本を読もう
2026年3月23日

どだい、世代間で言葉が通じないのは、あたりまえのことだろう。私だって、上の世代の常識に疎い。まして夏目漱石の時代の言葉が、生活実感になかったとしても、仕方がないことだと諦めるしかない。
だが、夏目漱石を読んでゆけば、それなりに言葉についての知識が身につく。それなりにだが、言葉を通じて想像の世界であったとしても、経験知が与えられるだろう。それは、たとえば民族博物館に行ったときに、これがあれのことか、という気持ちで見ることができるというものだ。テレビでふとレポートされたものに反応することもできる。
だから、幾度も言いたいことだが、本は読むべきだ。現実に会えない人の言葉を聴くことができるし、体験できない出来事を、擬似的にでも知ることができる。しかも、夜中だろうが電車の中だろうが、相手はこちらの都合に合わせて付き合ってくれる。こんなにありがたいことはない。
電子書籍でもいいだろう。だが、見返すことができる点や、ラインを引いたり附箋を付けたりすることに於いては、紙の本の方が勝っているようにも思う。何より、紙への手触りという感覚を伴いながらの読書は、嗅覚や味覚こそないかもしれないが、視覚だけではない経験を得ることができて、また違うような気がする。この点は、多くの読書家が感じて発言している。
若い人たちにも、通じない言葉は多々ある。まして、教室で話す子どもたちとくれば、私が戦争を知る人の話を実感できないくらいに、言葉が通じないのは仕方がないかもしれない。
古い「モノ」自体がなくなれば、その言葉が通じないのは当然だ。「囲炉裏」が家には普通ないし、「掘り炬燵」もなかなかお目にかかれない。「釜風呂」だって私は一度しか入ったことがない。「土間の台所」があった田舎はもう遠く、そこの「竈」に暖を取っていた猫による「猫灰だらけ」の現実も、記憶の中にしかない。否、それはもう昔話のものであるにしても、「軒先」や「縁側」でさえ想像できない生活になっているし、そこにあっても「鴨居」が何かも分からない。
ただ、「モノ」ではなしに、そこに何らかの傾向が見られるとしたら、考える価値がある。子ども向けの物語にも時折見られる語で、「はやしたてる」「ののしる」といった言葉が出てくるのだが、この意味が、小学生にはまず通じないのである。
それはもしかすると、「いじめ」につながるようなことを、現場で強く禁ずることからくるものなのだろうか。身体的特徴を表す語も、使用頻度は激減している。確かに使うべきではない。だが、使うからこそその概念を意識する、という考え方もある。言葉を知らずとも、その概念を人間が有する限り、あるいは無意識的に別の表現を伴って出てくるという可能性もある。つまり、言葉を知らないことにより、逆に歯止めが利かなくなるのではないか、という懸念がある。
それから、「たとえ」が理解できないのも気になる。その「たとえ」が何を伝えようとしているか、そこに意味があるのに、その「たとえ」自体に対して、そんなことはない、と否定してかかる子どもが多くなった。「たとえば朝起きたらまず顔を洗うように」と話し始めると、「すぐには顔は洗わないよ」とすぐに口を挟んでくるようなことは日常的だ。要するにこの「たとえ」は、意識しないでも習慣的に毎日することがある、ということを伝えたいものだが、それを察することができずに、言われた表面的なことだけにしか反応できないのである。
読書が常態であるような自分の知的なあり方があれば、そういう反応はないと思われる。筆者が何を言いたいのか、言葉から探る癖がついているから、言葉の表面だけの意味に囚われることがないのである。
SNSで他人の発言を揶揄し、自分の理解の範囲で徹底的に相手を糾弾するようなことが、あたりまえのように行われている。私もその標的になったことがある。「論破」ということが一時流行ったが、それも相手のスタンスから見えるものについて、想像力がない故のマウント取りではなかっただろうか。いまなお、そうした被害に悩んでいる人も少なくない。
想像力が死滅しないように、本を読む習慣をなくさないようにしてほしいものだ。因みに、いまの新しい聖書には、「想像」という言葉は、一度しか出てこない。「想像力」は無論ないし、「空想」も旧約聖書続編にひとつ出てくるだけだ。それは、神の命令に対してあれこれと想像する必要がなかったからだろうか。あまりにも神がリアルだった、ということだとしたら、と考えるとまた面白い。こうした点について考察したものを、私は寡聞にして要らないのであるが、どなたか「聖書と想像」についての議論をご存じであったらお教え戴きたい。