テテレスタイ

2026年4月4日

受難週の受難日。その午後三時というのは、イエスが息を引き取られた時刻であるとされている。その時刻に合わせて、教会からメッセージが届けられた。牧師からの、十字架に限定された聖書箇所から、十字架に限定されたメッセージである。
 
選ばれた聖書箇所は、ヨハネ伝19:16b-30。イエスが「引き渡され」、「十字架につけられ」、「絶命する」場面である。
 
説教者は、「受難週」という言葉の語義から語り始める。英語でいう「受難」は「passion」である。これは一般にはよく「情熱」の意味で理解されている。説教者は、イエスが最期まで、弟子たちを情熱的に愛したことを強調した。
 
これらのことを話したのは、あなたがたが私によって平和を得るためである。あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。私はすでに世に勝っている。(ヨハネ16:33)
 
いわゆる告別の説教の中の、力強いイエスの言葉を引いて、私たちを勇気づけた。しばしば私が触れるが、西欧の言葉で「勇気」には、日本人が気づきにくい、重要な基盤があるように思う。古代ギリシア哲学からなのだが、彼らはさりげなく、当然の根拠として「勇気」を持ち出してくるのだ。これは日本の思想にはついぞ(と言うと当然お叱りを受けるのであるが、しばしばそれは武士道に伴う勇気という程度でしかないように見える)出てこない概念であり、決め手とするようなこともないものである。
 
それよりもこの「勇気」は、今月から始まるEテレの「100分de名著」で取り上げるウィトゲンシュタインの、最終的な境地として登場しているのが印象的である。やはり追究するというよりもひとつの前提のようなものとして、テキストでは、ウィトゲンシュタインの最終的な着地が「勇気」であった、というような結論になっていたのである。
 
イエスからすれば、自分がいよいよ十字架につけられる時が近づいてきた覚悟の中で、この後弟子たちが出遭う苦難について、思いを託すことになるのだった。
 
この「苦難」は、「受難」とは当然言葉も違うし、意味も違う。「受難」には、自分からはどうしようもない受け身の意味が含まれる。だから、自分の意志でコントロールできないものとしての「情熱」と、重なっていると理解されたのだ。弟子たちが今後出遭うことになる「苦難」は、自分ではどうしようもない代物ではないのではないか。勇気を出すことで、平和を選ることができるのではないか。
 
実のところ、勝負はすでに決まっている。試合開始直後に、「はい、勝ち」と宣言されるようなものである。自分では如何ともしがたいものでは、もうなくなっているのである。信仰が何の力ももたらさない、そんなことはない。罪と死がすべての抵抗を打ち破り支配するようなことは、決してない道がそこにある。罪と死の力から、弟子たちは解放されるであろう。
 
ピラトは罪状書きも書いて、十字架の上に掛けた。それには、「ナザレのイエス、ユダヤ人の王」と書いてあった。イエスが十字架につけられた場所は都に近かったので、多くのユダヤ人がその罪状書きを読んだ。それは、ヘブライ語、ラテン語、ギリシア語で書かれていた。(ヨハネ19:19-20)
 
しばしば西欧絵画の中で「INRI」と略されて描かれる言葉の説明である。「INRI」はもちろんヨーロッパの歴史を刻むラテン語による表現であるが、「ナザレのイエス、ユダヤ人の王」というその表示が、「ヘブライ語、ラテン語、ギリシア語」で書かれていた、というところに意味がある。説教者はその点を丁寧に紹介した。
 
それは、世界中にイエスが「王」である、と宣言するものである。もちろん揶揄である。だが、ユダヤ人が怒ったのは、世界中にそこだけが切り取られて伝わると、それを真に受ける人間が多数現れないかと案じたのであろう。そして、ヘブライ語は宗教、ラテン語は政治、ギリシア語は文化の象徴であり、凡ゆる人類の実際的・精神的側面に、イエスが王であることが宣言されるようなことになったということは、聖書的真理のひとつの伝え方だと言えるに違いない。大祭司カイアファが、「一人の人が民の代わりに死に、国民全体が滅びないで済むほうが、あなたがたに好都合だとは考えないのか」と、結果的には預言を語ったのと類似する。
 
28:この後、イエスは、すべてのことが今や成し遂げられたのを知り、「渇く」と言われた。こうして、聖書の言葉が実現した。
29:そこには、酢を満たした器が置いてあった。人々は、この酢をいっぱい含ませた海綿をヒソプに付け、イエスの口元に差し出した。
30:イエスは、この酢を受けると、「成し遂げられた」と言い、頭を垂れて息を引き取られた。
 
開かれた聖書箇所の最後に置かれたこれらの言葉の中の、あるひとつの言葉に、説教者は的を絞った。それは「成し遂げられた」である。ギリシア語読みで「テテレスタイ」という響きを以後繰り返し、会衆の心にその響きを刻みつけた。否、「憶えてほしい」と頼んだ。
 
イエスの、十字架上の七つの言葉の一つである。しばしばその最後の方に置かれる。「完成した」とか「完了した」とかいう訳も可能である。イエスの放った言葉は、その「テテレスタイ」であった。
 
「テテレスタイ」は「受動態」か「中動態」の形をとっている。この語は日常的に使われた語であって、「支払いは済んだ」とか「返済が完了した」とかいう意味で使われるのだという。ほかにも、芸術作品に於いて完璧となったことや、軍事用語として勝利が確定したことなど、語の用途は様々だという。
 
イエスの業は、この十字架に於いて全うされたのだ。罪の贖いとしての支払いが済んだのである。「受動態」の働きとしては、その救いの業が、イエスからすれば、父なる神から受けるという道を通ることを意味するのであろうか。もはやイエス自身からすれば如何ともしがたい仕打ちでもある。それ故に「わが神、わが神」と絶望的な叫びさえ出たのかもしれない。また、ここに、「受難」について先に指摘した背景がつながってくると言えるようにも思える。
 
しかし「中動態」の働きも考えられる。あるいは、二畳にその意味が重ねられてくる。以前は再帰動詞の意味だ、と説明されていたが、近年、新たな研究が広く知られるようになっている。その動詞の出来事が、主語(主体」の意志でなされる能動態でもなく、主語(主体」の全く外から及ぶだけの受動態でもない。受動的な出来事が、主語(主体」が関わる形で生起するあり方が、そこに現れているのではないだろうか。神の業が、イエスに於いて現された、という角度で捉えることもできるであろう。
 
「テテレスタイ」は中動態または受動態の形であるが、その能動態としては「テレオー」があると見なされ得る。名詞「テロス」の動詞形だとすると、この「テロス」に「目的」という意味があることに気づくこととなる。英語の「end」と同様に、「終わり」の意味もそこに重ねられてくる可能性がある。「テレオー」は、そこで「終わり」を迎えたことを現すと共に、「目的に達した」というニュアンスも隠れている。だから「完成した」とか「完了した」とかいう訳が生まれるのである。
 
しかしこの場面で、この「テテレスタイ」は。他にも現れる。
 
この後、イエスは、すべてのことが今や成し遂げられたのを知り、「渇く」と言われた。こうして、聖書の言葉が実現した。(19:28)
 
「成し遂げられた」である。もちろんそれは、イエスが実際に発した言葉ではない。イエスの心情を描いた記者ヨハネによりものではあるが、イエスの救いの業がここで完成したことを説明している。
 
さらに言えば、ここに、聖書の言葉が「実現した」とあるが、その動詞は「テレイオオー」である。これが「テレオー」に関連することが見て取れると共に、これらの言葉を掛詞のように、ヨハネがここに利用しているのではないか、という可能性も、強ちただの空想ではあるまいと思われる。
 
この「テレイオオー」は、ヨハネ伝の17章でも登場している。
 
私は、行うようにとあなたが与えてくださった業を成し遂げて、地上であなたの栄光を現しました。(ヨハネ17:4)
 
「成し遂げて」の部分がそれである。もう一つ挙げると、
 
私が彼らの内におり、あなたが私の内におられるのは、彼らが完全に一つになるためです。(ヨハネ17:23)
 
ここで「完全に……なる」が「テレイオオー」なのである。
 
説教者は、これらを漏らさず語ったのではない。これらの事情を説明することが、このメッセージの目的ではなかったである。だが、ここでの神の出来事は、次のようにまとめられた。「父は子を世に送り、十字架という極みに立たせたのである」と。ここに「テテレスタイ」の中動態としての含みがきれいに現れている。
 
そうして、語り終えると、イエスが息を引き取った時刻と見られる時を迎えた。人間が戦争を起こし、続けることを止めないか、と訴えるような呟きも加えられた。何故そんなことをするのか、と。教会は、それを祈る。神に訴える。教会がまた新たに生きる道を始めることになる。イエスの救いの業を、証しするのでなければならない。
 
イエスに於いて一度完成されたその救いの力は、いまも有効である。そうして教会は、苦難に対して勇気を以て立ち向かってゆく。難を受けるかもしれないが、与えられた難を自分の出来事として受け止め、勇敢に歩むのだ。そうして教会とその私たちは、再びイエスが来るときのその終わりの日、目的が完成される時まで、イエスの名の下に、罪の赦しを伝え続けるのである。



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