自らの罪を知らない

2026年3月29日

よく国語の問題なんぞを解いていたものだと思う。人の気持ちがまるで分からない子どもだった。いや、今だって怪しいものだ。だが、人を傷つけて何も感じず、何も心が痛まない、そんな子どもだった。本もあまり読まなかった。子どものための文学全集を、親が揃えてくれていたが、よほどのことがなければ読もうとはしなかった。もったいないことをしたと思う(そうはいっても、それなりにだいぶ読みはしていたのだ)。
 
どうして本を読むのが嫌いだったか。面倒くさいからである。頁をめくるまでに1分くらいかかるだろうか。そしてめくってもめくっても、次の頁がある。終わりの方の頁数を見ると、200くらいある。こんなことを100回も繰り返さなければならないのか。なんと面倒くさいことだろう。
 
国語の問題への解答など、表面だけ、口先だけでこなしていただけだったのだろう。今教えていて、こういう心情を鑑みてこういう言葉で答える、などと話してはいるが、語る本人が子どものときに、とてもそんなものに気づいてはいなかった。形だけで裏読みでもしていたのではないか。
 
女の子を好きにもなった。だがそれは、極めて一方的なものだった。その証拠に、果てしない空想物語ばかり頭に描いていた。ひとりで脚本を考える。自分がこう言ったら、相手はこのように言って、それでにこにこと手を繋ぐ、といった空想物語に、毎日浸っていた。そういう妄想は果てしなかったし、自分の世界に酔い痴れていただけだった。夢のような都合のよい恋愛ストーリーが、我ながらよくできたものだ、とにやにやするばかり。
 
高校一年生のときに、その恋愛ストーリーに、恰好のお膳立てができた。初恋の女の子と同じ高校で再会したのだ。今ならありがちなラブコメではないか。相手の気持ちも考えず、自分がかつての感情と同じままであるならば、相手もそうだろうというような思い込み。もちろん撃沈するのだが、そのときにもずいぶんと傷つける言動をとってしまった。
 
さらに、別の女の子にも、少し似たようなことを起こした。そちらは優しく接してくれたが、こちらが思い抱く感情とは全く違う意識であったことに、なかなか気がつかなかった。どういうひとと出会っても、そういうことの繰り返しだったし、相手の家庭を壊しかねないような場面になっても、こちらの心は何の痛みも覚えず、自分が正しいという一点張りでいた。
 
なんと想像力のない、自己中心者だったのだろう。今も大して違わないよ、と言われそうだし、それを否定はしないが、いくらかはましになったとは思う。だから、同じように自己中心の考えに支配されている人を見ると、他人事には思えないときがある。
 
うまくゆかないことは、自分のせいではない。他の誰かのせいだ。ずいぶんと荒んだ精神だ。一方的な正義を他人に押しつけるくせに、自分の不正には気づかない。どれほど他人に牙を剥こうとも、自分が悪いということに気がつかない。神を知らないときには、それが当たり前だった。神と出会わないでいるときには、そういう罪の中にいた。そして罪の中にいることさえ、気づかないのだから、人間の哀れさというのは、自分だけではどうしようもないものだ。
 
むしろ、「神」という単語を使うときには、自分の方が「神」を操ろうとしていたのだ。この罪は重い。
 
多かれ少なかれ、キリスト者と言える人は、どこかそういう道を踏んでいるのではないかと思う。少なくとも、そういう人でなければ、福音を語る壇上に立つことはできないだろう、と思う。また、立ってはならないと思う。福音を語ることは、それなしにはできないことなのだ。知らないことは語れないからだ。
 
今日、受難週として、キリストの十字架について語らない教会はないだろうと思われる。だが近年、「罪」ということが適切に語れない教会があるという。自らの「罪」を痛感したことのない者が説教する立場にいると、そういうことになる。どうか、キリストの十字架が何のためであったか、自分の立つ場はどこか、震えながら神の言葉を聴く、そうした礼拝が、各教会で執り行われるように、と祈るばかりである。



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