コロナ禍の検証の必要(文化)

2026年3月25日

この問題は大きすぎて、短い文章で一定のことを論ずることなど到底できない。それでも、ここで出会うお一人おひとりが、何かを考える契機になればと願いつつ、綴ることにしたい。
 
コロナ禍のことを振り返るのに、いまは良い機会であると私は考える。あのとき、世界がこのまま閉鎖的になり、人類存続の危機にすらなるのではないか、と案じられたことも、もう喉元過ぎれば熱さを忘れるで、多くの人の意識から消えているように見える。
 
コロナ禍のために、倒産に追い込まれた企業や、閉店した食堂その他も数多い。その負債を抱えていまも労苦している方がたくさんいるだろう。しかしそこまでいかなかった場合、もうあれは、通り過ぎた出来事に過ぎず、あのとき辛かった人のことも、もう意識に上ることはないのかもしれない。
 
だが、実際感染症が今後も襲ってくることは大いにあり得ることであるし、今回の痛い経験については、次のパンデミックのためにも、幾らか落ち着いたいま、検証する好機であると思われてならないのだ。
 
医療従事者の労苦についての検証文献があることは知っている。世に問うだけの価値ある本だった。他にも、きっとあるだろう。私がたんに知らないだけのことなのだ。
 
けれども、たんにあのときこうだった、というだけの記録に留まらず、あのとき現れた考え方や空気というものについて、反省すること、検討すべきことがあるのではないか、と私は強く思う。次のときの経験とて役立つ記録が求められるわけである。
 
いま取り上げたいのは、文化と経済の関係である。
 
あのころ、文化的な営みが、非常に軽視されていた。芸術や文化関係で生計を立てていたような人は、世間からずいぶんと冷たくあしらわれたのである。経済が優先だ。いま、絵とか音楽とか言っている場合ではない。金がないと生きていけない。芸術など呑気なものはどうでもいい。社会のおもだった声が、そんなことをヒステリックに叫んでいた。
 
気の毒だが、と言う程度の優しさを見せた人もいたが、結局、芸術や文化はパンデミックでは無力だし必要がないから、仕方がない、というところに落ち着いて、それを助けようという積極的な動きは殆どなかった。言いたいのは、それ以後も、世間の人々もそうだが、政治的な領域で、文化的な分野に対して冷酷になったことだ。伝統文化への援助を縮小することが始まった。そしていま、採算の取れない美術館は閉鎖する、という方針さえ見せている。
 
大学では、文科系学部の縮小や閉鎖も甚だしい。理系分野には金を出そう。経済のために役立つものは優遇する。だが文学など、暮らしの役に立たないものには、学術費を出す価値がない。そういう政治的な方向性は、世論が支持しているという理由で、留まるところがない。世間が、政治という大樹の陰で同調しているだけかもしれないのに、だ。
 
否、人々も、文学など経済の前には小さなもので、いうなればなくなっても構わない、仕方がない、という考え方に慣れている。まさか、いまなおエコノミック・アニマルがこうして生存しているとは、信じたくないけれども、どうやら事実のようだ。
 
コロナ禍のときにも、文化の意義を訴える声はあった。芸術や文化の当事者が、賢明に叫んでいた。だが、それは大きな流れにはならなかった。そりゃ、芸術家も生きていかなきゃならないから、まぁ仕方がないか、という程度であしらわれていたような気がする。
 
いまも、経済的には厳しい情況がある。だから、根本的にその文化軽視の傾向は変わっていない。だが、検証して戴きたい。本当に、そうなのか。それでいいのか。
 
『kotoba』という、魅力的な機関誌がある。最新号は、読書が特集である。石破茂前首相も寄稿していて、教養豊かな方であることがよく伝わってくる。一部に、石破首相への強いコールがあるが、その意味もよく分かるような気がする。その他、哲学者の永井玲衣氏が言っていたことで、この場を結んでおこうかと思う。引用ではないが、こういう内容で締め括っていたのだった。
 
戦争に対して文学にできる大きなことがある。非人間化に抗うことだ。
 
戦争は、人間を人間でなくすことである。哲学者に見えるものが、多くの人々にも見えるものであってほしい。



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