私のところへ来る
2026年3月30日

受難週、いわゆる棕櫚の主日などとも言われる、黙想の週のための礼拝。教会にとって、信仰者にとって、大切な一週間が始まる。世はクリスマスこそ教会と見ているかもしれないが、事件性そのものからすると、十字架と復活ほど確信に据えるべきものはない。また、聖書に根拠を置くという意味からしても、十字架と復活は、最重要項目だということになる。
信仰の道に入るには、ここが中核にあるはず、と言って差し支えないだろうと思う。
普通は、イエスの逮捕から裁判、そして十字架の上での言葉といった場面が開かれる。福音書もその多くの部分を、この描写に割く。説教者は、確かにその場面だ、と言えるのではあるが、十字架に至る前段階のようなところを選び、残酷な十字架の場面を正面には出さなかった。
ただ、だからこそ棕櫚の主日という名の、その場面で会った、ということにもなる。マタイ21:1-11では、イエスがエルサレムに入城する様子が描かれている。
まず説教者は、ベトファゲに来たというその地名に注目した。イチジク、それも未熟なイチジクの家を思わせる言葉であるという。そこから説教者は、私たちの未完成の姿へと目を向けた。イエスは完成した人間のところに来たわけではない。このままでよいか迷い、変わりたくても少しも変われない自分を嘆いている、そんな私のところに来たのではないか。仲間に囲まれて安穏と過ごしている99匹の羊ではなく、迷い出た1匹の羊の私。飼い主のいない惨めな弱い羊のところへ来たのだった。
子ろばを所望したイエスが、不思議な方法でそれを入手する。そしてイエスは子ろばに乗って、エルサレムに入城する。よく知られた場面だ。四つの福音書が、この場面を描いている。だが、本日開かれたマタイ伝だけが、唯一、弟子たちが「ろばと子ろばを引いて来」た、と記している。母ろばが共にいた。子ろばを独りにはしなかったのだ。小さな動物一匹にまで、どこまでも慈しみの眼差しを送り、手を貸す。それがイエスという方なのだ。
もちろん、役に立たないであろう子ろばをこそ、主のお入り用にしたという点はうれしい。教会学校で子どもたちに話すと、皆目をキラキラさせて聞く。イエスさまが、子どもを選んでくれたのだ。――そして、私たちも、幼子のようになって、イエスに乗って戴こう。行く手は、神の国である。
説教者はまた、ここにも私たちへの直接的な呼びかけの声を聞く。ろばが選ばれたとき、「主がお入り用なのです」との言葉をイエスは弟子たちに伝授した。この言葉を自分に向けてのものだとして聞くとき、私たちは、主が私たちを用いようとしていることを知る。説教者はまた、「働き手」が少ないことに触れたが、「働き手」が教会の伝道者であると聞く人がいてもよいだろうし、置かれた場所でそれぞれが主の名を担った「働き手」であっても当然よいだろう。
だから、少年サムエルに呼びかけた主の声に応えるように、イザヤやエレミヤに何が見えるかと突如現れた主の声に応えるように、私たちは「ここにおります」と天を仰ぎたい。アブラハムにも、そのような体験があった。新約以降の時代にも、主は声をかけ続けている。主は生きておられ、いまもなお呼びかけている。私たちが応答することを求めて止まないでいる。
こうしてイエスは人々に歓迎される。メシアかもしれない。噂は聞いている。病を癒やしたって。食べ物を無尽蔵に配ったって。水の上を歩いたって。死人を生き返らせたという話もあるぞ。ローマに支配されたこのイスラエルは、かつては神の王国、ダビデが建国し、ソロモンが栄華を誇った国であることを忘れちゃいけない。この国を再興するリーダーがいるとすれば、この力あるイエスではないのか。
中には、子ろばに乗っているとは何だ、とがっかりした者がいたかもしれない。だが、それほどに謙遜な方なのだ、と逆に尊敬を集めることになったかもしれない。このファナティックな「群衆」は、必ずしも喜ばしい存在ではなかった。そのつい数日後に、この「群衆」は、イエスに向けて「十字架につけろ」とヒステリックにシュプレヒコールを繰り返すのだ。
権力者の煽動に乗って、自分には責任などないかのように振る舞う「群衆」。聖書ではそういう意味の言葉で言い回す。ルカ伝では、明らかにその語を批判的に用いているという研究もある。ル・ボンが『群衆心理』でセンセーショナルに指摘したが、私たちはそれをもっと真摯に捉えなければならない。それはもはや「群衆」という日本語に閉じ込めておくべきものではない。ウェブ空間にバーチャル的に存在するものかもしれないし、特に日本に巣くう悪魔的なものを芥川龍之介が指摘していたように、日本人を操る「空気」のようなものとして、実在するのかもしれない。
なによりも、私たち自身がその中にいる、ということを戒めておかねばならないのだ。自分だけは例外だ、自分は特に何もしていない、という意識こそが、悪魔の思う壺なのである。自分は詐欺には騙されない、と豪語する者が危ないと言われているように、自分はそんな罪とは関係がない、と思い込んでいること自体が、実は最大の罪なのである。
それにしても、口惜しい気がする。あれだけ歓迎されたイエスが、たちまち逆賊の如く扱われ、何もそこまでと言わんばかりのサディスティックな死刑台へと引き渡されるのだ。「王殺し」の文化は古代からある、という研究があるが、イエスの場合は人間の憎しみや罪の故である。
しかし、説教者は一つの視点をそこに招き入れる。この人々は、特に悪い人たちではなかった、というのである。ただ、人間というものは、自分の思うところと違うところに連れて行かれるようなことがあるのだ。どこから来るのか分からない怒りの感情が、どかへ突き刺さるか分からないままに飛んでゆく。自分では気がつかない、誰かの心を傷つけ、あるいは殺す。自分にはそのつもりがなかったなどと嘯いても、誰かを現実に殺してしまう。
戦争を起こすのは、自分が決して戦場へ行かず、余命も短い老人であり、戦争で死ぬのは、戦場へ行く若者である。しばしば聞かれる言葉であるが、「国」のためだという旗印を掲げることによって、体力のある若者を戦場へ送り、本来何の悪事を働いたわけではない他の国の子どもたちをも大量に殺害し、人々の生活空間やその国の文化を再建できないまでに破壊する。しかも、それを「正義」の名の下にする。
世界中に安定した経済をせっかくつくっていた、先人の労苦を、いとも簡単に捻り潰し、世界の貧しい人々を益々生活苦へ追い込むことになる、という影響に対して、それは自分のせいではない、と無責任を装う指導者と、それに同調する他国の首脳。太鼓持ちがしたいためだ。自国の経済さえなんとかなれば、他国の事情など、考慮する必要がない、という姿勢がそのベースにある。
さらにショッキングなことには、こうした顛末を仕立て上げたのが、キリスト教徒である、という背景だ。聖書にある終末を呼ぶために選ばれた指導者を信仰により支持する、などという態度をとるのである。キリスト教徒のすべてがそうだというのではないが、紛れもなく、聖書を根拠に、その戦争を推進していることが、悔しくてならない。
説教者はなにも、そのようなことを言いたいわけではなかった。たんに私が連想していっただけの話である。むしろ説教者は、私たちが生活する中で、そして心に於いて思い悩み、自らに自信がもてないような暗い人生を送ろうとする者に向けて、力を貸そうとする。神学的な知識や技術を以て、聖書を説き明かそうとするのではない。非常素朴な、日常に於いて私たちが思い悩むことを言い当てるようにする。それは自身の辿った心理的な歴史の問題に関わることなのかもしれないが、そうした束縛から自由にするのは聖書の言葉なのだ、と確信して語る。そのためにこそ、聖書の言葉を解きほぐして、聞く者の心に働いて人を生かすように祈りつつ、神の言葉を取り次ぐのである。
そして最後に、これからの運命を知りながらも、イエスがひたすら進み続けることを指摘する。未熟なままでよく、そのままで迎えればよい。熱狂的な反応をして迎えたのは、結局自分が喜びたかっただけの話である。野球大会でにわかファンがいいだけ熱狂したにしても、敗北すれば手のひらを返したように選手や監督を誹謗中傷する。それは、イエスについて大騒ぎし、たちまち裏切った人々と同じ構造ではないだろうか。
イエスは間違いなくこの現代にも力を及ぼしている。確かに、私に呼びかけているし、霊を以て臨んでいてくださる。私たちが自分の弱さを噛みしめ、自分の力に頼ることをやめて神を見上げるとき、私たちはすぐ近くにイエスがいることを感じる。イエスは確かに、私たちのところにすでに来ているのだ。
受難週の一日一日を、さらに歩み続けるイエスの背中を追いながら、私たちは、この道を踏みしめて歩いてゆこう。教会から、その一日一日をサポートする営みがあることに、改めて感謝したい。