う。
 
すべてこれらは架空の話である。たとえ似た事実があったとしても、このフィクションの話とは一切関係がないことをお断りしておく。



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