一粒の信仰
2026年3月26日

私は出勤の憂き目に遭い、礼拝にライブで参加できなかった。しかしうれしいことに、やがて動画が届く。ありがたい。この日は、受難週へ向けての礼拝であったが、春からある教会に赴任する、若い神学生が説教担当となった。
当教会出身である。だが、自己紹介の意味もどこかに含めつつ、自らの経緯も語られた。小さいときから教会にいたが、大学生のときに、信仰をもたないことを決めたという。しかし、20代後半で洗礼を受け、その後召命を受け、こうして語る者となった。その背後には、教会の祈りがあったことを感じているのだという。
この日の礼拝は、主イエスがそのように背後で祈っている、という姿を、聴く者が目の前に描くことができる、そんな説教が語られた。開かれた聖書箇所は、ルカ伝22章。31節から34節であった。
ゆったりとした話し方でとても聴きやすく、話し方も表情も好感がもてる。牧師として実際に歩み始めると、語るだけではない労苦もあるだろうが、とにかくまず語ることができなければ、教会は成り立たないし、礼拝も成立できない。その若さと、素直な信仰の眼差しが、生き働いてゆく教会となってゆくことを願う。
中高生のキャンプに加わるということも多い。そのときに、聖書の人物の誰が好きか、あるいは、自分は誰に重ねることができるか、そうしたことを訊くことがあるという。聖書の話でよく聞く、という背景も加わるが、やはり人気はペトロであるという。
私は、もしそう訊かれたら、きっとエレミヤの名前を出すだろう。が、いまはそのことを話す場ではない。今日の説教は、そのペトロが中心にくることが分かった。
その詳細をここに再現するつもりはないが、ペトロの様々な場面が紹介されて、いっそうこの弟子の人物像や、キリスト教会のために命懸けで働いたその役割が胸に迫るようであった。
シモン、シモン、サタンはあなたがたを麦のようにふるいにかけることを願い出た。(ルカ22:31)
説教者は、この「ふるい(篩)」によって、粉が落ち、籾殻が残る、と言った。私は聞き間違いかと注意深く聞いていったが、幾度もそのような言い方を繰り返した。篩によって、信仰が落ちてゆき、籾殻か残るのだ、と。そして、サタンは私たちに向け毛手も、命か信仰か、金か信仰か、人間関係か信仰か、というふうに迫ってくるのであり、それが篩にかけることなのだ、と抑え方をするのだった。
私は混乱していた。私がまるっきり間違っていたのだろうか。私のイメージは全く逆であった。篩によって、大切な麦の実が残り、籾殻やゴミが飛んでゆくのだ、と。
旧約聖書は、例外なく、籾殻が風に飛ばされる、という言い方をする。悪者が籾殻のように風に吹き去られる、と幾度も告げる。旧約聖書続編ではあるが、籾殻と篩とが同時に書かれる場所がある。
風向きを選ばずに、もみ殻をふるい分けるな。/道を選ばずに、歩くな。/それは、二枚舌の罪人のすることである。(シラ書5:9)
農耕社会であったイスラエルに於いては、人々はこの篩というものをよく知っていたはずである。聞いた話では、この篩というのはかなり大きな、二畳ほどもあるものだそうだが、穀物をすくって、枠の着いた網に落とす。籾殻やゴミが落ちてゆく。あるいは手作業のざるがあれば、玉石混交の穀物を風の中で抛る。すると、籾殻は風に飛ばされてゆき、重い立派な麦だけがまたざるの上に落ちてくる。こうして、篩やざるには、良い実だけが残るのである。
悪いもの、使い物にならないものを、篩は払いのけ、良いもの、価値のある実だけをそこに残す。私は、そうイメージしていた。
もしかすると、ケーキにかける粉砂糖を網でふるうとか、小麦粉が「ダマ」にならないように細かな粉だけにして落とす、というようなイメージを、説教者は言いたかったのだろうか。間違いなく、篩から落ちるものが大切なものだ、ということを繰り返すのだった。
ついでに触れると、ここで主が篩にかけようとしたのではなく、サタンがわざわざ篩にかけさせてくれ、と願っている点が気になる。しかも「あなたがたを麦のようにふるいにかけること」を求めたのである。この「あなたがた」はもちろんペトロを筆頭とする弟子たちのことであるが、当然いまこの言葉を聞いている私たちも含まれる。
サタンは神に、クリスチャンだと口で言っている者たちを、一度篩にかけてみてはどうです?と持ちかけたようなのだ。だってね、信仰をちょっと試してごらんなせえ。信仰、信仰と口では言っていますけど、なんかあったら、そんなものを簡単に捨てて、この世に従って行ってしまいますぜ。そんなサタンの魂胆が聞こえてきそうである。ほうら、ペトロだって、風に吹き飛び、ゴミと同じように神のざるから外れて行ってしまいますから。
そう。ペトロは、主を三度否んだ。あれで、もう主を離れて、戻ってこないかもしれなかった。だが、ペトロは戻って来た。
しかし、私は信仰がなくならないように、あなたのために祈った。(ルカ22:32)
説教者の力強い語りは、ここに最高潮を迎えたように聞こえた。信仰がなくならないように、というのは、信仰がゼロになることを否定するのだという。信仰で満たされるように、と言ったのではない。わずかでも信仰が残るように、イエスはペトロのために祈ったのである。説教者の言葉を借りれば、「一粒の信仰が残るように」祈ったのである。
だから、あなたが立ち直ったときには、兄弟たちを力づけてやりなさい。(ルカ22:32)
ペトロは、その一粒の信仰によって、立ち直る。立ち直ることが確実であるから、もしも立ち直ったら、とは言わなかった。立ち直ることは確実なのである。なにしろイエスがそのために祈ったのだ。一粒の信仰が残る、と断言したのだ。
しかもこのとき、ペトロのために「祈った」というときのその言葉は、「懇願した」と呼ぶに相応しいような、強い願い求めである。切迫した深刻な危機的情況で激しい、感情に訴えるような願いである。このイメージを説教者は大切にした。イエスは、土下座して額を地面にこすりつけるような勢いで、ペトロに一粒の信仰が残ることを、神に求めたのである。
ペトロに対する祈りは、もちろん私に対するイエスの祈りでもある。あなたに対する祈りでもある。イエスは神に懇願している。地面ではなく、十字架に掌を釘打たれ、頭を杭にこすりつけながら、祈っている。彼らを赦してください、と祈っている。
これで十分であった。この後も説教者は、ペトロの「主よ、ご一緒になら、牢であろうと死であろうと覚悟しております」という言葉の中に嘘がなかったこと、だが人の弱さはその意気込みが現実になることに壁を設けた。しかし、このペトロの勇ましい言葉は無意味だったのか。説教者はそうは思わない、と言った。頼もしい助けであった。背後にイエスの祈りがあるのだ。ペトロには一粒の信仰が残るのだ。それは、小さなからし種ほどの信仰であるかもしれない。だが、神の御心ひとつで、それは大木にも育ちうるのだ。
これは蛇足だが、命か信仰かと篩にかけて来ようとする場面で、説教者は、日本のキリシタン迫害について触れた。そのとき「踏み絵をさせられる」という言い方をしていたが、この言い方は適切ではない。「踏み絵」は「絵(像)」のことである。いまは中学校の歴史の教科書でもこれは厳密に区別され、踏む行為について言うときには「絵踏(み)」という。「絵踏みをさせられる」という言葉の使い方をするように教えられている。
最後に、私を通して生まれたひとつの賛美の歌詞を添えておく。新改訳聖書を用いていたので、「ペトロ」ではなく以前の「ペテロ」となっている。「ペトロ」は、新共同訳聖書以降の呼称である。ドラマ仕立てに、私なりに受け止めたペトロの人物像を詩にした。
ペテロ
夜通し働いても 魚ひとつ捕れない湖(うみ)に
「網を下ろしなさい」と あなたが言う それで下ろした
多くの魚が網にあふれて
やっとのことで引きあげ わたしを見た
主よ 今知りました あなたの聖さと力
わたしのような者から 離れてください
敵を目の前にして わたしたちをひとつに集め
「定められたとおりに去ってゆく」と あなたは告げた
「とりわけペテロの信仰のため
祈りました」と静かに わたしを見た
囚われたあなたを 遠くから追ってゆくと
凍える火明かりを越え あなたが揺れてた
十字架を見届けて おのが罪にうちひしがれて
望みも夢もなくし 過ぎた日々を思い返した
……墓から消えたと知らせを受けて
夢中で走り信じた よみがえりを!
聖霊が臨んで 主の力を受けた今
あなたを証しするべく わたしは変えられて
エルサレムの町で 危険に囲まれてなお
「イエスはキリストである」と 声を嗄らしている