【メッセージ】罪とは何か

2026年3月8日

(詩編51:1-21, ルカ7:47-50)

神よ、私を憐れんでください
あなたの慈しみによって。
深い憐れみによって
私の背きの罪を拭ってください。
過ちをことごとく洗い去り
私を罪から清めてください。(詩編51:3-4)
 
◆詩編51編
 
キリスト教の礼拝に於いては、普通「交読」というプログラムがあります。司会者と会衆とが、聖書のある箇所を、一区切りずつ交互に読み上げるのです。それは、神からの言葉と、それに対する人間の応答とを象徴している、とも考えられます。そもそも礼拝プログラムは、神からの言葉を人が受け、人がまた神に言葉を返すことの繰り返しからできている、とも言われます。交読は、それが短時間で繰り返される営みであるのでしょう。
 
『讃美歌』の本には、この「交読文」が含まれていることがありますし、別に「交読文」だけをまとめた本を用いる教会もあります。これは、司会者が読むところと、会衆が読むところとが色分けしてあるなど、見やすくなっています。そこで用いられる聖書の言葉は、詩編が多いのですが、十戒や愛の章など、聖書の中の印象的な箇所が集められています。
 
そしてある教会では、この「交読文」について、専ら「罪の告白」のために用いています。自然、選ばれる箇所は限られてきます。たとえば「詩編」には、詩が150載せられていますが、そのうち特に七つの詩編は、「悔い改めの詩編」と呼ばれています(6,32,38,51,102,130,143)。従って、「罪の告白」として読まれる場合には、多くはここから選ばれます。
 
その中でも、この51編は、よく用いられます。「罪」という問題が、実に大きく迫ってくるものだからです。これは、ダビデの具体的な罪に関するもので、旧約聖書の他の箇所に、この罪の経緯が事細かく記されていますから、他の抽象的な表現の詩とは異なり、実に生々しく、そのやったことがまざまざと目に浮かぶわけです。
 
これを交読する度に、私は胸が痛みます。自分がそれをしたかのようにすら思えますし、そもそも同様に罪に厳しい追及をされた者として、ハラハラしながら言葉にするしかないわけです。それともまた、毎度毎度礼拝で読んでいるうちに、すっかり慣れてしまい、何の感情も抱かず機械的に読んでしまう、ということがあるのでしょうか。皆さんに尋ねてみたい気がします。
 
私は、このささやかなメッセージの場で、これまでも、幾度か詩編51編を引いています。但し、それはこの詩の一部だけであって、全部を取り上げたことは、これまでありませんでした。今日は、この詩全部を受けることとします。
 
でも、一行毎に解釈してこの詩を鑑賞する、というような知識は私にはありませんし、とても鑑賞だなどという心持ちでは、この詩は扱えません。少し個人的な心情が混じることがあるかもしれませんが、それならそれで、ダビデの思いと自分の心とのつながりを感じてみたい、とも考えています。
 
◆ダビデ
 
1:指揮者によって。賛歌。ダビデの詩。
 
これはダビデの詩だといいます。イスラエルの憧れの王です。詩編の中には、ダビデの作とされるものが多々あります。音楽家でもあったダビデは、詩もたくさん書いたのです。ダビデは、イスラエルの英雄です。キリストは、そのダビデの末裔として現れると信じられています。逆に言えば、このダビデの血筋でなければ、それはメシアとして認められない、ということでした。
 
それほどに、ダビデは神から愛されたのです。その背景については、いまは説明を割愛します。イスラエル国を建国したのは、事実上ダビデと言ってよいでしょう。徳川家康ほどではなかったにせよ、王に就くまでに多少時間はかかりました。ですから国を整備し、神殿を建設したというには届かなかったものの、その息子ソロモンが引き継いで、イスラエルの最大の繁栄をもたらしました。
 
ダビデは、羊飼いの末っ子という、身分も立場も低い所から、才能と勇気でのしあがっていきました。秀吉とはまたタイプは違いますが、そういう意味でも人気があったのかもしれません。
 
ただ、何よりも大切なのは、ダビデが主を信頼したことです。ダビデは主なる神を拝することについては、揺らぎがありませんでした。イスラエルがこの主という神を信仰するようになったのは、ダビデの故だと言っても過言ではないと思います。
 
◆ダビデの罪
 
しかしダビデには、人間としての欠点がないわけではありませんでした。聖書は露骨に非難していないように見えるかもしれませんが、私から見て、父親として子育てに失敗しているように思います。甘やかしてしまい、厳しい教育をしていないのです。だからというわけではありませんが、旧約聖書の箴言には、父親は息子をも厳しく教育せよ、という精神が貫かれているように見えます。
 
幾つかの失敗がダビデにはありましたが、その内の最大の汚点とも言うべき事件が、今日の詩に描かれているものです。クリスチャンには有名ですが、ざっと粗筋をご紹介します。
 
ダビデ王は年齢を重ね、戦陣の最前線へ行くことを周囲から止められました。王宮で時間を持て余しているとき、そこから水浴をする女性を見かけ、その女を呼び出します。
 
女の名はバト・シェバといい、ヘト人ウリヤの妻でした。ウリヤは当の戦闘に出ていたのです。ダビデは王の立場を利用してか、バト・シェバと通じます。ところが、バト・シェバはそのときのことで妊娠したと分かり、ダビデはなんとかそれをごまかそうとします。そうだ、戦争に出ているウリヤを呼び戻し、妻と交わるようにすれば、その子はウリヤの子だということになるだろう。
 
ダビデは、戦場に使いを送り、戦況報告という名目で、ウリヤを呼び戻します。そしてご苦労であったと労い、家に帰るように促します。ところがウリヤは家には帰りません。訳を訊くと、仲間が戦っているというのに、自分だけ妻と安らぐことなどできない、と答えます。
 
困りあぐねたダビデは、ウリヤに一通の書簡をもたせて戦場に戻します。その手紙は将軍宛のもので、激戦の戦闘にウリヤを配置し、戦死させよというものでした。そしてその通りのことが起こります。
 
この詩は、それに伴い、「預言者ナタンがダビデのもとに来たとき」のものだとされています。ナタンは神の言葉を取り次ぐ預言者です。なにもかもお見通しでした。巧みにたとえ話を王に聞かせます。貧しい者から大切な財産を取り上げた男の話です。ダビデはそれが自分のことだとは気づかずに、そのような男は死罪だ、と叫ぶのですが、ナタンはすかさず、それはあなたのことだ、とダビデを指さします。
 
ようやくダビデは自覚します。ナタンが指摘するまで、ダビデは自分の罪に気づいていないのでした。――人間とは、そういうものです。自分のしていることが、分からないのです。「それはあなたです」(サムエル下12:7)と突きつけられたとき、ダビデは自分のやらかした恐ろしい罪に気づきました。そしてダビデはナタンの前に項垂れて、ナタンに対して言います。「私は主に罪を犯しました。」(12:13)
 
このときのことを表した詩編51編では、ダビデはこう言うのです。
 
3:神よ、私を憐れんでください/あなたの慈しみによって。/深い憐れみによって/私の背きの罪を拭ってください。
4:過ちをことごとく洗い去り/私を罪から清めてください。
 
◆神に対する罪
 
私は腹が立ちます。物語を綴ったサムエル記でも、そのときのことをダビデ自身がうたったという詩編に於いても、ダビデは、ウリヤに対しては何ひとつ詫びるような態度がないのです。それどころか、こんなふうにも述べています。
 
6:あなたに、ただあなたに私は罪を犯しました。/あなたの前に悪事を行いました。/あなたの言われることは正しく/あなたの裁きに誤りはありません。
 
9:ヒソプで私の罪を取り払ってください/私は清くなるでしょう。/私を洗ってください/私は雪よりも白くなるでしょう。
 
自分のことしか考えていないのです。
 
私はダビデを擁護するつもりはありません。しかし、この王は結局神に赦されます。ぐらついて落ちそうになった神の箱を押さえようとしたウザがその場で殺されたことを思い起こします。出エジプトに際して、モーセがなかなか戻らないときに、イスラエルの民に金の子牛の偶像をつくって乱痴気騒ぎを起こしたアロンは殺されず、後々祝福の基とさえなるのに、その子牛の周りで踊っていた民は皆殺しにされました。聖書の物語には、倫理的にも納得できないことが多々あります。だから、こんなダビデの有様にも、逆らわないでおくことにします。
 
けれども、自分が命じて殺したウリヤのことには全く言及せず、自分は神に対して罪を犯したのであり、その罪から私を清めてください、という祈りは、あまりにも自分勝手ではないでしょうか。逆に言えば、それほどに、「罪」というものは恐ろしいものだということになるかもしれません。
 
私たちは、高い所からダビデを非難しているのではありません。私たちも、同じです。あるいは、それ以上です。気づいていないのです。自分がどんなに罪を犯しているか。自分がなんと自分勝手であるのか。それなのに、他人に対して「罪」と言うことがあります。そして自分についても、「罪深い者です」と祈りの中で口にすることがあります。本当にそれは、自分の罪に打ちひしがれているのでしょうか。そう言っておけば敬虔であるかのように聞こえるから、人前で祈るファリサイ派の人のように、ポーズなのではないでしょうか。
 
自分のことについて言う「罪」という言葉が、なんと軽いことか。そうなると、ダビデが、「あなたに、ただあなたに私は罪を犯しました」と「あなたに」を繰り返しているのは、私たちの姿よりも、よほど神の前に悔い改めているものだ、と見ることもできるのではないでしょうか。ウリヤに対して冷たいのは確かですが、それだけ「罪」というものの恐怖を知っているとも言えるような気さえするのです。
 
神からの離反が「死」です。ダビデは、神から離れようとはしなかったのです。
 
◆罪と霊
 
9:ヒソプで私の罪を取り払ってください/私は清くなるでしょう。/私を洗ってください/私は雪よりも白くなるでしょう。
 
ちょっと自分本位にも見えるような、「私は清くなるでしょう」の言葉です。ヒソプとは、ハーブの一種です。ミントでも想像しておきましょう。これで洗うことで、私は清くなれる。雪よりも白くなれる。ダビデが何を思い描いているのか、それを決めることは私たちにはできませんが、キリスト者はこの言葉で、イエスの赦しを感じることができるだろうと思います。
 
ダビデは、イエスについては知りません。が、私たちは知っています。イエスの血が、私たちを雪よりも白くする。黙示録で、白い衣を着た者たちがイメージされていますが、これと関係しているようにも思えます。私たちもまた、イエスと出会い、その救いに与った者として、「私の内に新しく確かな霊」を受けました。それは「聖なる霊」です。ダビデの言葉は的を射ています。
 
15:私は背きの罪のある者にあなたの道を教えます。/罪人はあなたのもとに帰ります。
 
驚くことにこのダビデは、他の罪人のために「執り成し」をしようとしています。「あなたの道を教えます」とは、神の救いの力を伝えたいという願いなのでしょうが、私には、人が罪の中にあることをちゃんと知れ、というような、少々お節介なことのように聞こえなくもありません。ダビデ自身が罪を指摘されてようやく気づいたのと同じように、今度はダビデが、人間には罪があるのだ、ということを指摘する、という構図です。
 
勝手なように見えるかもしれませんが、自分が苦しむ経験をしたからこそ、そのことを人に伝えることができる、というのも真実でしょう。キリスト教会もまた、世に対して、人の「罪」ということを訴えなければなりません。それは、教会は清くていいところだが、この世は罪にまみれている、というようなものではありません。ときどき、そのように勘違いしている教会の伝道があるような気がしますが、断じてそのような気持ちで世に対してはなりません。その気持ちがあったために、これまでの歴史で、キリスト教会が数々の過ちを犯してきたのです。自らの「罪」に打ちひしがれたからこそ、痛みを以て、世の「罪」を示すのです。
 
それは、強制的な力を以てやるべきこととは違うでしょう。もっともっと、教会が、そして信徒が、自分と神との関係に目を向け、神とのつながりを第一とする眼差しが徹底していなければなりません。そこには「砕かれた霊」がなければならないのです。
 
19:神の求めるいけにえは砕かれた霊。/神よ、砕かれ悔いる心をあなたは侮りません。
 
この「砕かれた霊」を、私は主の前に差し出します。それは「いけにえ」です。罪に死んだ自身のことであるかもしれません。そうです。キリスト者とは、一度自分に死んだ者のことを謂います。神が自分を全面肯定して赦した、と勘違いするような教え方を語る人がいますが、気をつけなければなりません。神は罪の私を、死刑にして葬り去ったのです。ただ、その死刑を、イエス・キリストが実現したということなのです。
 
ダビデが口にした「背きの罪」は、私の許へも及んでいます。私にも、ダビデの罪があるのです。その自覚が、キリストの救いへの道隣るのです。
 
◆城壁の中で
 
悔い改めの詩としての最高峰が、この詩編51編でした。ここまで、痛々しい表現がありました。自分の罪を示された者として、自分のことだとしてこの詩を読み、苦しくなってくるほどでした。
 
交読文として、礼拝の中で司会者と会衆とが交互に読み上げるのも、心に突き刺さるものがずっと響き続けています。ただ、この詩の終わりが、少し雰囲気が変わるのです。

20:御旨によってシオンを恵み/エルサレムの城壁を築いてください。
21:その時あなたは義のいけにえを/完全に焼き尽くすいけにえを喜ばれます。/その時には/あなたの祭壇に雄牛が献げられるでしょう。
 
これが結びです。突然、「エルサレムの城壁を築いてください」と願います。そして、雄牛のいけにえを神が喜ぶと言って終わるのです。先ほど、「砕かれた霊」こそが「いけにえ」だと言ったその舌の根の乾かぬうちに。
 
交読文がこれで終わるのが、どうにも不自然でなりません。交読文では、司会者と会衆とが同時に重ねて読む部分が時々あります。強調したい大切な部分です。しばしばそれは、詩の最後のクライマックスであるのですが、この51編については、最後はそういう感じはなく、プツンと終わります。むしろ、その前のところで声を合わせるようになっています。
 
このラストは、何の意味があるのでしょう。いろいろなコメンタリーも苦労しているようです。雄牛はとても大切ないけにえだ、とも言いますが、ダビデで結局旧約の儀式の大切さで結んでいるのだ、というほかには、魅力的な解釈にはなかなか出会いません。キリストのことだ、と重ねて読む人もいますが、とりあえずダビデはそのつもりで書いているのではないと思われます。
 
詩人の関心は、エルサレムの城壁へと向かいます。城壁というのは、こうした土地では町を守るためのあたりまえの備えなので不思議はありません。敵を寄せ付けない城壁です。外の者を拒む壁です。いけにえは旧約の大切な儀式でしたが、城壁の中の神殿に於ける儀式でした。砕かれたダビデの心は、その城壁の中でこそ神に向き合います。外からの敵を、そのときには一切受け容れてはなりません。私の心は、他の何ものの侵入をも許してはなりません。強靱な壁を以て、神への献げ物を供えなければなりません。そこには強い覚悟があるように思います。
 
ダビデ本人は、現実のエルサレムの神殿建築が認められませんでした。その子ソロモンに託された務めでした。当時の罪の赦しは、いけにえを伴う儀式によるものでしたが、城壁というイメージによって、それが他の誰でもない、また誰とも関係しない、私だけの内で貴いものとして、献げられることを示したのではないか、というふうに私には思えました。
 
しかし、その城壁は将来バビロニア軍によって破壊されます。旧約の規定も、その後折角建て直した神殿も、崩壊します。しかし、頑なな心ならば、壊されて然るべきです。そこから、イエス・キリストの救いが実現していったのです。
 
最近、綿矢りさの『ひらいて』という小説を読みました。映画にもなったそうです。なかなかどぎついシーンがあるので広くはお薦めしませんが、実はこの物語には、聖書が絡んで来るのです。ストーリーをご紹介することはしませんけれども、印象的な表現だけをかいつまんでお伝えします。それぞれ、マタイ伝に触れた場面です。
 
「罪を犯しても悔い改めさえすれば全て許されると、神は聖書の中で言った。でもすべてを破壊しつくしたあとで、懺悔して悔い改めたところで、一度割れた人の心は元には戻らない。罪は罪のまま、罰せられもせずに、永遠に記憶の中に横たわり続ける」(p139)
 
自分のしたことを「罪」として悔やむ心がここにあります。
 
「私は神さまなんか信じない。存在しない存在にすがるなんて、みじめだとさえ終えもう。でも、信じられないのに、なにかを信じなければ、やっていけない。"なにも心配することはない。あなたは生きているだけで美しい"と丁寧に言い聞かせてくれる存在を渇望し、信じ切りたいと望んでいる」(p157)
 
急に信じることはできません。しかし、この「愛」という名前の主人公は、縋りたいという願いをもっています。そうして、最後に、「愛」は「ひらいて」という声を聞くのです。
 
頑なな心を、開くことができたら、「罪」の果てに、光がくるのかもしれません。
 
◆罪と赦し
 
私たちは、罪について、もっと語らなければなりません。今日は「罪について」などと大仰なタイトルをつけましたが、「罪について」定義をしようなどとは私は思いません。そんなことは私にはできません。
 
また、他人の罪を指摘して楽しそうに眺めることもできません。それは、しばしば世間で見られことかもしれませんが、そういうことが臆面もなくできるのは「世」だけです。他人の罪を指摘することそのものがいけないのではありません。それを自分とは関係がないものとする態度が、よろしくないのです。同時に自分が罪人である、ということを、私たちは一瞬たりとも忘れてはならないのです。
 
私たちは、「罪とは何か」について、実際よく分かっていません。規定できないだけでなく、その恐ろしさを知らない、ということです。「罪」というものを、研究対象として考察したり調査したりする気持ちには私にはできませんし、むしろそれは私をいまこのときにも襲っているものであるし、私に始終まとわりついているものです。
 
では「罪」のことを語ることは無意味なのでしょうか。そうではありません。その「罪」から派生したことについて、大切に胸に抱かなければならないことがあります。私たちが罪を赦された、ということです。
 
イエスの前に現れた女がいました。イエスの足元に来て、泣きながらイエスの足をその涙で濡らし始めました。そして自分の髪の毛でそれを拭い、その足に接吻して、高価な香油を塗りました。周りにいたファリサイ派の男などは、この女が「罪深い女」であると認識していました。預言者ともあろう人が、そんな汚れた人間に触れてよいものか、と誰もが常識に従って考えていました。
 
イエスはそこで、赦しについてのたとえ話をしました。そしてこの女の涙を見よ、と言いたげに、自分に対してしてくれたことを取り上げて告げました。
 
47:だから、言っておく。この人が多くの罪を赦されたことは、私に示した愛の大きさで分かる。赦されることの少ない者は、愛することも少ない。」
48:そして、イエスは女に、「あなたの罪は赦された」と言われた。
 
もし、ただ単に「罪」とは何か、ということを饒舌に喋るならば、私自身と罪とを切り離してしまうことになることに、気づかなければなりません。
 
重病に陥ったとき、「病とは何か」などと考えるゆとりはありません。どうしたら病から抜けられか、必死になるはずです。ただ、後にそれが治ったとき、初めて、病気とは何か、を思う気持ちにはなることができます。病気が去ったことで、健康をありがたいと喜ぶことにもなるでしょう。
 
罪とは何か。それは、それが赦されたときに、ようやく気づかされるものではないでしょうか。イエスによって罪の赦しを心底受けたときに、そしてそのことに感謝しかないことを痛感させられ、ただ主を見上げるしかないという喜びに満たされたとき、私たちは初めて、罪について、ようやく何かしら言及することができるようになる、と思うのです。
 
そのとき、イエスが何をしてくれたのか、もっと強く迫ってくることでしょう。もっとイエスを知りたい、そして従いたい。そう願いつつ、言葉を措くことにします。



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