【メッセージ】一粒の麦

2026年3月15日

(ヨハネ12:12-36, 箴言28:13)

よくよく言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。(ヨハネ12:24)
 
◆ジッド
 
アンドレ・ジッド。あるいはジイドとも表記される作家。かつては青春期の必読書だった作家も、もはやいまの若者は振り向くことがないかもしれません。カトリック信仰が貫かれた、自己に厳しい禁欲的な愛の姿勢が流行るような世相ではなくなりました。
 
よくよく言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。(ヨハネ12:24)
 
今日はこの句を中心に置いて、神の言葉を受け容れたいと願います。この言葉は、聖書の中でも良く知られた言葉でしょう。尤も、教会の外でどれほど知られているか分かりませんが、アンドレ・ジッドの『一粒の麦もし死なずば』(1921年)という文語的なタイトルの作品の名くらいは、聞いたことがあってほしいと思います。
 
読書は、架空の世界に私たちを連れて行きます。決して現実には体験できないようなことを、そこで疑似経験することによって、私たちの人生はきっと豊かになるでしょう。そうした営みが絶滅しかかっているのだとすれば、それは想像力の滅亡へと突き進むことになりかねません。他人に興味をもたなくなり、他人の心を配慮しなくなった悲しさが、街に溢れているように見えて仕方がありません。
 
ジッドの『一粒の麦もし死なずば』は、自伝の形をとっています。否、むしろ自己の罪を暴露するようなもので、懺悔と言ってよいかどうかも迷います。この告白は、自らに死刑を執行したようなものても言えるでしょう。しかしそこから、新しい命に生きることになったのには違いありません。
 
ただ、ちょっと気になることがあります。蒔かれた種としてのこの麦は、果たして「死んだ」のでしょうか。植物の種は、命を宿しているとは考えられても、それが死んだ、というふうには、現代人は考えないのではないでしょうか。でも、昔の人は、新しく芽生えた命のために、古い種が「死んだ」と見なしていたのかもしれません。そう理解することで、聖書の伝えたいことが、この種の比喩で際立つことになりました。キリストが死んで、復活した、という証言に沿うのです。このことについては、もう少し先でまた触れます。
 
それで、キリスト教会でも、この言葉は愛されています。誰かが何らかの犠牲になって亡くなったときに、その後よいことが起こってゆく様を見て、一粒の麦が実を結んだ、という点に擬えるのです。
 
◆ホサナ
 
確かに、この一粒の麦の話が出てくるのは、イエスが自身のことを、それも数日の内に十字架に架けらてゆく場面で、述べている場面です。この章の初めで、罪深い女マリアが、イエスに高価なナルドの香油を注ぎ、自分の髪でその脚を拭います。イエスはそのことを、「わたしの葬りの日のために」(12:7)したのだと言いました。
 
また、この章には「イエスが死者の中からよみがえらせたラザロ」(12:1,9)について、幾度も幾度も言及されています。「イエスがラザロを墓から呼び出して、死者の中からよみがえらせたとき一緒にいた群衆」とまで、余計な説明を加えるほどです。それは、イエスの死と復活を背後に秘めている場面だから、というよりほか、説明の仕様がありません。
 
この場面は、過越の祭でした。イエスの最期が迫っています。間もなくイエスは逮捕され、不当な裁判を受け、十字架に架けられます。その展開に対して、少し腰を据えて見つめることにしましょう。
 
まずは、この祭りに際して、イエスは大勢の群衆により歓迎されます。人々はなつめやしの葉を手に出迎え、叫び続けます。「ホサナ。/主の名によって来られる方に、祝福があるようにイスラエルの王に。」
 
「ホサナ」という言葉が意味するものは、「いますぐ主よ救い給え」というようなことだと言われていますが、日本人の感覚からすれば、「万歳」がちょうどよいかもしれません。イエスは子ろばに乗っていました。他の福音書では、その子ろばを入手するための手続きが記述されていましたが、ヨハネはそうした点には興味がないようです。ただ、旧約聖書ゼカリヤ書の預言であることは、福音書記者ヨハネも必要と見て引用しています。引用の際によくコメントを入れるヨハネですが、ここでも、弟子たちは後にこのことの意味を知るのである、というように説明しています。
 
子ろばに乗って、エルサレムに入城するイエスを、群衆は大歓迎します。何故でしょう。やはり何度も言っていた、ラザロの件がありました。最近起きた大きな奇蹟が評判となり、互いに、あの奇蹟のイエスだ、と噂して、盛り上がっていたのだと思います。
 
けれども民衆の人気沸騰は、ファリサイ派の人々には面白くありません。
 
19:そこで、ファリサイ派の人々は互いに言った。「見ろ、何をしても無駄だ。世をあげてあの男に付いて行ったではないか。」
 
イエスの命を狙ってさえいたのは、妬みの故であったのかもしれませんが、ユダヤのこれからに不安を覚えたからではないか、という気がします。何かしら世情に、熱狂的に怪しい雰囲気をもたらす存在は、気味が悪い。そうではありませんか。
 
◆ギリシア人
 
20:さて、祭りのとき礼拝するためにエルサレムに上って来た人々の中に、何人かのギリシア人がいた。
 
記者ヨハネは、話題を切り換えます。場面が変わります。ここに「ギリシア人」がいたことが明らかにされます。しかも、「礼拝する」ギリシア人です。これを、ギリシア語を話すユダヤ人のことではないか、と考える研究者もいます。が、基本的にこれは文字通り「ギリシア人」だとしておきましょう。ユダヤに於いても、ギリシア語の影響は大きく、現に新約聖書はギリシア語で書かれているわけです。また、ユダヤ人が読んでいた旧約聖書ですら、ギリシア語訳が中心だったことは、新約聖書への旧約の引用がその訳に基づくものであることが多いことからも、明らかです。
 
21:この人たちが、ガリラヤのベトサイダ出身のフィリポのもとに来て、「お願いです。イエスにお目にかかりたいのです」と頼んだ。
 
フィリポに伝手があったのでしょう。さらに、「フィリポは行ってアンデレに話し、アンデレとフィリポは行って」、やっとイエスの耳にこの件が達します。そして、イエスが対応して大切なメッセージを告げるのです。
 
23:イエスはお答えになった。「人の子が栄光を受ける時が来た。
 
さて、イエスは誰にお答えになったのでしょうか。性急に読むと、アンデレとフィリポだけに答えたかのようにしか見えません。そうなると、ギリシア人は何のためにここに登場したのでしょうか。どうにも不自然です。そう解する神学者もいるようですが、ここは記者ヨハネが、当然そこは分かってくれますよね、という気持ちで、やや舌足らずに書いているように思えてなりません。
 
つまり、イエスは、イエスに会いたかった異邦人、ギリシア人にも、この大事なメッセージを告げているに違いないのです。
 
23:イエスはお答えになった。「人の子が栄光を受ける時が来た。
24:よくよく言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。
25:自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む者は、それを保って永遠の命に至る。
26:私に仕えようとする者は、私に従って来なさい。そうすれば、私のいる所に、私に仕える者もいることになる。私に仕える者がいれば、父はその人を大切にしてくださる。」
 
この意味を説く必要は、殆どないと私は考えています。苟もクリスチャンであるならば、説明をする方が失礼です。しかし、いま聖書のことをよくご存じない人も、聞いてくださっているものとなると、素通りするわけにはゆきません。
 
イエスは、これから十字架に架けられ、死を遂げます。しかし復活します。しかも死ぬことを経たために、永遠の命が、信じる者にもたらされる道を拓くことになるのです。そのためにも、イエスに従うようにしましょう。イエスに仕え、イエスに従え。神はその者を蔑ろにはなさらない。つまり救いを与えるのです。
 
◆一粒の麦
 
信じる者は、ただ「はい」とだけ応答すればよいでしょう。「従って来なさい」というイエスの命令に対して、「はい」と言えばよいのです。それは、「光のあるうちに」です。信仰は、信じたと思えたとき、すぐにもう信仰が始まります。そのときすぐに、イエスに従います、と告白するとよいのです。
 
ところで、いま一度、今日のキーセンテンスに目を戻しましょう。それはまず、このフレーズで始まります。
 
24:よくよく言っておく。
 
「よくよく言っておく」というのは、ヨハネ伝には幾度か出てくるのですが、「アーメン、アーメン、この私があなた方に言うのだ」という調子の、最高度に重要性を伝える決まり文句です。「よくよく言っておく」という程度の響きではありません。実に重厚な、念を押した激しい言葉なのです。
 
24:一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。
 
この麦は、イエスのことを直接的に言っているはずでした。けれども、キリスト教を信じた人々はその後、これをただイエスだけに制限するようには考えませんでした。実際、「一粒」という言葉は、ただ一人である点を強調しているようにも聞こえますが、ここでは「麦というものは」と訳したとしても誤訳にはならないような表現がとられているのです。
 
いえ、これはむしろそう訳さないと、意味をなさない、とさえ言えます。つまり、死ぬのは一粒の麦ではなくて、親世代の生育した麦のことを指していると思われるからです。つまり、麦の実りがもたらされるためには、親の麦が実を結び、自らは枯れて死んでしまう。ただ、その枯れ死があった故に、実と種ができて、そこからまた百倍にも増えようかという営みが始まるのだ。そういうことを言っているのならば、とても自然に理解できるのではないでしょうか。
 
キリストに出会い、キリストにより新しい命を受けた人々の中には、つまりキリスト教の歴史の中では、こうした「麦」を、自分のこととして受け止めた人がたくさん現れました。自分は何かしら犠牲となり、何かしら無駄死にしたかのように見えるかもしれないが、しかしきっとここから新しい何かが始まる。誰かが受け継ぎ、世に光が照らされてゆくと信じたい。そのような祈りと共に、独りで苦労を背負い込むかのように、苦しみに耐えて神の示された善き業を実行し続けた偉人たちです。それは例示するときりがないほどに、たくさんのキリスト者の生き方となっていたのです。
 
◆松原和人牧師
 
この「一粒の麦」という生き方、あるいは死に方が、信仰のエッセンスである、と強調する教会も、ありました。その群れを導いた牧師は、松原和人といいます。1905年に生まれ、1966年に召された、熱血の伝道者です。
 
説教集として『一粒の麦もししなば』という、薄い1冊くらいしか、出回っている資料はありません。そこには、自身の生い立ちと神との出会いの証しがまず述べられ、説教と言いながらも、ふだん語っていたことの断片のようなものが、簡潔にまとめられています。
 
ホーリネス系の学びをしたことのほかに、自らの強い罪意識と聖霊の体験があるため、信仰に対しては厳しい姿勢を貫いていました。信徒に対して厳しいというよりも、基本的に自分自身に対しての厳しさです。
 
ガラテヤ2:20にあるように、自分は十字架に死に、キリストが内に生きてくださる、という信仰、「自我の磔殺」を強調します。自分が自分であることの核心としての自我、それは十字架の上でキリストと共にもう死んでいる、と信じることです。
 
もしかするといまのクリスチャンたちにも、通じない可能性があるでしょう。こうした信仰の姿勢を「きよめ」と言いますが、そういう教えを毛嫌いする教団もあります。ただ、松原牧師の説教には、力があり、命があります。イエス・キリストに対して正面から向き合い、聖書を信じることに正に生きてゆこうとするのです。
 
背きを隠す者が栄えることはなく
告白して罪から離れる者は憐れみを受ける。(箴言28:13)
 
そのためには罪の徹底的な告白を求め、その後にこそ絶大な救いの喜びが与えられることを、松原和人牧師は説きます。自らを主に献げ委ねること、そのために自らの罪に絶望し投げ出すこと。そうして十字架に己れの死を知り、聖霊の確証が与えられる、と言うのです。
 
だからこそ、「一粒の麦」が看板に掲げられます。自己に死ぬのです。そして、聖霊に生きるのです。――絵空事のように感じる人がいるかもしれません。神秘主義ではないか、それは危ない、そう批評する人がいるかもしれません。
 
この信仰に於いては、イエスの死と復活を「一粒の麦」から強調しますが、そこから恵みを受けるということは、自分もまた「一粒の麦」として死んで生きるのだ、という信仰でもありました。それは考えてみれば、パウロの信仰も同じではないでしょうか。イエスの死と復活は、確かに恵みです。けれども、自分もまた、自我に死に、イエスに従うという信仰と実生活を説く姿勢に対しては、敬意を払うことはあっても、生温い立場から文句を言う必要はないと思うのです。
 
◆倫理的な麦
 
このように罪の自分に死ぬ、という信仰は、ひとつにはとても個人的なものなのかもしれません。神と自分とが向き合う信仰の姿勢としては、極限的なものだとも言えます。他方、この世の中で、つまり社会的に、他者に対して「一粒の麦」となる、という理解の仕方もあろうかと思います。そうして歴史の中で、多くのキリスト者が、世のため人のために、身を粉にして働いてきました。いえ、その身を犠牲にして、人々に尽くしてきたのです。
 
そうした人の名を、ここでへたにリストアップすることはできないような気がします。どうしてあの人を挙げないのだ、と不満をもつ方が現れると思うからです。それはもう、数え上げることも不可能なほどで、アブラハムが見上げた空の星に比せられるのではないかとも思います。
 
キリストを見つめながら、自己を犠牲にして、他者のために命を費やした人々。しかしイエスの命に生かされていることでしょう。犠牲というのは、必ずしも肉体的な死だけを指すのではないと思われます。自己愛やこだわりを捨てて、困窮する人や社会のために献身したような人は、美談として語られるよりほかに、私たちの知らないところに無数にいるのではないかと思います。
 
もちろん、キリスト教信仰をもつ者だけがそうだ、と言うつもりはありません。ただここでは、キリストに従う生き方として、そのようなことをした人がたくさんいるのだ、という点だけをお伝えしています。その意味では、いま現在活動している伝道者や宣教師なども、そうした人々として見つめる必要があるでしょう。神に示されて、縁もゆかりもないような外国の貧困地区に出向く人がいます。戦場となる危険を知りながら、聖書を手に救いを届けようと行く人がいます。
 
ただここでは、どうしても一人だけは取り上げることにします。プロテスタント作家として知られる三浦綾子さんが永野信夫という名で小説にしたことで、広く知られるようになった、長野政雄さんのことです。北海道の塩狩峠で、客車が外れて暴走を始めたとき、乗っていた長野政雄さんが、なんとか止めようと努めたけれども制御が利かず、ついには自分の身を投じて車両を止めて亡くなったのです。
 
あくまで小説ではありますが、三浦綾子さんの『塩狩峠』は、作者も長野さんと同じ信仰をもつ立場から、大切なことを深く伝えてくれています。いまも毎年のように、読書感想文コンクールの入賞者の作品に、『塩狩峠』を読んだものがあるのも肯けます。
 
自分が死ぬことで、多くの実が結ばれる。実際に命を落とすことがすべてではないでしょうが、自分が犠牲になることで、新たな命や希望が生まれてゆく。それは、信仰という次元のことがもしよく分からないという場合でも、倫理的な観点から、人は理解できるのではないかと思います。
 
◆イエスの言葉
 
聖書は時折、ずいぶんと極端な、激しい教えを示すことがあります。
 
友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。(ヨハネ15:13)
 
イエスの言葉です。場面は、イエスが弟子たちを友と呼ぶようになるときですが、「互いに愛し合いなさい」ということが、最も言いたいことだと思われます。でも、これはやはり強烈に、イエス自身のことでもありました。
 
私は良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。(ヨハネ10:11)
 
何よりも、イエス自身が、一粒の麦であったことは間違いありません。人間が、「良い羊飼い」になろうとする必要はなかろうと思うのです。でも、そのように自覚する牧師や伝道師がいても、もちろんよいのです。また、「友のために自分の命を捨てる」人も、実際にいたし、いるのです。
 
捨て身で人類を救ったイエスの姿を、ただ感謝の眼差しだけで見つめるのではなく、自分もまたそのイエスに従いたい、というところにまで進む信仰も、確かにあるわけです。
 
でも私たちは――いえ、私は、としておきましょう。自分の命が可愛いものです。死にたくありません。臆病なのでしょう。危ない橋は渡りたくないものです。だめじゃないか。イエスに従うのだ、死んでも生きると聖書にあるのをおまえは信じないのか。残念ながら、このように他人に偉そうに言うことはできません。すべての人に殉教せよなどという宗教は、いまではカルトと呼ばれて危険視されます。
 
どの態度が正しいのか、どちらが間違っているのか。そんなことを決める必要はありません。片方が、もう片方を否定するようなことも、あってはなりません。聖書の言葉の意味はこれこれである、との断言には注意が必要です。客観的な意味を述べたつもりになっているとき、その言葉の命は、しばしば言った者自身の問題から離れてゆくからです。
 
私たちは、一人ひとり、聖書の言葉を、特にまたイエスの言葉を、いま自分が向き合う言葉として、聴くことが肝要です。誰それの人目を気にすることなく、自分が神から受けるのです。
 
あなたにとり、「一粒の麦」とは何でしたか。今日、新たに見えた景色はありますか。イエス・キリストという「一粒の麦」を見た人もいるでしょう。自分の中に、その「一粒の麦」があることに気づかされた人もいるでしょう。
 
最後にもう一度、そのイエスの言葉を聴くことに致しましょう。
 
23:イエスはお答えになった。「人の子が栄光を受ける時が来た。
24:よくよく言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。
25:自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む者は、それを保って永遠の命に至る。
26:私に仕えようとする者は、私に従って来なさい。そうすれば、私のいる所に、私に仕える者もいることになる。私に仕える者がいれば、父はその人を大切にしてくださる。」



沈黙の声にもどります       トップページにもどります