戦前の体制へ引き寄せられる日本人
2026年3月5日

「悪意をもった人はほとんど登場しない。戦争へと向かった歴史を丁寧にたどると、そのことがよく分かる。多くの場合、人は誇りと正義感に支えられて行動している。だからこそ大切なのは、自分たちの立場や価値を絶対視することなく、一歩引いて状況を見つめ、客観的かつ相対化された視点で考える姿勢にある。」
引用は、『福音と世界』(新教出版社)の2026年3月号からである。特集は、「キリスト教と政治」であり、引用した論文は、森島豊氏による、「なぜ今、日本人は戦前の体制へ引き寄せられるのか?――ポピュリズムと「権利意識」の危うさ」の冒頭である。
この危機感をお感じになっただろうか。たいへん怖いことを指摘しているのである。私も同じようなことをいつも口にしているから感じるのだが、これは、私たち自身が加害者となることに対して、目を覚まして見張ることの必要性を考えさせている。
私たちが好む劇は、勧善懲悪ものである。正義の見方が主人公で、悪役ははっきりと分かる。子どもたちのためにも、悪の組織が醜い姿で現れ、子どもたちをいじめるが、正義の味方が助けに来てくれる、という構図が昔からあったが、大人もさして違わない。
この論文の題には、反発をする勢力もあるだろう。すぐにそんな「軍靴の音がする」というようなことを行って怯ませるが、国を武装して守ることをせず、敵にいいようにやられることを望むのか、といったふうに。それは「平和ぼけ」に違いない、そんなふぬけなことを言っておいて、一方的にやられたときに、どう責任をとるつもりか、と嘲笑うのである。
論者は、「ポピュリズムそのものは、形を変えて繰り返し現れるだろう」と言う。指摘するのは、「日本独自の人権理解が国策によって生成し、現在の政治動向に連続していること」である。それは歴史を検証する必要を求めている。「国体に基礎づけられた人権意識から、戦争へと向かわせる動きを支えたシステムと日本人の体質を明らかにする」というのが、その論考の役割である、と言っている。
論考の内容と行方については、ぜひ直にそれをお読み戴きたいと思う。私が変に代弁して、誤解を広めてはならないからである。ただ、結論に至る部分だけはいま少し辿ってみることをお許し戴きたい。
そこには、天皇をすら非難の矛先にして、天皇を相対化することまでして、国体思想を貫いたケースがある、という信じがたいような指摘があった。そこには、「国体思想と困民感情という二重の正義感に支えられた国民運動」へと発展するものがあったのである。
そうなると、もう歯止めが利かない。そして何かしらパンデミックや震災のような自然災害があるところで、「過激な行動を引き起こす構造がこの国の国民形成に潜んでいることを見落としてはならない」と警告する。そして、「この動きに疑問を抱けないキリスト者が存在する」との批判を以て結んでいる。
選挙で一人勝ちした与党の議員は、もはや首相への意見を言うことができなくなってゆく。前首相は、選挙で勝てなかった故に、与党内からも「叩き」が出たが、いまやそれをすると自分が党内で立つ場所がなくなる。その前首相と同じようなことをしても、いまや「叩き」など以ての外である。外交へ影響が出る発言にも、むしろ強い日本を主張できたように褒めさえする。宗教的な問題も、その宗教問題が理解できないせいもあるが、誰も追及することも指摘することもしない。そうしたことをたとえ野党が批判したとしても、もはや力なく弱い虫の音にも等しい。国民が選んだのだから、という点が金科玉条となって、一つひとつの問題を純粋に取り上げようとする声などかき消されてしまっている。
尤も、その首相の評判は、一部でかなり低評価となっている。その後の政策や答弁の姿勢について、稚拙さを立て続けに露呈させているからであり、前首相の評価はそれに比して高評価を与えられている。一部の人ではあるが、ちゃんと物事を見ているものだと感じる。
というわけで、問題は、その首相のことではない。ただ、憲法を思いのままに変えようという流れも、このままだと、誰も批判すらしないままになし崩しに動いてゆく可能性があるのは確かだ。つまり、誰も「悪意」をもたないままに、一部の言論が封殺され、大多数の「一歩引かない」で「絶対視する」声が、「数」となって流されて決定されてゆく可能性である。私たちはこの百年の歴史の中で、それを学ぶことはできなかったのだろうか。
反対意見を、なんてことを言うんだ、馬鹿ではないか、と圧することが、益々強くなってゆく。自分一人くらいの一票は意味がない、との錯覚によって、天秤を傾ける錘に自分がなっていることに、責任も覚えなくなってゆく。「これがあたりまえだ」と、自身は常に正義の味方になってゆく。
「この動きに疑問を抱けないキリスト者が存在する」と、論者は控えめに言っている。だが、存在する、という程度であるのかどうか、分からない。大多数である、と言うべきなのかもしれない。恐ろしいことに、疑問を抱くキリスト者が存在しない、ということにさえなりはしないか、とさえ憂慮すべきではないか。目を覚ましていよ、というキリストの言葉は、ひとつにはこういうことではないのだろうか。