どうしてもボンヘッファーが
2026年3月2日

マルコ伝の連続講解説教は、8章にかかった。すでに6章で、五千人に対して、わずかなパンと魚を分配するという奇蹟をイエスは見せている。このとき、パン屑と魚の残りは、12の籠に集められたという。いまこの8章でも、また同様にパンを分け与える奇蹟を見せた。マルコは二度も、似た記事を書いている。これらを便宜上「給食」と呼ぶことにする。
先の6章では、すぐに湖に出てその上を歩くという奇蹟も伴い、この記事は四福音書に共通しているものと思われる。今回は、この「給食」についてやや長い記録が載せられている。
「もう三日も私と一緒にいるのに、何も食べる物がない」との説明の前に、「群衆がかわいそうだ」とイエスは言っている。これは直訳的に言えば、「群衆の上に私は腹の底から痛みを覚え同情する」というような様子を表している。邦訳聖書では時折訳語を替える、例の「スプラーグニゾマイ」という動詞である。内臓が痛むとの表現である。
まるでデジャヴのように、弟子たちの反応は、またもやどうやって食べ物を与えられるのか、とイエスに返す。イエスは、これまたデジャヴであるが、「パンは幾つあるか」と問う。群衆を座らせ、分配した。人々は食べて満腹した。今回も魚付きである。残り物を集めると、前回は12籠であったが、今回は7籠であった。前回は五千人、今回は四千人という数が記されている。
説教者は、この6章の出来事と比較するだけでは終わらなかった。引き寄せたのは、4章である。
10:イエスが独りになられたとき、イエスの周りにいた人たちが、十二人と共に、たとえについて尋ねた。
11:そこで、イエスは言われた。「あなたがたには神の国の秘義が授けられているが、外の人々には、すべてがたとえで示される。
12:それは、/『彼らは見るには見るが、認めず/聞くには聞くが、悟らず/立ち帰って赦されることがない』ためである。」
弟子たちには、神の国が授けられているが、外の人々は、聞いても悟らない。この「悟る」は、この8章でも、17節と21節で、弟子たちに向けて「まだ……悟らないのか」とイエスが苛立つかのように発している。あるいはまた「理解する」という日本語でもよいかと思う。
また、このときに「外の人々」という言い方をイエスがしている。「外へ」という副詞としてはよく使われる語であるが、ここではそれが名詞化されて、人々を意味するようになっている。いったい、「外」とは何を謂うのだろう。「外」というのは、「内」に対比されて現れる概念である。「内」は、キリストの側にいる者である。弟子たちである。信徒も、であろうか。救われる者たちのことだろうか。あるいは、教会内の者たち、ということなのだろうか。どれも正しいようにも見えるが、私は何か引っかかる。自らを「内」にいるものとして振舞うことが、どんなに傲慢なことであるか、その恐ろしさを経験したことがあるからだ。
説教者はここで、次の場面の、ファリサイ派の人々に焦点を当てる。イエスは四千人にパンなどを与え、「弟子たちと共に舟に乗って、ダルマヌタの地方へ」行ったのだった。湖で、ガリラヤ湖のあちこちに足を伸ばしているようである。そこでファリサイ派の人々が現れる。どうやら悪意を有っているようである。
11:ファリサイ派の人々が来て、イエスを試そうとして、天からのしるしを求め、議論を仕掛けた。
12:イエスは、心の底から呻いて言われた。「なぜ、今の時代はしるしを求めるのか。よく言っておく。今の時代には、決してしるしは与えられない。」
「心の底から呻いて」というのは、「深く溜息をついて」というように訳す人もいるだろう。説教者は、「馬の嘶きのように」という解釈を教えてくれた。イエスは、ファリサイ派の傲慢な態度に嫌気が差したかのようであった。
ここで、荒れ野の誘惑のことを説教者はしばし語る。悪魔が、経済・宗教・権力の点での誘惑を次々と繰り出したことである。それはマルコ伝の与り知らぬことではあるが、説教者はこの悪魔の誘いと、イエスの拒絶とをかなり際立たせて語った。
そして、ファリサイ派の人々とは議論をせずに、舟でその場を去った。論議を逃げたようでもあるし、呆れて議論にもならないとスルーしたようでもある。だがこのとき、弟子たちはさらにまた、イエスを呆れさせる。「パンを持って来るのを忘れ、舟の中には一つのパンしか持ち合わせがなかった」ことでトラブっていたのである。
15:その時、イエスは、「ファリサイ派の人々のパン種とヘロデのパン種に十分気をつけなさい」と戒められた。
だのに弟子たちは、パンを持っていないことからどうやら離れられなかったようだ。そこでイエスは、「まだ、分からないのか。悟らないのか。心がかたくなになっているのか。目があっても見えないのか。耳があっても聞こえないのか。覚えていないのか」と攻撃を止めない。その勢いのままに、二つのパンの事件で、人々に分配してなおえ残った籠の数を弟子たちに尋ねたのだが、先の場合には12、今の場合には7という的確な数字を弟子たちは返す。それでまた、「まだ悟らないのか」と雷を落として、この場面が閉じられる。
そこで弟子たちはどうなったのか、マルコ伝は描いていない。何か気がついたのか、とイエスそれとも理解できないままなのか、福音書には書かれていない。どうなったかについては全く無関心であるかのように、記者は次の地での出来事を記すだけである。
説教者はここから、「ファリサイ派の人々のパン種とヘロデのパン種に十分気をつけなさい」という言葉に立ち止まった。分かった。ファリサイ派の人々は福音書でしばしば問題になる。だが、ここで同時に並べられた、「ヘロデのパン種」とは何であろう。これは疑問として取り上げて然るべき事柄である。そして、この場合の「ファリサイ派の人々」について、説教者は「クリスチャンの先入観」を省いた言い方で説明をした。つまり、イエスの敵としての悪口めいた言い方ではなくて、それが真面目な信仰者であり、実直な生き方をしていたのだ、ということを強調したのだ。そしてローマ帝国の支配に対しては快く思わず、ユダヤの文化伝統を重んじて、その律法を守ることに健気にも一途だった生き方にリスペクトしたのである。
しかしヘロデというのは、ローマに阿てその地位を得た、外国の地を引く者である。政治家としてはなかかの才覚をもつ者ではあるが、ローマ帝国のコバンザメのような権力者である。ファリサイ派の人々とヘロデとを並置する意味は何なのだろう。
今日の聖書箇所は、マルコ8章の最初から21章までが開かれていた。必ずしも解釈が分かりやすいとは言えず、説教者も正直に、よく分からないところがある旨を告げていた。だから、というわけではないだろうが、ここで説教者は急に、別の方向に話を導いた。
ファリサイ派とヘロデというのは、イエスをこの世から消したいという意図の方向性に於いて、近かった。それらが気づかない間に忍び込んでやがて膨らませてしまうのが、それぞれのパン種というものである。するとまた、教会にも、このパン種が忍び込んでくることがある。説教者は格別に目を覚まして見破らねばならない戒めとして、教会とパン種について指摘した。これは本当にそうで、「内」なる教会は安泰だ、そして、「外」は滅びなのだ、という傲慢な態度が根柢に染みついた教会が、かつてあったし、いまも、これからもあるものと懸念されるのである。
イエスを殺そうとする者たち――まさか、それだけの連想から、ボンヘッファーへと話をつないだのだろうか。映画「ボンヘッファー」が、昨年話題に上った。多くのキリスト教の牧師や力のある信徒が映画館に向かったらしい。説教者は、偶々行く機会を逸したという話だった。私も観ていない。劇場が限られていたためでもあったのと、一部、ボンヘッファー研究者の口から、少なくともあれはボンヘッファーという人物を忠実に描いたとは言えない、という声が発されていたためである。そこだけがボンヘッファーの信仰なのではない、という点を説教者も押さえた上で、その信仰は「イエスに従う」ということだった、と強調する。
賛否両論あるのは、芸術の常であるし、その点はそれでよいのだが、当然その映画について触れるということは、映画が華々しく宣伝していたように、「ヒトラーを暗殺しようとた牧師」というキャッチフレーズを外すことはできない。ヒトラーは何をしたのか。第一次世界大戦の賠償金による、悪い意味での物価の青天井と混乱の中で、経済を立て直した。しかし他方で、ユダヤ人を公職から追放し、教会からもユダヤ人を追放するようにした。否、それはヒトラー本人がしたのだろうか。教会が、ヒトラーの顔色を見ながら、すっかりその流れに身を任せたのではないだろうか。ドイツ・キリスト者運動は、完全にヒトラーの太鼓持ちとなった。他方、そうはならなかった告白教会は少数派であった。
日本でも、似たようなことが、太平洋戦争のときにあった。少数派のグループは、弾圧を受けた。多数派は国策に協力し、「日本基督教団号」と名付けた軍用機の献納まで喜んでやっている。
説教者は、政治的な意見を説教の場には設けない。適切な態度だと思う。そういうことを語らない訳を、きちんと弁明していた牧師も知っている。政治的な意見は個々人でいろいろあるだろうし、それを牧師が権威的に講壇で語ることは、意見を異とする信徒の考えを否定することにもなる。また、教会分裂の素因ともなる。そのような意味だった。
この説教者の口から、そうした理由めいたものは聞いたことがないと思う。もし私が説明するならば、神の言葉を語るという場が、神を礼拝するものである限り、人間的な思惑を一方的な立場で主張するようなことは、明らかに相応しくない、というようなものではないだろうか。もっと深く広い眼差しが説教者自身にはあるだろうから、これは私の狭い了見のもたらす声であることをお断りしておく。
しかし、「平和」を望むことを聖書の言葉として受け取ったとするならば、傷つけられる人の知らせに対して祈らなければならないものであろう。説教者は、前日に始まった大がかりな戦闘にも、胸を痛めていた。政治的な思惑や背景について、論ずることは、説教の場ではしない。どちらが正しいとかおかしいとか、そうした考えの欠片すら示さない。本当に、神の言葉に純粋に徹するということはどういうことか、これだけの騒ぎの中で教えられることしきりである。だがそれでも、説教者の心情を漏らした一言を、私は聞き逃してはいない。
子どもたちが爆撃で死んだという報道。これに対して説教者は言葉を漏らした。そういうことは、イエス・キリストの言葉を知る者のすることではない、と。福音派だろうが何だろうが、神の言葉を用いて人心を買う者が、することではないのだ。
こうした報道は、聞くだけで、苦しい気持ちになる。死者の数字しか残らない大量殺人が人の良心を麻痺させる。私たちは、想像力を以て、報道に対さなければならない。逃げ惑う人々、泣くしかない子どもたち、否、戦場となれば、敵に気づかれるとして、泣くことさえ許されなかった子どもたちが現実にいた。一瞬にして肉体がばらばらになる。大切にしていた生活環境が、廃墟となる。
そうした想像力が欠落することによって、戦闘で勝利したという知らせに万歳を繰り返し、提灯行列を喜んでいたような人々が、本当に過去にしか存在しない、と言えるのだろうか。戦意昂揚の病は、どんなパンデミックよりも恐ろしい感染力をもたらす。感染しない人に、力ずくで感染させるように、一人ひとりがウイルスになる。歴史を振り返れば、そういう事実を幾らでも知ることができるのであるが、それは遠い過去の出来事に過ぎないのだろうか。もうあんなことは、起こらないのだろうか。
これは想像なので、すべて私の中の出来事である。私は、説教者は強い憤りを秘めていたのではないか、と思う。激しい感情を有しており、この日本の「空気」を心配して仕方がないのではないか、と思う。
でも、淡々と語る説教には、微塵もそういうものを見せていない。だから繰り返すが、これは私のたんなる空想である。
イエスを殺そうとする勢力があった。そのことから、ヒトラーを殺そうとした牧師の映画を取り上げ、幾らか長い時間を説教の中に費やした。そのヒトラーは、ドイツ国民によって選ばれたし、支持された。後から振り返ればどうしてあんなに国民が熱狂したのか分からなくなるほどに、国を挙げてヒトラーを支持した。弱小政党だった国民社会主義ドイツ労働者党(ナチス党)は、ヒトラーが上に立って後、法を巧みに操り、あるいは改変することを通じて、あるいは「全権委任法」といった法を立てることによって、「合法的に」独裁を成り立たせ、推し進めたのだった。ついに、あの基本的人権を打ち立てたワイマール憲法の条項を停止させるようにもなったのである。
一旦人気を得た指導者が現れると、他の議員なども迂闊に逆らえなくなる。その指導者に何か問題点が現れようとしても、下手にそれを内輪が指摘すれば、自分の首が飛ぶ。だからおいそれと批判めいたものなど言えなくなる。人気を支える国民からもバッシングを受ける故に、誰もその自分本位な政治の進展に、逆らえなくなってゆくのである。
前総理が人気を失ってゆくきっかけになったことと殆ど同じことをしていたことが指摘されながらも、うやむやになろうとしていること。その敬愛する先輩が協力していた統一協会とのつながりも、もう誰も追及せず、もしかするとその解散への筋書きすらひっくり返るかもしれないような流れ。過去に猛烈に否定していたことをいまからやろうとしたくて、過去の発言を抹消したことが少し問題に挙りはしたが、立ち消えになったこと。まるでヒトラーが「緊急事態条項」を利用して民主主義を破壊したことを手本とするかのように、そうした条項をつくろうとしたり、戦争を行うことが可能になる道をつくろうとしたりしているような準備がなされているにも拘らず、それを懸念する声に、いまの世でもなお「非国民」という声さえ響いてくる昨今。そして、ユダヤ人ではなく、外国人を排除することが正義だという圧力を高め、またそれに同調する勢力が増えている現状。
誤解して戴きたくないので申し添えるが、この人物そのものをただよくないと言っているのではないことをご理解願う。こうした「空気」が、こうした「流れ」が、危ないことに目を留めてくださらないか、ということである。それはまた、私も、あなたも、その流れに棹さしてゆくことになるからである。
「給食」の問題の狭間にパン種のことが現れた。だがそれとの関連で必然性が薄いような、ボンヘッファーを重く取り上げた。確かに、イエスの従うことこそ重要だとまとめたが、その従うという話は、説教の中で着地する場所をもたなかった。ではどうしてボンヘッファーだったのか。ヒトラーのことに、触れなければならなかったからではないのか。
もしかすると、そういう思いを説教から抱いたのは、「私一人かもしれない。だから、これはただの私の妄想である、ということにしておくことにする。