(マルコ10:35-45, 詩編102:20-23)
人の子は、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。(マルコ10:45)
◆イエスの右と左
2026年の復活祭は、4月5日です。春の満月の時期から計算することが古来決められていて、昔の教会の定めたものではあるけれど、殊更に否定する理由もないということで、カトリックとプロテスタント教会の了解事項となっています。東方正教会は、別の暦を用いるために、こうした教会の記念日についてはズレがあります。
5日が復活を語る機会だとすれば、29日は十字架を思うのが通例です。そのひとつ前の22日には、十字架へと向かうイエスの姿を考えるのが筋道でしょうか。十字架への道を見つめたい時期です。イエスの歩みを記した「福音書」では、この一週間の出来事のために、かなりのスペースを割いています。キリストを信じるということの、本質的なものがそこに溢れています。
十字架刑に処せられるイエスの姿を直接描く前に、十字架の物語の周辺から、イエスの死と復活につながる道を見出すことを、この春私は意図しています。つまり、福音書の記事を丁寧に辿るというよりも、また別の箇所から、イエスのこと見つめようとしているのです。今日は、マルコ伝10章をお開きしました。
弟子たちのうちの二人がその日、わざわざ進み出て、イエスに願いがあると申し出ました。ゼベダイの子ヤコブとヨハネという、弟子たちの中でもトップクラスの位置にいた、古参者の二人です。
37:二人は言った。「栄光をお受けになるとき、私どもの一人を先生の右に、一人を左に座らせてください。」
出世願望なのか、ただただ死後の幸福なのか、その狙いは私には確証できませんが、とにかくイエスが王として支配する国に於いて、大臣級の待遇を求めたというわけでした。これに対してイエスは、「あなたがたは、自分が何を願っているのか、分かっていない」と厳しく即答します。
ここはイエスの見ている者と、弟子たちの思惑とがずれにずれているところであり、会話が噛合っていないのですが、弟子たちの考えはともかくとして、イエスの言うことを聞きましょう。
39:「確かに、あなたがたは、私が飲む杯を飲み、私が受ける洗礼(バプテスマ)を受けることになる。
40:しかし、私の右や左に座ることは、私の決めることではない。定められた人々に許されるのだ。」
イエスは、誰がどのように救われ、神の国でどうなるのか、決めることがない、と言いました。そればかりか、弟子たちもまた苦難を経験するであろう、というように聞こえることを言っています。私たちもこれは弁えておきたいことだと思います。
◆ディアコノス
43:あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者となり、
44:あなたがたの中で、頭になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。
45:人の子は、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。
むしろ、大臣にでもなるつもりならば、「仕える者」となれ。「すべての人の僕」となれ。この「仕える者」はギリシア語で「ディアコノス」、「僕」は「ドゥロス」と使い分けられています。聖書でこうして対句のように並べられているときには、別の言葉であっても基本的には同じ語を繰り返したくない場合が多いものです。つまりただの言い換えであって、細かな区別を設けるつもりではないわけですが、せっかくの言葉ですから、それぞれがどういうことを指しているのか、学んでみたいと思います。
まずは「皆に仕える者」としての「ディアコノス」です。基本的にそれは「召使」を意味します。人々の衣食住の世話をする者、家事を担う者です。当時の社会では、身分のある市民は自ら家事をこなすことはなく、召使いが生活事務を営んでいたと思われます。それは聖書の描写のあちこちで見られるものであり、いわばそういうものでした。いまの観点から、労働云々などと言い立てるのは、私たちの正義感を満たすことにはなっても、聖書から何かを聞くことはできない、とすべきでしょう。
しかしそれは、奴隷とまでは呼ぶことが難しいものと思われます。愛に基づいた行いであり、具体的な必要のために家事労働をするわけで、私たちの世界では、失礼ですが、女性の家事労働が近いイメージを与えるかもしれません。
後に教会では、これを「執事」とか「長老」とかいうような立場の仕事だと見なしました。何かと教会生活を支える実務的な仕事であり、教会の世話をする立場だと考えられています。どうかすると、「牧師」という立場も、これだと見なすことができます。牧師は「仕える者」だという弁え方をしている牧師も実際にいます。
しかし、「先生、先生」と呼ばれてふんぞり返っている人には、この表現は当たりません。「先生にそんなことをされては……」と遠慮する信徒もいますし、人間的にはそうした接し方を批判するつもりはありませんが、それだと、受難を前にして弟子たちの足を洗ったイエスについて、私たちはどう理解してよいか、分からなくなります。
教会の執事などの役員もそうです。こうした役員は、しばしば選挙という形で選ばれることになりますが、教会を自分の好きなように変えられる、と何か勘違いをするような人も、時折お見受けします。執事は牧師と異なり、特定の学びや資格のようなものの制限を受けませんが、だからこそなおさら、よくよく気をつけていなければならないかもしれません。
それから役員は、法的に宗教法人である場合、法的な責任を負うことにもなります。それなりに大変なのです。
◆ドゥロス
次に、「ドゥロス」という言葉です。「ドゥロス」は、新約聖書を読む場合にひとつ心得ておくとよいのですが、「僕」といまでは訳されているにも拘わらず、元来それは「奴隷」のことでした。「主人と僕」という対比が悪いわけではありませんが、日本語では、「主人と奴隷」と表現した方が、鮮明にイメージできます。
但し、「奴隷」という言い方は、確かにあのガレー船で鞭打たれながら櫂を漕がされる映画の中の奴隷を想像させることがあります。ひたすら虐待されて使われる奴隷の姿は、一部にはあったかもしれませんが、基本的に該当しません。
当時の社会がどうであったか、私には分かりません。「当時」と一括りにしてよいのかさえ分かりません。地域によって、その社会によって、待遇や扱いがずいぶんと違っていただろうと思われます。学者が調査しても、それはいまの標準時のように全国共通、という訳ではなかったのではないかと思います。
一般に、奴隷や捕虜は、金で動かすことができました。金銭を支払うことで、囚われた人を自由にする制度がありました。
昨年末まで放送されていた、NHKの大河ドラマ「べらぼう」は、蔦屋重三郎の生涯を描きました。前半で、吉原の遊郭の花魁である瀬川が登場しています。蔦重の幼馴染みで、ほのかに思いを寄せる関係でしたが、瀬川はしょせん女郎。10年ほどは勤め上げなければならず、その年季明けを待たずに自由になるには、べらぼうな金額を払って「身請け」をしなければなりませんでした。とても蔦重にはそんな金は出せず、結局盲目の鳥山検校が瀬川を身請けします。
囚われた者は、多額の金銭によってのみ、自由となる。だから、人は生まれながらにして自由だとする現代の考え方からすれば、とても想像のできない社会慣習の中に、人々は長い間生きていたのです。自由人ということはものすごい特権であり、大多数の者は、生活や身分に縛られていたことになります。
奴隷は正にその立場であって、今でいう基本的人権などはありません。主人に対しては、絶対服従が原則です。しかし、主人からしても、労働の担い手である以上、奴隷をいじめて楽しむようなことをする訳がありません。言うなれば、私たちが番犬として犬を飼っているようなものです。面倒をみます。大切に飼います。その代わり、なんでも仕事をしてもらいます。
奴隷は、主人の「財産」でした。だから、不要となればよそに売りに出すこともできます。役に立たなくなれば、捨てるかもしれません。「モノ」を私たちが扱うように、奴隷を扱うという常識の社会でした。アリストテレスが「ものを言う道具」である、と称したことが、当時の理解であったと見てもよいと思われます。
◆仕える者となれ
さて、ヤコブとヨハネがイエスに申し出た場面に戻ります。自分たちを、王国の大臣にしてくれ。二人がイエスにそうねだったことに対して、イエスは否定の返事をしました。ところがこのやりとりは、他の弟子たちにも聞こえていました。
41:ほかの十人の者はこれを聞いて、ヤコブとヨハネのことで腹を立て始めた。
二人が抜け駆けをしたことに対して腹を立てた。ということは、他の弟子たちも、似たような思惑があったということになるでしょうか。暗に同様の出世欲があったために、二人を妬んだ、ということかもしれません。
イエスは、ヤコブとヨハネの二人に対しては、「自分が何を願っているのか、分かっていない」と拒み、イエスの受ける洗礼を受けることになる、と警告しました。イエスのような苦しみを受ける、ということを臭わせたのでしょうが、それを理解する弟子はいなかったものと思われます。とにかく、二人の申し出を拒んだのは確かです。
では、イエスはこの二人を叱責しようとしたのでしょうか。他の弟子たちも、文句を言ったというこは、同じ腹であったということを見抜いていたに違いありません。イエスは、弟子たち全員に対して、話をします。
42:そこで、イエスは一同を呼び寄せて言われた。「あなたがたも知っているように、諸民族の支配者と見なされている人々がその上に君臨し、また、偉い人たちが権力を振るっている。
一同を呼び寄せたのです。そして、世の権力の構造を晒します。王国の大臣だなどという目論見は、この世の支配者と権力の構造と同じなのだ、と分からせたいのです。それから、あなたがたは違う、と教えます。
43:しかし、あなたがたの間では、そうではない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者となり、
44:あなたがたの中で、頭になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。
仕える者となれ。普通、「仕える」という言葉を、他人に言いつけることは、したくないものです。その時点ですでに、仕えさせる立場の者が、仕える立場の者に対して命令していることになるからです。「仕える者」となれ、と言えるのは、神だからこそ、イエスだからことでしょう。
◆ラトレイア
ところで、教会用語なのでしょうが、「奉仕」という言葉を私たちは使います。「仕え奉る」という漢字を使います。教会で一定の仕事を担うことを謂います。
「奉仕活動」という語は一般に、無償で人や社会に役立つ仕事をすることを指します。「ボランティア」という言葉を使うこともあり、無償が基本です。食費や必要な道具のために、実費を援助してもらえることはありますが、労働の報酬が支払われることがない、という考えにより成り立つ活動です。
他方、「奉公」という言葉も歴史の中にありました。封建社会では、主君から報奨を受けるのと同時に、主君のために一身を捧げることが御家人に義務づけられており、そのようなギブアンドテイクの関係が、「御恩と奉公」と呼ばれる構造をつくっていました。
また、江戸時代には、商人の世界で、賄いはあるものの無償で働かせて仕事を教えてもらう、やはり「奉公」という立場もありました。
教会の「奉仕」は、身分関係とは違いますが、教会のために何かをすることについて、金銭的報酬を受けるようなことは、誰もしないでしょう。きちんとした労働契約の許に、教会の管理をするとか、建築に携わるとかいうのなら別ですが、清掃や料理などについて、給与をもらうようなことはありません。
互いに教会を形づくり、教会の礼拝や行事をつくりあげてゆく。その姿だけを見れば、一種のサークル活動のようなものである、とも言えます。特に「礼拝」は、教会の最重要なイベントです。先ほど、「ディアコノス」という語が、世話をすることや、こうした奉仕することを意味するようにもお伝えしましたが、特に礼拝奉仕、儀式のための役割という意味では、新約聖書は別の言葉を用いることがありました。「ラトレイア」です。
元々は「礼拝」そのものを指すものでしたが、教会が組織となり、制度として成立するようになると、礼拝に関わる活動を、「ラトレイア」と呼ぶようにもなりました。
司会者、奏楽者などは、礼拝のプログラムにも記されます。受付も名前を掲げて担当するようなことがあります。礼拝奉仕という役割は、そのような名指しで与えられる役割のほかにも、初めての人に声をかけたり、ちょっと空調を気にしたり、何かとできることはするものでしょう。
人数が少ない教会だと、分担するというよりも、こうした役割を、一人の人が兼ねてしなければならないことがあります。若くてよく気が利く人は、そうした役割を元気にこなすことができます。すると、あの人はなかなかよく働く、と見られて、次の役員選挙に推される、というようなことも起こります。その若者にしてみれば、役員になりたくてしていたのではなく、ただ奉仕が楽しくてしていただけなのに、急に重責を与えられることになるのです。会議などが沢山あることも知っています。自分の生活から考えて、とてもそれはできません。そんなふうに本当の思いを返そうにも、教会のきまりだから、と決定づけることもあるでしょう。
若者に期待をかけることが悪いわけではないのですが、それがいつしか多数決という権力。あるいは暴力となって、個人を襲うことがあります。よい経験になります、という説得をするならまだしも、とにかく決まりだから、と押し切られたら、弱い立場の人はたまりません。可哀相に、そこまで担えないと若者が、教会を去ってゆく。そんなことが、現実にあるのです。
そのためかどうか分かりませんが、牧師が説教の中で、「仕えよ」と呼びかけることもあるでしょう。確かに、神の言葉として、神が語りかけるものとして、「仕えよ」と語ることは、ご尤もなことです。けれども、それがいつしかずらされてゆく悲劇が、このように起こることがあります。
神に仕えよ。そのためには、教会に仕えよ。神の経綸なのだから、喜んで教会に奉仕せよ。さあ、神の喜ばれるように、献身しよう。度々このように告げられると、献身しないことが罪であるかのように、どんどん響いてきます。純朴な若者が、釣り出されてゆく。その気にさせられてゆく。――そんな教会などあるものか、と思う人もあるでしょうが、これは実際にあることなのです。私がこの目で見たのですから。
◆誰が殺したか
43:しかし、あなたがたの間では、そうではない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者となり、
44:あなたがたの中で、頭になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。
45:人の子は、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。
これは、一牧師や特定の教団が、あなたに迫るための言葉ではありません。あなたがイエスと向き合って、イエスから直接聴く言葉です。人間の口から、それがまるで神からの言葉であるかのように聞こえてくることがあっても、決してついて行ってはいけません。偽預言者が惑わします。ついて行ってはいけません。羊飼いのふりをした強盗が、羊を連れ出そうとすることがあります。しかし私たちは、まことの羊飼いであるイエスの声に、聞き従うのです。
ここにイエスの姿が描かれています。「仕えるために」来たイエスは、「自分の命を献げるために」、この世に来てくださいました。それはイエスの業です。イエスの使命です。私たちが聖くなり、偉くなってからできる、という代物ではありません。実際、命を捨てたのはイエスです。神の言葉を注いだ人々、癒やしの業を以て神を知らせた人々、そうした人々が、祭司や律法学者たちの煽動に、いとも簡単に乗っかって、イエスを十字架につけろと怒号を繰り返しました。それで、十字架の上で絶命したのが、イエスです。
権力者だけがイエスを陥れて処刑したのではありません。自分は正しい、という思いに支配された、庶民の力が、イエスを十字架へ追い詰めたのです。私たちはこれを、忘れてはなりません。私たちが、イエスの血を流したのです。ボロ雑巾のように高い杭の上にその姿を晒したのは、私たちの罪の故なのです。私たちが、イエスを殺したのです。
このことを踏まえておかないと、キリスト教に「入信」しても、危険ではないか、と私は思うのです。キリスト教は、その教えの性格上、自分は神の側に立つと考えやすくなります。救われることは喜びですが、救われたという立場は、神の側です。神は正しいお方だという理解そのものは正しいのですが、神の側に立つ自分もまた、常に正しいという錯覚に人間は陥りやすいのです。
歴史上、その錯覚のために、どれほどの害悪を世界にもたらしたでしょう。文明を滅ぼし、文化を蹴散らし、良心ある人々を正義の名の下に殺害し、正しいと主張するお互いの宗派同士で殺し合う戦いを繰り返しました。ある性向の人々を罪だと殺し、世の中から追放しました。無実の人を魔女だと殺しましたし、教会に従わない人を死刑にしました。
それは昔話でしょうか。いえ、先日の痛ましい海難事故のときに、キリスト教を名のる人々の間で、どんな言い合いがあっているか、ご存じの方も多いだろうと思います。亡くなった船長が、キリスト教の牧師であったこと、また米軍基地移設の抗議活動に関係していたことで、事故とは直接は関係のない点で、非難する人がいて、かなりきつく「相手が悪い」という発言を、SNS上で続けているのです。(黙祷)
人々はあなたがたを会堂から追放するだろう。しかも、あなたがたを殺す者が皆、自分は神に奉仕していると考える時が来る。彼らがこういうことをするのは、父をも私をも知らないからである。(ヨハネ16:2-3)
これは、クリスチャンが被害者である様子をのみ知らせているのではないと思います。教会が、そしてキリスト教徒が、こうしたことをしてきたことに気づく必要があります。
45:人の子は、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。
何度でも、今日はこのイエスの言葉を繰り返しお伝えします。何度でも、このイエスの言葉を聴くようにしたいのです。
◆イエスに従う
私たちは、どうすればよいのでしょう。
43:しかし、あなたがたの間では、そうではない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者となり、
44:あなたがたの中で、頭になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。
45:人の子は、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。
「イエスに倣う」のか。それとも、「イエスに従う」のか。しばしばこれら二つのことは、同じことだと見られています。他人をコントロールしたい者は、これらを同一視します。けれども、明らかにこれらは別のことです。「イエスに従う」ことの方が、広い概念です。キリスト者は、「イエスに従う」者です。しかし、「イエスに倣う」のは、その中の一部の者です。あるいは、その中に一部交わる存在です。「イエスに倣う」ポーズをとりながら、実は「イエスに従う」ことをしていない者も、あり得るからです。
イエスは、「自分の命を献げる」ことをしました。私の「身代金」を払うためです。それほどまでに、私を愛し、私のために仕えてくださいました。私は罪に捕らわれていました。いまもなお、罪は襲います。気づかないで、罪に操られていることだと思います。ただ、そのような私をひっくるめて、イエスは身代金を支払って、罪状書きを無効にしてくださったのです。
なんと都合の好いことか、と言われるかもしれません。しかしそれほどに、イエスの十字架の死は、強烈でした。絶大でした。これを信じる者、この恵みを受ける者を、「イエスに従う」者に変えました。
今日、「仕える」という言葉について、少しばかり考えてきました。「イエスに従う」者は、仲間の世話をするでしょう。すべての人のために、自分の義務を果たすべく働くでしょう。そして、神を礼拝するでしょう。
これがすばらしい人間の幸福であるのだ、と、私たちは胸を張って、全世界に伝えたい。この主なる神は、全世界の王として、やがて崇められると信じているからですし、そのときには、世界の王国とその民が、この主を礼拝すると信じているからです。詩編102編をお読みして、その幻を分かち合うことと致しましょう。
20:主はその聖なる高き所から目を注ぎ/天から地を見ました。
21:これは、主が捕らわれ人の呻きを聞いて/死に定められた子らを解き放ち
22:人々がシオンで主の名を/エルサレムでその賛美を語り伝えるためです。
23:その時、もろもろの民/もろもろの王国は共に集まって主に仕えます。