私にとっての祈り

2026年3月31日

教会にはそれぞれ、何かムードというか、その教会の常識のようなものがある。牧師が祈るように、信徒も祈る。牧師の信仰のままに牧師は語る。信徒もその信仰を受け取り、育むものである。
 
礼拝の中で代表して祈るのは、役員であろうが、もちろん別の人であっても、そこから同じような祈りを聞くと、それがこの教会の特徴なのだろうか、というふうに思えてくる。
 
「この一週間、自分勝手に生きて、主を忘れてきました」というようなことを挙げ、「悔い改めます」というように落ち着く祈りを、どなたも口にする。詩編交読が「罪の告白」と位置づけられているとあっては、もちろんそれで構わないと思う。ただ、私はその祈りに、何かひっかかりをもつのだった。私の心の中で、何かが違うというか、ズレのようなものを感じてならなかったのだ。
 
もちろん私も「アーメン」と応えるし、誰かの祈りについてとやかく言うような立場にはない。いや、もし何か違う信仰があったとしても、よほどのことがなければ、その人の祈りや信仰を否むような思いは全くないのだ。その人がイエスと出会い、イエスとのつながりの中にいる以上、それはそれで十分なのだ。ただ、私はどこかしっくりしない……。
 
私はそんなに、一週間、主を忘れていたのだろうか。ずっとただ自分勝手に生きていたのだろうか。そんなことはない、いつも主を思い、自分を捨てていました、などと言いたいわけではない。それこそ正に、そんなことはない。だが、私はとことん自分勝手であるから、そう走り出そうとしたら、霊がブレーキをかけてくる、という意識はあるものだ。「主よ」と口に出し、その言葉を受けたり、眼差しを感じたりもするものだ。
 
そして、「自分勝手に生きて、主を忘れてきました」といま言っているその自分は、すでに自分勝手ではないし、主を忘れているわけではない。礼拝の中で自分は、ようやくそういう自分に気づいたような言い方だ。礼拝の中でだけ、私は自分勝手ではなく、主を忘れていないのだと言えるということなのか。それはまるで、いわゆる「サンデークリスチャン」という姿そのものではないだろうか。
 
では、常日頃から自分がどういう罪を犯したのかに気づいているかどうか、という点についてだが、いつもいつも分かっている、などとは決して言えないだろう。
 
誰が知らずに犯した過ちに気付くでしょうか。
隠れた罪から私を解き放ってください。(詩編19:13)
 
ダビデの祈りが思い起こされる。私たちが自分の罪を常に認識できるのであれば、ある意味でそんな楽なことはない。自分では分からないものがあるのだ。ダビデがそうだったように、後で他人から指摘されて、ようやく気づくというのがありがちなことなのだ。実のところ、いくら指摘されても、自分は悪くない、と思い込み言い張ることの方が多いのだから、ダビデがたちまち悔い改めのは、やはり見事であると言えるような気がしてならない。
 
では、「主を忘れていました」という点についてはどうだろう。それはもしかすると、現場のそのときには主を忘れていたからこそ、何かやらかしたのであって、そのことに気づいて自分が悪かったと悔い改めたときに、主のことを思い起こした、という意味なのだろうか。
 
繰り返すが、その祈った人の信仰について何かケチをつけるようなことをしているのではない。私の中で、それがひっかかるのは何故だろうか、と自問しているのである。そのとき、自分の口から「自分勝手に生きて、主を忘れてきました」という祈りの言葉が決して出ない、ということに気づかされるのだ。どうしてなのか。それはいかにも謙遜ぶったポーズであり、いわば他人に聞かせるために、「人に見てもらおうと、会堂や大通りの角に立って祈る」(マタイ6:5)ようなことにはならないか、と思えて、自分に対して腹が立つのである。
 
それは、例えば「自分は不信仰な者でして」と教会で他人に謙遜して言うようなものである。京都の牧師がよく話していた。そう言った者が、相手から「ほんとうに不信仰ですね」と返答されたら、怒るのではないか、というのである。そして、そのように言うこと自体が正に「不信仰」なのだ、と警告するのだった。そこから、今度は信仰を与えてください、と求める過程が始まるのかもしれない。信じさせてください、と求める心が備えられるのなら、それはそれでよいのだろうか。
 
私は私として、そちらの方を向いてきたように思う。たとえそのとき自己中心でしかなかったとしても、私は弱い存在であり、その弱さを神が助けていたのだ、というその支えや神の愛を称えたいと思う。もちろんその背後に、自分が正しいわけでなく、自分が神の思いとは別の方を向いているような者なのだ、という前提がある。ただ、その前提をわざわざ口に出すようなことはせず、自分の弱さを噛みしめた上で、わざわざそれを悔い改めたなどと口にすることなく、神の栄光を称える祈りを、まず献げたいと思うのが、どうやら私であるらしい。



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