震災と若い人たち
2026年3月11日

東日本大震災から15年となった。メディアもいろいろな特集をするし、報道番組でも何かしら触れてくる。そのときだけ、という悪口を言うこともできようが、年に一度でも、刻み込むことはもちろん無意味ではない。
ただ、そのために取材をどのようにするか、ということには気を配って戴きたい。思い出したくない人もいれば、番組製作のためにただ聞き出そうとする意図をもつ取材もあるかもしれない。本来、この時期だけでなく、ずっと毎年事ある毎に現地を尋ねて、当地の方々と関係をつくる、というような取材である必要があるだろう。できれば恰も友だちであるかのように。
ここへ届く声、届かない声、届いたところで、私に何ができるというわけではない。だが、いつでもアンテナは張っておきたい。何か受信できるようにしておきたい。知ることによって、そこから動き始めることができるかもしれない。できないかもしれない。
大人が振り返る、というアングルが、どうしても多くなるだろう。あの日、あのとき、こうだった。ずっとそれが残っています……。
ところが、気のせいか、報道される中に、若い人たちもよく現れるようになったように感じる。たんに取材対象が拡がった、というように見ることもあるだろうが、私はそこに、大きな違いと意味を思うのだった。
大学を卒業する世代だと、震災のときが8歳ほどである。記憶も鮮明であると共に、その意味も理解しているのではないかと思われる。児童心理学についてはともかく、その子たちは、そこから成長する。たんに回顧するのではなく、その体験を軸に成長してきたのだ。振り返るというよりは、未来を見つめながらこの15年を過ごしてきた。ただ、強烈な体験が刻み込まれたというのは、大人が震災を体験したのとは、だいぶん違った意味をもつのではないかと思われる。
考えてみれば、阪神淡路大震災のときにもそうだった。「心の傷を癒すということ」は、安克昌さんの著書であると共に、NHKが丁寧なテレビドラマとしても描いた。避難所で、子どもたちが地震の真似事のような遊びをするのを、大人が窘める。しかし、精神医である著者は、子どもの心にとってそれが大切なものであることを指摘する。
安克昌さんを教えたのが中井久夫先生であったが、この二人によって、「トラウマ」という言葉が広く日本に定着した。ひとは心に、自分でも気づくことがないかもしれないような、傷を負うのである。また、中井先生はこのことを、『災害がほんとうに襲った時』という小冊子のような形でもレポートしたが、その背景には、『災害の襲うとき――カタストロフィの精神医学』(ビヴァリー・ラファエル)という、画期的な本があった。災害の研究として、その対策のために、新しい視点をもたらしたと言われる本である。それぞれ、読んで感銘を覚える本であると思う。
子どもたちの心には、もちろん後悔もあるかもしれないが、それよりも未来を見つめる眼差しがある。大人になったら、このようにしたい、このために働きたい、そのような思いを抱きながら学び、大きくなってきただろう。もちろん、震災当時に中高生だった人たちは、もっとはっきりと意志を以て、そのようにすでに社会で活躍している場合も多いと思われる。30歳前後の、若い、しかし社会で力を発揮するような世代が、何をしているのか、これから何をしようとしているのか、期待してしまう。
但し、何か社会貢献をせよ、などと言っているわけではない。良し悪しはともかくとして、かけがえのない経験をして成長してきた若い人たちが、一人ひとりそれぞれに、生きてくださればいいが、と願う。そのために何か力になることができるのだとすれば、そういう力になれたらと思う。せめて、いまはここで祈っている。