大谷選手は野球が好きなんだ。

2026年3月17日

野球の世界大会が開催されている。日本は強い方で、応援のし甲斐もあろうかと思ってたが、トーナメントで敗退してしまった。応援するチームが強いと、自分が強くなったような気がするので、愉快なものだが、にわかファンほど、敗れたときの攻撃が激しいのが常である。無責任な攻撃のために、命を絶ったスポーツ選手もかつていたことが思い起こされる。
 
以前教会に、アメリカからゲストで来た伝道者が、リップサービスでもあろうが、日本には世界一の野球選手がいる、と言って和やかな雰囲気をつくっていた。大谷翔平選手のことである。但し、他にも、世界の野球ファンを大いに感動させる選手が、何人もアメリカで活躍しており、頼もしい限りである。
 
特に大谷翔平選手については、その言動があれこれと報道され、注目されている。とても紳士的だという評判に始まり、殆ど聖人扱いされているかのように、発展してきているようにも見える。
 
その数々の伝説を、ここで具体的に記すことは控えよう。多くの報道で、知られているものという前提で、以下続けることにする。
 
如何にも紳士的な態度や、トラブルがあっても敵を攻撃しない姿勢など、アメリカで常識とされていたスポーツの形に楔を打ち込むような大谷選手の言動に対して、アメリカ人も好意的に受け取っているようで、見ていて清々しい気持ちになることがある。
 
自分に危険球を投げた相手投手に対して、味方ベンチが殺気立ったのに対して、大丈夫だと制してゲームの流れを止めるのを防ぐこともあった。敵チームの素晴らしいプレーに拍手を送るなど、普通ならばチームの裏切りにも見えるようなことも、彼なら許された。今回のWBCでも、敗れたチームの方に向かって、試合終了後わざわざ一礼するシーンも目撃されている。
 
表向きのそこだけ見ていると、大谷選手がたいへん立派に見えてくることもあるし、私も以前はそういうふうに見ていたように思う。だが、繰り返しそうした賞賛が続けられることに、何かこれは違うような気がしてくるようになった。彼が立派なことをしている、というわけではないのだ、と。
 
ふと、気づかされた。大谷翔平選手は、要するに、野球が好きなのだ。野球を愛している、ただそれだけなのではないか、と思えてならないのである。
 
野球が好きだから、一つのプレーで乱闘騒ぎなど起こしてほしくないし、敵味方を問わず、素晴らしいプレーを喜ぶ。よい試合を共につくりあげた相手チームに敬意を表する。その他、これまで報道されたいろいろな言動も、たぶんこの路線で説明できるのではないかと思うのだ。
 
とても好きだから。とても愛しているから。だからそれが汚されるようなことは御免だし、気持ちの良い形で互いにそれをつくりあげたい。とにかくそれをしているのが、そこにいるのが楽しくて仕方がないから、よい作品をつくりたい。よい場を経験したい。
 
殊更に、善いことをしなくては、という意識がないところでも、ただそれを愛するのであれば、自ずから思うことやすることが、善いふうに向かってゆくものである。愛するから、大切にしたい。そこが皆にとって笑顔になれる場であってほしいし、そういう場を共に生きたいではないか。
 
このとき、愛することが難しい、と考える人もいるだろう。実際、愛するとは意志だという人がいる。好きになれないものを愛するのが新約聖書でいう「アガペー」だと言って、ひとは自分の感情で好き嫌いをもつにしても、感情を超えて意志を以て、愛するようなするべきだ、という説教も時折聞くように思う。
 
しかし、いわば嫌々ながら愛さねばならない、と肩に力を入れて踏ん張っていることが、そんなに必要なことなのだろうか。どうにも教会が好きになれない。どうにもあの牧師は好きになれない。だがそれはキリストの愛にしてみれば、こちらが悪いのだ。愛するぞ、という意志を以て仕えてゆくのがキリスト者だ。そういうものなのだろうか。それは、しばしば誤った方向に導くものではないか、と私は考えている。
 
もちろん、こちらが悪いことを自覚できず、あるいは認めたくないばかりに、あの牧師は嫌いだ、と吐き捨てるのは論外である。あの牧師には人間的にこれこれの欠点があるからダメだ、と切捨てるのも、そもそも罪のない人間や、欠点のない人間はいないのだから、少々自分勝手なわがままだということになりかねない。
 
互いに愛し合いなさい、というキリストの教えは、互いに赦し合いなさい、ということとほぼ等しいものであろう。それは、意志的に赦せ、という場面を否むというわけではないとは思う。だが、信仰という核心で、どうしても受け容れられないような牧師や教会に、腸がちぎれそうになるほど忍耐して、自分の信仰を曲げてまで意志的に従わねばならない、というテーゼは、完全に間違っている。
 
信仰が与えられ、世界がまるで違って見えた。そういう経験を、キリスト者ならばお持ちだろうと思う。新婚時代がいつか倦怠期を迎える、ということがあるように、信仰の喜びが、停滞してしまい、ときに嫌悪にすら向かうということも、あるかもしれない。また、親に導かれて教会生活をしてきた子どもが、大人になってそういう自分が押しつけられたと感じ始め、キリスト教の不合理性をやたらと取り上げて攻撃する、ということもよくあることである。日本国憲法ですら、そういう心理を呼んでいるくらいだから、宗教に於いては、自分の意志で信じたのではないという悔しさが、そう思わせることもきっとあるだろう。
 
だが、そこでこそ、自分と神とのつながりということに、一度戸を閉めて向き合ったらよいのだ。そして、不合理性を数え上げて自分が正しい、という方向に走らずに、自分と神との関係だけに目を注いで、神の言葉を聴くようにしたらどうだろう。
 
案外、素朴な感情というものは、よいものなのかもしれない。好きな方がよいのだ。打算で結婚しても、好きにならずにいたら辛いのではないか。好きだからこそ、楽しいと思えるし、喜びも得られる。教会も、好きだからこそ、奉仕も楽しい。苦行をすることでカミに愛されるというような間違った教えが広まったことがあったかもしれないが、そういうのはもう過去に置き去りにしようではないか。
 
しかし、理想の相手をいつまでも求めて、結婚相手が見つからない、というふうにもなりたくない。愛し合うためには、自分も愛される存在となることが含まれるのだとすると、自分にも磨きをかけることも考えてよい。自分と神との関係を、根柢的な部分で大切にしなくてはなるまい。その上で、愛する教会を、求めるならば、きっと与えられるであろう。
 
『野球しようぜ!大谷翔平ものがたり』という本まである。そう言って大谷翔平選手は子どもたちにグラブを贈った。ただただ野球を愛する男が、自分の夢を叶えたという出来事を私は見ているが、他の何ものにも増して、野球が好きであることを基盤に、笑顔でいられるのを見ると、私たちの幸せの秘訣を、そこからもっと学んでよいのではないか、という気がしてならないのである。
 
どうでもよいことだが、聖書の中で「好き」と訳されているところを探してみると、面白いことが分かった。聖書の日本語訳の「好き」という言葉は、殆どすべて、否定的な意味でしか使われていないのだ。聖書は「愛する」ことは薦めるが、「好き」という言葉は否んでいるようである。これは日本語訳の問題なのであろうか。



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