戦争
2026年3月13日

あまりしないことだが、紹介の価値があるかと思い、本の一部をお借りすることにする。『思考の用語辞典 生きた哲学のために』(中山元・ちくま学芸文庫)の一項目である。
「……だろうね」「……んだ」などのように、話し言葉でどんどん語られてゆくような哲学的な用語の本には、抵抗を覚える人がいるかもしれないが、慣れてくるとむしろ心地よい。この本は、いろいろな思想家がその概念をどのように捉えてきたかを軸に、思想の展開を紹介する。その中程に、「戦争」という語についての説明がなされている。
「戦争は国家と関係が深い」という指摘から、それは始まる。プラトンは専門家がリードする社会をソクラテスに語らせる。が、それはつつましい国家で満足するのか、と論敵は挑む。「奢侈や享楽の欲望をみたそうと」するものではないか。そこから戦争が発生する。「歴史的な国家の形成は、戦争の発生と同時的だっていうのがプラトンのシビアな認識だ」と言い、その根本的な原因は、「人間の肥大した欲望にある」と断ずる。
打って変わって20世紀フランスの人類学者クラストルは、「インディオの社会で戦争はほかの共同体と交流する手段」であるとするが、この視点をドゥルーズが引き継いだ。「戦争を国家とはちがう原理で考えようとする」のだ。さらに文芸批評家のジラールは、「戦争を、共同体のなかに蓄積された暴力のあらわれとみる」と言い、儀礼みたいなものと評する。
シモーヌ・ヴェーユもやはり「戦争は共同体のなかの暴力が姿を変えたもの」だと言っている。だがさらに畳みかける。「戦争の目的は、国内の自由を抑圧することだ」そうだ。「戦争は、国家への愛という美名のもとに、個人の自由や平等をもとめるたたかいを根こそぎにする手段」なのである。兵士たちは、「大量殺戮へと送り込まれる」だけなのである。だから、兵士たちが真に戦う相手は「国家機関」なのであるとヴェーユは言う。「われわれの保護者であると称しながら、われわれをその奴隷としているものが真の敵なのである」と。
カントやヘーゲルは、フランス革命に熱狂したが、そうした時代までの戦争観は、「君主の誇りをたもつ手段だった」のであって、「一種の道楽」ですらあった、と著者は説く。「ほとんどの国民は戦争の被害者にすぎなかった」とも。ヘーゲルの戦争論は、この変化を捉えた。しかし、「国民国家が成立したときに、戦争は国民の戦争になった」のだ。そして「いまの戦争は、全国民をまきこむ総力戦」である。
フーコーがこのことを、「ナショナリズムという鎖のもとで、国民はみずから望んで権力の支配に服する」ようになった。いまや国家は、「史上もっとも大量に国民を殺戮する国家でもある」。そこには、「人種差別主義」が隠れていることも、フーコーは指摘する。差別する「人種」を国内でえらび出し、殺戮することになるのだ。このことは、「清潔な国家」をもとめるファシズムや、「民族浄化」をもとめ戦争を説明することができる、と著者は結ぶ。
いま各地で火を噴いている戦争はどうだろう。まさかエプスタイン文書をたんにごまかすためだけになされているのではないだろうが、少なくともかつて人類が使っていた「戦争」という語と同じ次元で議論できる場面ではないであろう。無人機が飛び、地球が破滅する威力すら手許に有している者同士である。イスラエルの都合の好いように動いているという見識もあるし、もはやただイランだけでなく、中東諸国に火の粉が飛んでいる。
それは何を意味するか。北朝鮮も、イランに比して捉えることは不可能ではない。すると、韓国や日本は、いまの中東周辺国と同じ立場にいるのではないのか。クウェートやサウジアラビア、UAEなどへ攻撃が及んでいるのは、他人事ではないのではないか。石油価格が上がる、というくらいしか懸念されていないが、そういう認識は、「国家への愛という美名」へと一瞬にしてすり替わる可能性があることに対して、無防備ではないだろうか。
しかも、「国内の自由を抑圧する」ことを、私たち市民が、当然の正義だという意識で加わってゆくことになりはしないだろうか。百年頃前に、この国はそれをしたのである。