100分de名著「ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』『哲学探究』」

2026年4月6日

2006年4月の100分de名著は、「ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』『哲学探究』」が扱われる。この2月に好著『懐疑論』を著した、古田徹也氏による解説である。中公新書のこの『懐疑論』にも、ウィトゲンシュタインについて章が割かれており、余力のある方はこちらもぜひご覧戴きたい。
 
放送は4月6日にスタートするが、テキストは3月末に店頭にも並んでいる。一足先に、私はテキストを読むことができた。
 
感想としては、非常に分かりやすい解説であった。難解なウィトゲンシュタインを読み解く人は、できるだけ正確に全般的に、また問題点をきちんと伝えようとするため、並の学生に適切に伝わることが案外難しい。それに対してこの「100分de名著」という番組は、老若男女誰が見るか知れない。また、哲学という分野に関しては、司会の伊集院光氏は本当に素人である。そこに対話をもちこみ、一定の理解をもたらそうとするには、的を絞った議論と、適切なポイントの表示が必要である。
 
とはいえ、伊集院光氏は、新たな思想を提示されても、自分の体験と見事にリンクさせて、適切な指摘ができる天才である。こうした番組には実に貴重な存在である。きっと今回のウィトゲンシュタインについても、楽しい展開を見せてくれることと期待している。
 
さて、ウィトゲンシュタインについては、いまここで最初から紹介するほどの手間はかけられないが、言語哲学という領域を、在野とも言える立場から、独自に創造したような人物である。その生涯は、ソクラテス以上に魅力がある。また、その哲学も実にユニークである。『論理哲学論考』は、世界の哲学を大いに変えてしまった。
 
近代哲学が行き詰まっていた中、「言語」というものの果たす役割と意味を問うた。そして、従来の哲学の問いが、何ものをも意味していないのだ、と一蹴してしまうことを成し遂げた。それどころか、哲学というものを葬り去ろうともしたのである。それが『論理哲学論考』であった。
 
だが、それを自らの『論理哲学論考』にも適用するならば、自分の著作と言明自体が、無意味であることになってしまう。ウィトゲンシュタインは一旦それから身を引き、小学校の教師の生活を始める。だが、『論理哲学論考』を、哲学者たちは放っておかなかった。十年後、大学に戻ってくることになる。
 
そして、自分の哲学の限界を覚ると、言語が日常生活の中でどう働くかについて、新たな原理を見出すようになる。これは明らかに『論理哲学論考』の時代の考えから逸脱している。そこで、ここからのウィトゲンシュタインの思想を「後期」と呼ぶ。その代表作が『哲学探究』である。「言語ゲーム」という言葉を、聞いたことがある方もいるだろう。番組では、ここもたっぷりと時間を使って説明してくれるはずだ。
 
番組は、25分×4回で、合計100分だというコンセプトでつくられている。実はタイトルにある二つの著作は、第1回と第2回とで、眺め終わることになる。では第3回は何を読むのか。そこに、魅力的な規格があった。つまり、そこで待っていたのは「生成AI」の問題だったのである。
 
そもそも生成AI自体が、ウィトゲンシュタインが言語に対して見出したところを、技術化したものだ、と言ってもよいほどのものなのである。そしていまや、ウィトゲンシュタインの難解な言語哲学が、生成AIの登場で、そういうことだったのか、と理解しやすくなった、とさえ言えるのである。
 
だが、ウィトゲンシュタインの言うことと生成AIとが等しい、などということはない。人間の言語活動には、経験というものが関わっている。もちろん、その「経験」という語の定義次第で、生成AIにもなんらかの「経験」がある、などということも可能なのであろうが、人間には「アスペクトの転換」というものがある、という決定的な点を著者は持ち出す。その意味は、番組とテキストでご理解戴きたい。
 
そして、そのことと関連して、第4回に於いては、話題は「心」に移る。生活の中で立ち現れる感情というもの、そこに「心」が認められる。そして「心」は、孤独な自分の中でのみ存在するというよりも、「他者とのコミュニケーションの只中に立ち現れてくるもの」だ、と言うのである。
 
人間の「心」には、逆説的かもしれないが、嘘が生じるし、予見不可能な事態が伴っている。しかし、自分の思想や正義感を唯一無二のものとして絶対視するようなことをするならば、それは多様なアスペクトを殺すことになり、いわば「心」を否むようなことになりかねない。自分の考えをすら相対化し、そこには何かしら不確かなものがあると自覚することができなければ、思考は歪んだまま、暴走してしまうことになるだろう。
 
私たちは、自分には見えないものがあることを悟らなければならない。「見ているはずなのに見えていないものに目を向ける」ことが必要なのだ。
 
私は、100分de名著のテキストを、特に哲学や宗教、文学のものについては時折購入して楽しんでいる。だが、今回のこのテキストで、私は不覚にも涙を流してしまった。この最後の章で「心」に関する訴えを、クライマックスへ向けて畳みかける中で、「そうなんだ」と心にキュンと迫るものがあって、耐えられなくなったのだ。
 
そして最後に、ウィトゲンシュタイン自身、最終的に到達したところに「勇気」というものを見出した、という件には、心がずいぶんと揺さぶられて仕方がなかった。私たちが変わるためには、「勇気」が必要だったのだ。
 
信仰に於いては、自らの罪に慟哭し、そこから十字架のイエスに出会い救われるときに、もし私たち人間の側に必要なものがあるとすれば、それは確かに「勇気」である。あまりにも当たり前過ぎて、殆ど気づかれることがないのであるが、神が主体となって救いの業を為す中で、人間に必要なことがあるとすれば、それは「勇気」だと思えて仕方がないのである。



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