召命についての私論
2026年3月1日

教会用語と言ってよいだろうか。「召される」とも言うが、これだと地上の命が終わって天国に行くようなふうにも聞こえるので、いま触れたい意味では「召命」という。「命」という文字は、漢字レベルでいうと、元々生命を表すものではなかった。むしろ「命令」の意味であり、しかも天がくだす命令である。天からの命ずる声に招かれる、というようなニュアンスがある言葉だろうか。
英語だと Calling 、ドイツ語だと Beruf ということだろう。どちらも、「呼ばれている」意味をもっている。だから、「召命」には、「呼ぶ」という表現が直接見当たらなくとも、わりとよい感覚であると言えるかもしれない。
基本的に、これは「牧師」のような職務をするように、神から呼ばれることを意味する。牧師などは、自分がなりたいからなる、そうした職業選択の自由の下になるような職務ではない、とキリスト教では考えているのである。
ある牧師が、召命について訊かれ、自分には堂々と語れるような召命がなかったけれども、あるとは答えた。そういう旨の投稿があった。すると、コメントが集まって来た。そうだ、よく言ってくれた、召命を強要するような圧力はけしからん、召命がなければ牧師はできない、などというのは横暴だ。概ねそうした方向で、元の投稿者の意図を越えて声がエスカレートしていった。
召命があると言った牧師が、後に犯罪者となったこともある、などとコメントした人がいた。召命を必要と考える人を批判した模様だが、これは明らかに論理的にも誤っている。東大を出た人の中に犯罪者がいたから、東大を出ることには意味がない。部分を全体と決める誤りである。
何かしら絵に描いたような召命である必要はない。だが、神の言葉を語る者は、神に「呼ばれる」ことを知っていなくてはならない。自分が神を選んだ、というあり方しか知らない人には、福音は語れない。イエスの側があなたがたを選んだ、という点について語ることができないからだ。ダビデにしろ、イザヤにしろ、新約の手紙にしろ、人間が自由に神を選んだ、という方向性は、聖書には全くない。召命とは、その方向性を否定する概念である。
確かに、ドラマチックな「召命」でなければだめだ、と人間が限定して決めてしまうのには、行き過ぎがあると思う。だから「召命」という言葉に対して、なにかしらヒロイックな召命物語をイメージする必要はない、としよう。だがまた、召命など必要ない、とするのも、感情的な極論であろう。
一切の「召命」が必要でないとしたら、それは職業牧師ではあっても、福音を語る牧師ではない。私は、そのような「牧師」の語る説教からは命が注がれるとは思えない。実際にそういうのを毎週聞かされるのは苦痛であるし、経験上、聞くに堪えない気持ちに苦しめられる。実際に京都に行ったことも暮らしたこともないのに、京都の本を読んだことの受け売りだけで、京都とはこういうところである、と毎週聞かさせる、京都住まいの人の気持ちを察してもらえれば、それに近いかもしれない。
それでも神の恵みがあって、当人が全く関与しないままに、当人を通じて聖霊が流れてくることはあるかもしれない、ということは否定しないが、私はそんな説教を聞き続けていたくはない。人間臭い思想と、聖書の知識だけを説明する講演は、少なくとも神の礼拝に値しないと考えるからだ。礼拝ごっこを形だけやりたい人は、それでもよいだろうが、そういうのは、律法学者やファリサイ派の人々という名で、イエスがたんまり非難しているのではないか、という気がしてならない。
そういえば、「献身」という言葉が、近年私の周りではちっとも聞かれなくなった。「召命」を受けてこその「献身」であるからだ。否、本当は、信徒一人ひとりが皆「献身者」であるのだ、と言う人もいる。そうだと思う。イエス・キリストに従うということは、献身するというように言うべきかもしれないし、そのようなすべての者が召命を受けた、という捉え方をしてよい、という言い方も可能だと思う。
だが、そもそも「献身」という言葉の意味も、知らない「牧師」さえいるのではないか、と危惧している。そのようなタイプの「牧師」が、礼拝という場で、命のない「説明」をしている例は、召命を受けた牧師が犯罪者となった例とは比べものにならないくらい、多い。そういうのを「冒涜」と呼んでは、いけないだろうか。