恵み、波のように

2026年3月16日

幼稚園の子どもたちも、この礼拝に加わっている。ふだんなら、教会学校という別プログラムの礼拝に参加するが、今日は特別だ。
 
そうした「合同」の礼拝を企画する教会が増えている。教会は、老若男女ひとつとなって共に神を礼拝するのが、やはりポリシーだと言える。だが子どもには子どもに見合った形で福音が伝えられるのがいい、という考え方も当然あっていい。ふだんはそういう形であっても、でもやはり、どこかで教会はひとつ、という姿の礼拝があるといいものだ。
 
まず、礼拝のために献げられた信徒の方の祈りにうるうるしてしまった。子どもに届く言葉を使う。大人の手前、なにか気取ったことを言わなければならない、という意識に操られている自分に気づかされて恥ずかしくなった。もちろん、祈りは人に聞かせるためのものではない。神との対話である。だが、教会の祈りは、心を合わせて共に祈るものである。共通する言葉で、ひとつの心になれるのならば、易しい言葉を使うのは、当然であるかもしれない。
 
それに、私たちはイエスに言われている。「アバ父よ」と祈るのだ、と。何の気負いもない、打ち解けた響きの、肉親に幼い子どもが呼びかけるような言葉だ。
 
そして説教者もまた、できる限り分かりやすい言葉で語る。声もやや高い。速さも落として、繰り返しも随時入れる。「ザザーン、ザザーン」、波の音が幾度も口にされる。子どもたちならずとも、打ち寄せる波がいま目の前に現れて、音が聞こえてくる。飛沫すら浴びている感覚にもなる。

呼びかけるような言い方も交えるが、決してお子さま用のメッセージだとは思えない。大人の心にも、それは響く。否、どこかで忘れかけていたような、隠してしまっていたような、まっすぐな信仰が呼び覚まされるような気がするのだった。
 
子どもたちがメインの礼拝である。説教時間も短い。ふだんの半分以下である。聖書朗読の時間も、冗長にしたくないという配慮であろう。開かれた聖書箇所も、新約聖書から1節、旧約聖書から2節だけであった。
 
私たちは皆、この方の満ち溢れる豊かさの中から、恵みの上にさらに恵みを与えられた。(ヨハネ1:16)
 
説教者は、「恵みの上にさらに恵みを」という箇所を、ゆっくりと告げ、それを繰り返した。ゆっくり、そしてまたゆっくり。このとき、その言葉は、単に音を抽象的に出して、意味を概念的理解をさせるようには働かなかった。音そのものが、その意味を伝えた。「恵み」という語のところで抑揚をつけると、言葉そのものが波打つように感じるのだ。
 
会堂には、言葉の波が、春の海のようにゆたりゆたりと向かってきた。陸の私たちに向けて、言葉と音が寄せては引き、引いては寄せを繰り返す。説教者は、そのことも、子どもたちのために説明した。波のように、神さまの恵みは終わりがないのです。
 
引用は、ヨハネ伝からはこの1節だけだった。だが、説教者はなかなかの企画者だった。このヨハネ伝のお話を、幾つも織り込んできたのだ。それは、「いろいろな人が出てきます」というきっかけによるものだった。
 
ワインがなくなって困ったら、イエスさまが水をワインに変えました。人に出会いたくなかったサマリアの女のひとが、イエスさまとお話をしました。ニコデモ似ついては、それがお年寄りだという印象を与えた上で、もう一度生まれることができることをイエスが教えたように伝えた。マリアとマルタの名を出しながら、その弟のラザロが死んでしまったけれども、生き返らせたということも。
 
そうして、イエスを見棄ててしまった弟子たちをも赦し、愛したイエスのこと。信じる者になりなさい、と言ったのだ。
 
ヨハネ伝に出てくるどの人もどの人も、皆、恵みの上に恵みを受けたのである。子どもたちに「恵み」という言葉の重みや深みがどのように伝わったか、それは問題ではない。先ほどの波のイメージを再現した上で、波がいつまでも止まないように、いろいろな人に注がれた恵みは、いまここにいる私たちにも注がれて居るのだ、という驚くべき事実を伝えたのである。全く見事な展開である。
 
そして、今度は私たちの番ですよ、と子どもたちに語りかける。さあ、私たちの手には、何か握りしめてあるだろうか。むしろ空にすればいい。自分から何かを握りしめるのではなくて、手を空けていれば、神はそこに恵みを注いでくださるのだ。
 
旧約聖書は、哀歌の3章が開かれていた。
 
22:主の慈しみは絶えることがない。/その憐れみは尽きることがない。
23:それは朝ごとに新しい。/あなたの真実は尽きることがない。
 
「慈しみ」と「憐れみ」とは、正に先程から繰り返されて告げられている「恵み」の言い換えである。恵みは終わることがないのである。恵みは尽きてしまうことがないのである。そして、毎朝、新しくそれは注がれてくる。ニコデモに新しく生まれ変わることができる、と語ったそのままに、神の恵みは朝ごとに私たちに渡される。
 
今日という日は、それほどに新しい日なのである。説教者はここでまた、引いた波が「ザザーン」と来ていると波のイメージを表した。子どもたちは絵本で、同じ言葉を繰り返し語られることの重要性を知っている。何度も同じことが繰り返されることが、絵本の面白さの一つであり、それがいつも心に残る。この「ザザーン」という波、あるいは「恵み」が波のように繰り返されるこの音は、子どもたちの心にきっと響いていたことだろう。そして、心に留まったことだろう。
 
説教者はここで突然、今週幼稚園を卒園する園児たちに向けて、卒園試験をすると言った。講壇の上から、礼拝説教中に試験は行われた。こうして会堂は試験会場に変貌した。緊張が走る。そして、大人も間違える問題であると注意を予め告げる。
 
「よい子とわるい子、神さまはどちらを愛しているでしょうか?」
 
子どもたちは声を揃えて答える。説教者はその後も、何でも食べる子と好き嫌いのある子だとか何とか、対照的な二つのタイプの子どもを並べて、「神さまはどちらを愛しているでしょうか」と尋ね続ける。三度ペトロに問うたどころではなかったが、子どもたちはその都度、同じ返事を異口同音に答える。
 
子どもたちは全員、口頭試問に合格した。そう、すべての質問に、こう答えたのだ。「どっちも」と。
 
世界から報じられる戦争の知らせ。そこにも子どもたちがいる。実際、子どもたちが狙われ、あるいは命を落としている。教会は、ここにいる明るい子どもたちの顔が、今後も失われないことを、強く祈るのだった。
 
そのとき私の胸には、「平和、川のように」という賛美歌が浮かんでいた。恐らくアメリカの黒人奴隷の中から生まれたのではないか、とされている。信仰することで、すでにそこは神の国であることを、忘れないでいたいと思う。そしてできれば、私たち大人が、子どもたちの時代を、恵みと平和の世界へと造らなければならないのだ。



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