【メッセージ】上げられる

2026年3月29日

(ヨハネ3:11-16, サムエル上2:6-10)

モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。(ヨハネ3:14)
 
◆イエスが話す相手
 
イエスが人々を「信用されなかった」(2:24)というのは、少々ショッキングな言い回しでしょう。カナの婚礼で最初に奇蹟を見せて後、それで信じるようになった多くの人々がいたが、イエスは人間の心の中にあることが分かっていた、というのでした。私たちも自分のことが言われていると思うと、怖いものです。
 
そこで「さて」と区切って、ヨハネ伝は3章から、ニコデモを登場させて、大切なメッセージを伝えます。ニコデモというのは、これまでは「議員」だと訳されていましたが、聖書協会共同訳では「指導者」を表に出しました。ファリサイ派に属していましたから、これが「夜」にこっそりイエスのところに来た、ということがよく取り沙汰されます。
 
仲間内に知られたくなかった、ということなのでしょう。人目を憚り、イエスに会いに行ったのです。その心の内についても、イエスは分かっていた模様です。決して、回し者のようには見なしていません。もしかすると、ニコデモは、この後キリストの弟子たちとつながり、教会でよく知られるようになった人物なのかもしれません。
 
ニコデモは、果たしてイエスに、何のために会いに来たのでしょう。ばれてはいけない危険を冒してまで、何を言いに来たのか。可能性があるとすれば、次の言葉だけです。
 
2:「先生、私どもは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神が共におられるのでなければ、あなたのなさるようなしるしを、誰も行うことはできないからです。」
 
まるで信仰告白のようですが、イエスもまたこれに応え、以後その話題にどんどんずれてゆくことになります。「よくよく言っておく」とは、以前にもご紹介したように、「アーメン」の繰り返しを含む、ヨハネ伝で最大級の重要性をもつ内容を告げるときのイエスの前置きです。「アーメン、アーメン、この私があなたに対して言うのだ」というような、強い口調です。
 
3:「人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」
 
これが、ニコデモの告白に対する応えなのですが、もうひとつしっくりきません。ニコデモは、なにも「神の国」について問うたのではありませんでした。しかしイエスは、「神の国」について応えました。
 
ニコデモは、イエスに「神が共におられる」ことを証ししただけです。「神の国」が関わるのは、ここにしかありません。「神の国」というのは、国土を意味する言葉ではなく、神の支配権が及ぶところ、という意味合いがありますから、イエスに伴って神の支配が及ぶ、ということをニコデモは告白したようなものだったのでしょう。
 
この発端から、ニコデモはイエスに、イエスの言葉の意味が分からないとして、トンチンカンな質問をしてゆくことになります。いえ、質問はしてよいのです。分からないことを質問する、ということは、多くの小中学生ができません。質問はしなければならないと思うのです。質問ができるくらいに、学んでほしいものです。
 
ニコデモは、とんでもない勘違いをしている。そのことを露呈させます。いまは細かく追いかけませんが、すでにキリストを信じている者から見れば、このニコデモの質問はあまりに、教えからずれています。嗤ってしまうかもしれません。でも、私たちもまた、否それ以上に、勘違いをしていないと言い切れるでしょうか。イエスが話している相手は、決してニコデモ一人なのではありません。
 
◆霊と新生と蛇
 
5:「よくよく言っておく。誰でも水と霊とから生まれなければ、神の国に入ることはできない。
 
「新たに生まれる」ということは、「霊から生まれたもの」というところにつながります。新しく生まれ変わるというのは、霊に於いて、ということなのでした。その「霊」という言葉は、時に「風」を意味することもあります。また、「新しく生まれる」というのは、「上から生まれる」というようなニュアンスで聞こえてくる言葉です。神の霊が、上から吹いてきます。風のように、私たちに吹き付けます。
 
神の国は、霊に於いて生まれ直した者でなければ分からないようなものだと言うのでしょう。しかし、ニコデモには、イエスの言っていることが全く理解できません。「どうして、そんなことがありえましょうか」と思わず問います。このような問いが、ルカ伝がイエスの母マリアに天使ガブリエルが現れた場面にもあったことを思い起こします。但し、マリアの場合には、「そのことが起こるだろうか」と言っていたのに対して、ニコデモは、「そのようなことがいろいろあり得るだろうか」と言っています。
 
このニコデモの無理解に対して、イエスは、ファリサイ派の議員のくせに、「こんなことが分からないのか」(10)、というような叱責の仕方をします。そして「話しても信じない」ときつい言い方までぶつけます。
 
ニコデモに対するイエスの憤りは、もはやニコデモだけに対するものではありますまい。やはり私たちへの、イエスの戒めであるに違いありません。「天から降って来た者、すなわち人の子」こそが、「神の国」をもたらすのであることを、おまえは信じているか。信じていないのではないのか。
 
イエスは自らのことを「人の子」と称しています。この称号については、いろいろな研究がありますが、いまは特に触れずに進みます。イエスだけが「天に上る」というようなことを告げた上で、少し気になることを言います。「モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない」というのは、何を言っているのでしょうか。
 
そもそもモーセが蛇を上げた、ということが謎です。詳述は避けますが、その昔イスラエル民族がエジプトからイスラエルの地に向けて脱出したときのことです。人々は、導くモーセに不満をぶつけました。パンも水もないではないか。神がマナを降らせうずらの肉も与えていましたが、民はこぞって「粗末な食物が嫌になりました」(民数記21:5)とまで文句を言いました。
 
そこで主は、「炎の蛇」(21:6)を送り、多くの民が噛まれて死にます。民はモーセに謝ります。蛇を取り去ってください、と願うので、主はモーセに指示します。「あなたは炎の蛇を造り、竿の先に掛けなさい。蛇にかまれた人は誰でも、それを見れば、生き延びることができる」(21:8)という言葉に従い、モーセは青銅の蛇を造ります。「蛇が人をかんでも、その人が青銅の蛇を仰ぎ見ると、生き延びた」(21:9)というのでした。
 
◆上げる
 
14:モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。
 
ヨハネ伝に戻りました。モーセが青銅の蛇を竿の先に掛けたことを受け、人の子、つまりイエスも上げられねばならないとヨハネ伝は告げます。この直後に、聖書の中の聖書とも呼ばれる重大な発言が待っているのですが、いまはそこに急がず、この「人の子も上げられ」るというところに留まりたいと思います。
 
「上げる」、いまその言葉に注目します。それはもちろん、上への運動を表します。しかしこれは他動詞ですから、主体が客体を上に動かすことになります。下から上に、ものを移動させることです。
 
漢字にこだわらず、音で聞きましょう。「あげる」、その言葉は私たちに、ものを差し出す姿を想像させます。本当は花に水を「やる」でよいものを、近年は花に水を「あげる」と優しく扱うことが多くなっています。しかしそれは言葉本来の用法からすれば、間違いです。水を「やる」と言うべきです。「上げる」という言葉は、元々は「差し上げる」の構図で、ひとが跪いて偉い人に献上する物を頭上に掲げたことからきているのではないか、と思うのですが、謙譲の姿勢からの言葉ではないかと思います。
 
この「あげる」は、意味としては「与える」に匹敵します。ただ、「与える」だと、上から下へ物を渡すイメージがあろうかと思います。これらの言葉を受け身で考えると、「与えられる」という言葉を、聖書からは受け止めることができるでしょう。神から恵みを「与えられる」ことで、下の立場の人間の側が表現する言葉です。役目を与えられることもあるでしょうし、名誉も与えられることになるでしょう。
 
ところが「上げる」の受け身の「上げられる」は、あまり使わない言葉です。自分が引き上げられるという事態が珍しいからです。キリスト者は亡くなることを「召天」ということがあります。カトリックだと「帰天」です。このとき「上げられる」のかもしれませんが、私たちはいま、イエスが「上げられる」姿を目にしています。イエスは、地上最低の惨めな姿で、無理矢理十字架の上に上げられたのです。
 
聖書の言語である、ヘブライ語やギリシア語のニュアンスが、日本語の「上げる」とどれほど親和性があるか、私は知りません。ただ、イエスが「上げられる」姿に、ただならぬものを感じているのは間違いないだろうと思われます。
 
◆上げられる
 
日本語ですが、「上げる」の漢字は「カミ」と読みます。日本でいう「神」は、聖書の神とは概念として違うものでしょうが、「上」にあるという図式がさほど違うものとは思えません。神が「上」にある方、という感覚は、聖書に於いても決して違わないだろうと思われます。
 
ユダヤ人の祈りは、空に向けて手を挙げて祈るのが通例だと見られています。神が空に居るから、というふうに見えるかもしれませんが、地上はあまり見とれるような風景でないから、というふうにも思えます。上にいると見なす神から、私たちは恵みを受けることになります。
 
ニコデモに対してイエスが、「人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない」(3:3)と言ったときも、「新たに」という言葉が、「上から」というニュアンスで使われることがあるのも、何か示唆的です。
 
神に召されて天国へ、という言い方もしますが、確かに「召天」は上へ昇るイメージを伝えます。逆にコラの場合は、下へ行く姿を遺しました。エジプトを出たイスラエルの民の中で、「イツハルの子であるコラ」がモーセに逆らったことで、その立つ大地が裂け、地の底に呑まれていった事件があったのです(民数記16章)。
 
14:モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。
 
イエスは十字架に挙げられなければなりませんでした。蛇を見ると救われる、というかつての謂われを踏襲して、十字架のイエスを見上げる者は救われるということになります。イエスは天に昇るのでしょうか。確かに復活の後に、弟子たちの目の前で高くイエスは昇り、やがて見えなくなります。
 
しかしいまは、十字架のイエスの姿を私たちは見ています。イエスは十字架の上に上げられました。賛美歌の「まぶねのなかに」が、特にその3節が思い起こされます。
 
  すべてのものを 与えしすえ
  死のほか何も 報いられで
  十字架の上に 上げられつつ
  敵を赦しし この人を見よ
 
由木康作詞・安部正義作曲の、日本人の間から生まれた賛美歌ですが、淡々と歌われるも、心情を揺さぶる、美しい歌です。
 
イエスはどうして十字架に上げられたのか。
 
15:それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである。
 
そして、聖書の中の聖書、一言で聖書を要約するとこういうことになる、という、愛すべき言葉と私たちは出会います。
 
16:神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。御子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。
 
ここは、ニコデモに言ったイエスの言葉なのか、それとも記者ヨハネの言葉なのか、と議論されます。しかしそれはどちらでも基本的に同じことで、私はそれよりも、この2つの節の言葉を、「〜ため」や「〜ほど」という形ではなく、結果にして読み味わうことを試みる価値があるのではないか、と思っています。
 
(人の子も上げられねばならない。)その結果、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るようになるのである。神は世を愛したので、その独り子をお与えになった。そのために、御子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得ることになったのである。
 
如何でしょうか。新鮮ではありませんか。目的の句は、時にこのように結果として読むことで、何かに気づかされることがあるように私はいつも思っています。
 
◆永遠
 
16:神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。御子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。
 
子どもたちにも、必ず暗誦してもらう聖句です。聖書を読み通すことができない人でも、この言葉は覚えてほしい、とどの教会でも言います。ここに、福音が詰まっている。ここに救いのエッセンスが全部ある、とも言われるのです。
 
神が人を愛した。そのために、信じる者は永遠の命を得ることができる。先ほど私はそのように読んでみました。他の福音書には「永遠の命」という言葉は、2、3節にあるだけですが、ヨハネ伝には、この「永遠の命」が17節にわたり使われています。ヨハネ伝にとって、大切な救いの言葉なのです。
 
ところがこの「永遠」という意味をどう理解すべきか、ということについては、意見が分かれます。時間的に私たちがイメージする、「死なない」という理解は余りにも素朴ですが、何か違うようです。それよりも、いまこの瞬間が永遠なのだ、というふうな捉え方が、一般的であるようです。でも、それも何かオシャレな「思い込み」に過ぎないような気もして、もうひとつ賛同しづらいような気がします。
 
と言いつつも、そもそもこの聖書の句全体には、どれほどの意味合いを受け止めればよいのでしょうか。神があなたを愛したから、あなたは永遠の命を得る。このテーゼは、論理的だとは言いづらいものです。どうしてそこがつながるのか、決して自明ではありません。
 
というのも、旧約聖書に於いては、「永遠の命」を人が受けるという発想は見られなかったからです。一度だけ、神が自身について「私はとこしえに生きる」(申命記32:40)と言われたところがあり、新共同訳に於いてそれは「わたしの永遠の命にかけて」と訳されていた程度です。ただ、新しい聖書協会共同訳に於いて、新たにダニエル書がこの語を含みました。
 
地の塵となって眠る人々の中から/多くの者が目覚める。/ある者は永遠の命へと/またある者はそしりと永遠のとがめへと。(ダニエル12:2)
 
新共同訳では「永遠の生命」と訳されていました。ややこしいですね。ただ、その語彙に拘らなければ、「永遠の命」への信仰は、旧約聖書続編に於いて少し見られるようになってきました。イエスの時代に、聖書の知識のある人が幾度か「永遠の命」を求めてイエスに近づいてきていたのは、この続編の思想文化の中にいたからなのかしら、というふうに私は考えてしまいます。
 
永遠の命を与えるために、イエスは十字架の上に上げられねばなりませんでした。このイエスの姿を、私たちは見たでしょうか。キリスト者は、それを見た者たちです。見たことについて、証言する者たちです。イエスの十字架を、私たちはどこで見ていたでしょうか。有名な黒人霊歌を思い起こします。「あなたもそこにいたのか」という題でいま知られます。
 
  あなたもそこにいたのか
  主が十字架についたとき
  ああ いま思いだすと
  深い 深い罪に
  わたしはふるえてくる
 
◆ハンナ
 
受難週に入ります。今日は、イエスの十字架を見上げ続けていたい日です。エルサレムに来たイエスを、群衆が歓迎した日でしたが、その歓声は、数日後に罵声と呪いの声に変わりました。イエスは、イスラエルの最大の英雄、ダビデ王の子孫でした。だからこそ、王とされる権威があった、とも考えられます。
 
ダビデが現れるために、必要だった人の一人が、ハンナという女性です。子どもが与えられませんでした。子どもを産むことで初めて、女としての価値が始まるような世の中です。ハンナは自分のためにも、子どもが与えられる必要がありました。母親になりたかったのです。
 
何故か子どもができない。そういう女性の悩みを訴える場面は、聖書には幾つかあります。女性としては、決定的な条件でした。子どもを産まないと、なんのために自分が生まれてきたか分からない、そうした文化のなかにありました。
 
しかしそうした話題が描かれるということは、やがて子どもが生まれることを意味していました。子どもは、神が授けます。子ども産まない女性が役立たずと見られたくらいですから、ハンナもそのようにして子どもが与えられたとき、どんなにか嬉しかったことでしょう。
 
このハンナに子どもが与えられる経緯の中で、エリという祭司が登場し、なかなかユニークな立ち回りをするのですが、いまはそれに関わっている暇はありません。ただ、ようやく与えられた子は神のために用いてください、という祈りが聞かれ、生まれた子は祭司の修行をすることになります。その子の名は、サムエル。このサムエルが油を注ぐことで王として任命されたのが、ダビデでした。イエスは、そのダビデの子孫としてこの世界に生まれます。
 
このハンナの記事の彼方に、イエスが待っています。
 
◆ハンナの祈り
 
子どもが生まれたら主に献げる。もちろんそれは殺すことではなくて、主のために働く者とさせる、というような意味でした。ハンナのその祈りは神に聞かれ、子どもが与えられます。
 
ハンナと祭司エリは、主を礼拝します。そのときにハンナが祈った祈りが、サムエル記2章に掲載されています。少し長くなりますが、そのままに再びお読み致しましょう。ぜひじっくりと味わってください。
 
1:ハンナは祈って言った。/「私の心は主にあって喜び/私の角は主によって高く上げられます。/私は敵に向かって大きく口を開きます。/あなたの救いを喜び歌うために。
2:主のように聖なる方はなく/あなたに並ぶ者はいません。/私たちの神のような岩はほかにありません。
3:あなたがたは驕り高ぶってはなりません。/思い上がって語ってはなりません。/その口から高慢な言葉を/取り除かなければなりません。/主はすべてを知っておられる神/人の行いを量られます。
4:勇士の弓は折られ/弱い者が力を帯びます。
5:満ち足りている者はパンのために雇われ/飢えている者はもはや飢えません。/子のない女が七人の子を産み/子だくさんの女は衰えます。
6:主は命を奪い、また命を与え/陰府に下し、また引き上げます。
7:主は貧しくし、また富ませ/低くし、また高めます。
8:弱い者を塵の中から立ち上がらせ/貧しい者を芥の中から引き上げ/高貴な者と共に座らせ/栄光の座を継がせてくださいます。/地のもろもろの柱は主のもの。/主はそれらの上に世界を据えられました。
9:主はご自分に忠実な者の足を守られます。/悪人は闇の中に滅びうせます。/人は力によって勝つのではありません。
10:主はご自分と争う者を打ち砕き/天から雷鳴をとどろかせます。/主は地の果てまで裁き/王に力を与え/油注がれた者の角を高く上げられます。」
 
イエスの母マリアの祈りは愛されてよく口に上りますが、このハンナの祈りは決してメジャーではありません。けれども美しいものです。信仰的に励まされるものです。特に8節の前半は慰められます。
 
8:弱い者を塵の中から立ち上がらせ/貧しい者を芥の中から引き上げ/高貴な者と共に座らせ/栄光の座を継がせてくださいます。
 
そしてこのイエスの十字架を思う大切な日、ハンナの祈りの最後のところを、十字架の次にくるものとして、受け止めたいと願うのです。このとき、「角」という語がありますが、「角」は「力」や「救い」を象徴します。そして「油注がれた者」は「王」ですが、それは救い主としての「メシア」、つまり「キリスト」を指すものとして聞いて戴きたいと思います。
 
10:主はご自分と争う者を打ち砕き/天から雷鳴をとどろかせます。/主は地の果てまで裁き/王に力を与え/油注がれた者の角を高く上げられます。
 
イエスは十字架に上げられて、私たちに永遠の命を与えました。しかしイエスは、十字架の上で死んだままではありません。そしてそこにこそ、このキリスト教の、底知れぬ力が現れてきます。そのことについては、来週お伝えしたいと願っています。



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