自分を正当化すること

2026年3月19日

先週、ラジオの「アナウンサー百年百話」で、神戸の空襲警報を伝え続けた山口アナウンサーが、96歳のときに語った証言が放送されていた。それは凡そ、次のようなものであった。
 
戦争に入ってしまうと、人間は正当性を自分でもつようになる。これが怖いと思う。
戦争の意義や大義名分をつくる。戦争で解決するのは愚かだ。
 
自分のための醜い「言い訳」をする人は多いが、自分が悪くないのに自分を悪い、と公言する人は稀である。かつて「自白」が証拠の王と呼ばれ、刑事裁判で最大の決定的な理由とされていたものだった。いまは法的に通用しないとされている。ただ、現在まで問題視されている「冤罪」は、その殆どすべてがこの「自白」に基づくものであった。
 
私たちは、「自白」が死刑に等しいものであるという風土の中にいる。これでは、「罪の告白」など、誰もするはずがない。キリスト教団であっても、戦争に対してこの「自白」を長い間できないでいたことが、それを証明しているように思う。
 
なんとか自分は正しいと説明したい。その心理そのものを否定することはできないが、自分はどこか悪いことをした、という意識がありながら、それをひたすら否定する、あまつさえ嘘をつく、ということについてはどうだろう。時にそれを「欺瞞」と称するものであるが、近年この「欺瞞」という語が死語になっているように見える。それほどに、自己正当化が当たり前のようになってきているのだろう。
 
子どもも、怒られたくない、という気持ちは理解できる。が、この何十年か、あっけらかんと嘘をついてその場を凌ぐ子どもが非常に増えていて、時折、自分が悪いことをした、という意識を記憶から消し去っているように見えることもある。いまそれをしていたのを見られていながら、「していない」と言い張るのだ。
 
それほど「いい子」でありたいのか、認めたら叱られるのが嫌なのか、背景にある理由は私には分からない。自分がしたことには意味があるので、悪いことはしていない、という構え方もよく見られるものである。
 
理由があるならば、まずそれをしたことを認め、それから、そこには事情があるということを説明したらいい。だが、何か指摘すると、真っ先に返ってくる言葉は、「ちがいます」なのだ。何も違わない。したことはしたのだ。だが、「ちがいます」と言い、したことさえ否定しようとする。
 
これは、子どもたちがそのようによくない育ち方をしたのだろうか。私はそうは思わない。いまこれを読んでいる大人の方は、どう思われただろうか。問題はそこに潜んでいる。そうだ、近ごろの子どもは……と思っただけだったら、根はそこにある。適切な読み方は、これは大人がしていることだ、自分もそうだ、と捉えることである。そのように思われた方は、健全であると私は思う。
 
戦争に入ってしまうと、人間は正当性を自分でもつようになる。これが怖いと思う。
戦争の意義や大義名分をつくる。戦争で解決するのは愚かだ。
 
山口アナウンサーの言葉を、いまなら私たちは自戒して、間違った道を進まないように方向転換することができるだろう。この言葉は、戦争に入ってしまい、取り返しがつかなくなってから初めて痛感したところから生まれた言葉である。戦争に入ってしまわなくても、人間というものはそうなのだ。そのことに気づかねばならないし、気づいていない権力に同調してはならないのだ。



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