ていねいに生きよう
2026年4月6日

復活祭の礼拝である。イエスの「復活」は、「蘇生」とは違うことを説教者は指摘する。その意味では、この世界で、蘇生した人はいるにしても、復活した人はいない、と言える。それでパウロは、イエスの復活を「初穂」と呼んだのだ。
それを説教者は、一輪の桜の花が咲いたことに喩えた。やがて、桜は満開を迎えることだろうが、先に咲いた一輪、それがイエスだというのである。なんともオシャレな、時季に適った喩えであった。
メインはマルコ伝8章であるが、詩編2編も開かれていた。「私が聖なる山シオンで/わが王を立てた」(詩編2:6)というのだ。「主が油を注がれた方」(2:2)がその王である。ここの解釈は、いろいろあって然るべきであろう。ダビデのことではないか、と見る人もいる。キリスト者は、王なるキリストを思い浮かべておけばよいと思われる。
こうして新しい王の即位式が始まる、ひとつの式典が催される。復活祭の礼拝は、そうした即位式をなぞらえるものであってもよいかもしれない。それにしても、「国々は騒ぎ立ち/諸国の民は空しいことをつぶやく」(2:1)とか、「地上の王たちは立ち上がり/君主らは共に謀って/主と、主が油を注がれた方に逆らう」とか、キリスト者が現代世界を見渡せば、その通りだと肯くことしきりの詩編である。
マルコ伝の連続講解説教が続いている。復活祭の礼拝では、通例イエスの蘇りの場面が開かれる。少し変化球を見せる場合には、パウロの手紙の復活の章、ということもありがちとなった。だがこの教会の説教者は、連続講解説教のリズムを崩さなかった。というより、ちょうど今回巡ってきたマルコ伝の聖書箇所が、復活祭に相応しいものだった、と言ったほうがよいだろうか。
この場面は、イエスが「人々は、私のことを何者だと言っているか」と弟子たちに尋ねたところから始まる。弟子たちは口々に、世間の評判を挙げる。だが、イエスが求めたのは、「誰か」の意見ではない。「あなた」の意見である。信仰は、常に神が私に呼びかける中で生まれる。イエスの問いかけに対して、ペトロが応える。「あなたは、メシアです。」
「メシア」との邦訳は、新共同訳以降、ギリシア語の「キリスト」を、そのときにはユダヤ教の感覚で捉えていたはずだから、とわざわざヘブライ語の「メシア」に戻してカタカナ表記するという、少しばかり面倒な配慮の故に生まれたものである。それはともかく、説教者は、人間が初めて、イエスをキリストだと告白した記念すべき場面だとして挙げた。
しかしその王は、「排斥されて殺され」る。ここが心に刺さったペトロは、イエスを諫める。この語は、続いてイエスがペトロを叱った、というときと同じ語である。どちらにしても、叱責したのである。このときイエスが「弟子たちを見ながら」の言葉は、私も以前たいへん気にしていた。つまり、私たちに向けてもこの言葉を放っているのだ、と。聖書の言葉は、臨場感を以て読み、その場面を映画にするならどう演出するか、というふうに想像すると、初めて気づかされることが多々あるのだ。
なお、ここから北九州でホームレス支援の活動を続けている牧師(関西出身)が語った説教が、私はどうしても忘れられない。ペトロよ、おまえは何を聞いているんや。言ったやないか。「排斥されて殺され」ておしまいやないやないか。「三日の後に復活することになっている」と言うたのを、聞いてへんのかい。
さて、説教者は、イエスが「サタン、引き下がれ」と言った言葉に関して、「会堂にサタンがいる」と告げた。これは思い切った指摘だった。マルコ伝が、最初のところからサタンが登場していたことを思い起こしながらも、ペトロに向けて言ったというのは、教会に向けて言ったに等しいことからして、私たちの教会にも、会堂にも、サタンの働きがあるということを、常々警戒しておかなくてはならない。私でない誰かに対してサタンが操ろうとしている、などと考えてはならない。正に私に、隙あらば、とサタンが狙いを持って見つめているのではないか、というところから始まるべきなのである。
サタンの仕事は、神のいない世界、あるいは神なしの人生をつくることだ、と説教者は言った。なんのことはない。いわゆるこの「世」のことではないか。そしてキリスト者と雖も、神なしに物事が進むという「常識」を原理としている限り、その誘いに乗っていることになる。
また、その「引き下がれ」という言葉は「後ろへ回れ」というニュアンスの語が原語であることにも説教者は触れたが、以前にもそのことは語られていた。イエスの背中に来い。それは、「私の後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を負って、私に従いなさい」という次の言葉に速やかにリンクする。イエスの後ろに回って、改めて従え、というのである。説教者の言葉によれば、もう一度私の弟子になれ、ということである。
説教者は、「王」たる者は殺されることがなく、人の上に立ち、命令を下すものだ、と先に挙げていた。但し、古来「王」たる者には神的な役割が期待されており、人身御供のようなものとして、王を殺すということが一部で事実行われていた、ということが知られている。そのために、わざわざ身分の低い者を一旦王位に就け、いいだけ贅沢な目に遭わせた挙げ句惨殺する、といった事例も報告されているという。
ただ、説教者は現代の王の中に、さあ戦場へ行け、と国民に命ずる王がいることを暗に示すかのようにして、日本ではいまそういうところにまでは行っていないが、現に世界ではそういう国が確かにあるように、日本もそうなるかもしれない、という危惧を抱いているかのように、私には見えた。
それは、日本の政治家にどれほど届くかどうか知れない。否、ひょっとすると、母親の祖父が金森通倫である前首相には届いたかもしれない。プロテスタント信仰を知るその人は、平和についても、聖書を背景にしたものを脳裏に浮かべていたに違いないと思う。政治的現場での言動からも、私はそれを感じることがあった。また、最新の『kotoba』という季刊誌の中で、読書にまつわる特集についての記事の中で、「国民に受けることが正しいとは限らない」と言い、「見ることがないであろう次の世代の人たち」が、自分を評価してくれたらいい、と述べていた。
説教者は、高倉徳太郎の言葉を引いた。「自分の人生をわたくしするのが最大の罪である」と。出典は知らないが、自分の人生を自己本位に使うことが、命の価値を知らないことなのだ、として、その「わたくしする」というユニークな表現に注目させていた。そして、「自己実現」という、如何にも近年の人の耳に心地よい響きの言葉について、批判を重ねるのだった。
もちろん、強い口調で批判するような人ではない。だが、折に触れ持ち出す特定の用語については、心の奥では強い批判の考えがあって語っているのだろう、と思わせることが時々ある。この「自己実現」についても、私にはそう聞こえた。「ほんとうの私」を求める「自分探し」の旅、ということもそうだ。
足元がぐらついているのだ。岩に立っていないのだ。立つところを知らないその「自分」を探したところで、そして「これが私だ」と思いなしたところで、そんな砂地は波に浚われてどこへでも流されてしまうではないか。自分を見失い、狡猾な他者に利用されるのがオチではないのか。
イエスが血を流し、命と引き換えに救ってくれたというところに立つ者は、ブレる事があるまい。十字架で、命の値段を計ってくれたのだ、と説教者は説いた。その命が、暴力的に扱われようとしている。それがいまの世情である。憤りさえ伝わってきた。この世界は、どうかしている。「福音派」という如何にも聖書に則ったようなグループが、対立する派に靡かず、自分たちの主張を大切にしてくれる大統領を支持している国がある。強大な経済力と軍事力によって、意のままに世界を操作できるものとし、絶大な権力をもつ大統領が、世界の破壊さえもたらしかねないような「わがまま」を好き放題にしている。
もちろん、別の「キリスト教」の名の下に、理不尽な理由をつけて泥沼の戦争を続けている国も、同様である。が、前者の場合、聖書の預言の鍵を握る「イスラエル」とつながっているところが、また問題である。いわば聖書の民が、シャロームからどんどん遠ざかる動きを止めないのである。
ジョン・レノンの考え方が必ずしもよいとは思わないが、2001年の同時多発テロの際に、平和を描くその楽曲が放送禁止になったことは、記憶に新しい。否、そうした記憶はもう忘れ去られている。そうした事実を知らない若い世代が、決して戦場には行かない年寄りの張った意地に、易々と乗って、戦場へ行く。あるいは行かされる。
正に、命を暴力的に扱われてはならない、という説教者の声が、そういうところに共鳴するのではないだろうか。
「引き下がれ」とペトロに対して叱ったイエスの言葉は、「後ろへ退け」というような言葉で言われたものだった。イエスの後ろに、私たちは叱られて、静かに退こうではないか。叱られるとよいのだ。思い上がった私たち。勇気のない私たち。自分を正しいと主張したくてたまらない私たち。主に従うなどと言いながら、いつの間にか主の前に出て主を自分の思いに従わせようとさえする私たち。叱られるとよいのだ。叱られなければならないのだ。
説教者は、イエス・キリストの後を従い、人を愛し、人を赦す歩みを始めよ、と薦めた。十字架を背負うほどに、私たちは自分の身を切られるような思いがするだろう。自分の意志は神に反発する。自分の思いは神と別の方にある。それでも、イエスに従うのだ。イエスに従う道は、十字架への道かもしれない。だがそれは、私たちを真に生かす道なのだ。神の国へと続く道であり、永遠の命を約束する道なのだ。
主イエスが、私たちの許に来てくださった。その主イエスと共に、ていねいに生きてゆこうではないか。私は、最後に流れてきた、その言葉が心に留まった。「ていねいに生きる」、その言葉は、如何様にも解釈できる言葉である。だが、この復活祭の礼拝の中で、「ていねいに」の言葉にこめられたものがずいぶんと沢山あった。多くの出来事が、そしてイエスの命が、「ていねいに」の中にこめられていたように感じられて仕方がなかった。とてもよい指針となる言葉であると思えたのである。
イエスが、そのような呼びかけをしている。イエスは栄光の王として、即位することになる。その主に私たちは出会うことになる。イエスが王になるのは、人間が壊してしまおうとしているような世界ではない。人間が自分自身をがむしゃらに実現しようとしている世界ではない。私たちは、主イエスによって立ち直らされる世界でこそ、生かされるのである。イエスの背中からイエスに従わせて戴こう、とする信仰によって、命が与えられるのである。