いまここにある永遠の命

2026年2月24日

正直に申し上げると、この日、我が家で稀有なイベントがあり、この礼拝説教を、ライブで受けることができなかった。後に動画配信がなされるはずだが、それがいつになるかはこちらには分からない。とにかくそれが知らされてから、レスポンスしようと考えていた。ウィークデーは、まとまった時間がとりにくいため、最悪一週間遅れになるかもしれない、と案じていた。が、月曜日の夕刻にその知らせが届いた。もちろんすぐにはそれに向き合えないが、こうして早く届けてくださったのだから、と喜んで時間を取ることにした。
 
マルコ伝の連続講解説教をいま続けているのは、主任牧師である。今日の説教者は、もう一人の説教者である。巧みに話を盛り込んでくるというよりは、一本道をひたすら駆け抜けるタイプで、聴く者は要所を外すことはまずあるまいと思われる。とてもシンプルなのである。
 
選ばれた聖書箇所は、基本的に、ヨハネの手紙第一5章の後半であった。それから、旧約聖書からは、申命記30章の最後のところである。そちらから先に引用しておこう。
 
19:私は今日、天と地をあなたがたに対する証人として呼び出し、命と死、祝福と呪いをあなたの前に置く。あなたは命を選びなさい。そうすれば、あなたもあなたの子孫も生きる。
20:あなたの神、主を愛し、その声を聞いて、主に付き従いなさい。主こそあなたの命であり、主があなたの父祖アブラハム、イサク、ヤコブに与えると誓われた土地であなたは長く生きることができる。
 
ちょっと胸が躍った。私は、読むためのメッセージを毎週お届けしているわけだが、今日のために設けたメッセージのための聖書箇所が、同じ申命記の30:15-20であったのだ。「命と死、祝福と呪いをあなたの前に置く」と言うわけだが、ではどちらを選ぼうか、と私たちが考える必要はない、としたのだ。
 
説教者もまたこの箇所を引いたのだが、私とは見るスタンスが少し異なっていた。説教の冒頭でもそうだったのだが、キリスト者は、キリスト者となる前であれ、なった後であれ、神の求めるものと逆であった、とするのである。
 
自分が救われていることを疑うことがある。信仰はこれでよいのか迷う。神は本当に共にいるのだろうか。ふとした瞬間に、こうした感情が遅うことがあるのではないか、と問うところから、説教は始まっていた。そしてまた、かの「命と死」との選択肢に於いて、「命」でない方を自分は選んできたのだ、という悩みがそこにあった。だから「命を選びなさい」と言われたところで、どうにもそれが選べない自分がここにいると見ている。
 
悲観的にも見えるが、それは、人間の側が神を選ぶような方向性を一蹴するためであった。説教者にとり、人が神を選ぶ、いう方向性自身、あり得ないものだったのだ。だからそもそも人間が選択をする、という場面そのものが成立していないのだ。私は、一人の自由を知る者が、一つを選ぶものとされているように見なした。だが、説教者の場合は、そもそも人が選ぶという次元を想定しないところに目を向けさせた。
 
要するに、選んだのは神の方であって、すべては恵みの中にある、という構造を示したのである。これを説教者は、「命の方が来た」という美しい表現で礼拝の中に言葉を響かせた。
 
それは、ずばり「永遠の命」のことである。ただ、その「永遠」という意味については、少しばかり確認しておかなければならないことがある。永遠に死なない、という意味にとるのは少し違う。死んだ後に神の国で永遠に生き続ける、というのも、ある意味で嘘ではないのだが、戯画的に見られると、私たちのとりやすいイメージとはぴったり重ならないように思える。
 
13:神の子の名を信じるあなたがたに、これらのことを書いたのは、あなたがたが永遠の命を持っていることを知ってほしいからです。
 
「永遠の命を持つであろう」とは言っていない。「永遠の命を持った」と言い、そのことを「知っている」というのだ。この「知る」という語を、説教者は繙く。「エイドー」という動詞で、プラトンの「イデア」につながることのできる語である。あるいは「エイドス」とくれば、特にアリストテレスが「形相」という概念のために用いていた。「姿形」を明確に見た、あるいは知った、という様子を表す。あるいは、知覚を伴う見方である。
 
即ち、私たちはすでに永遠の命を与えられたのであり、それことを確実に知っている、という点を強調しているように見られるのである。ただ、それはまだあなたがたは十分気づいていない。「知って欲しい」と言うのはそのためである。以下、説教者が少し触れた点を、自分なりに調べて綴ることにする。
 
19:私たちは神から出た者であり、全世界は悪い者の支配下にあることを知っています。
20:しかし、神の子が来て、真実な方を知る力を私たちに与えてくださったことを知っています。私たちは、真実な方の内に、その御子イエス・キリストの内にいるのです。この方こそ、真実の神であり、永遠の命です。
 
19節の「知っている」もまた、原語は先の「エイドー」を用いている。但し、こちらは気づいている。世界は悪の中にある。それは事実だ。だが、神の子イエスが来た。私たちは、真実なその方を「知る」力を与えた。そのことを「知ってい」る。ややこしいが、この「真実な方を知る力」というところの「知る」だけが、別の言葉となっている。「ギノースコー」である。こちらは、より「知る」のニュアンスが強い語である。そして、それは経験的なものであることを感じさせるが、様々な用途をもつ語である。
 
あなたたちは、真実な方イエスを身を以て知っている。少なくとも、いうなれば「出会い」を経験した。それを明確に、進む道の先頭として相応しい形で、信仰の先頭に立てることのできる力が、私たちには外から与えられている。そのことを身を以て知っているのだという。私たちは、そういう信仰の中にいるのである。
 
それが、真実な方キリストの内にいるということである。また、このキリストこそが、「真実の神であり、永遠の命で」あるのだという。もうネタバレ的な発言と聞こえるかもしれないが、「永遠の命」は「キリスト」だというのである。
 
説教者は、このキリストと共に歩みつつ、知り続けてゆくのがキリスト者であり、キリストの教会の姿なのだ、と指摘する。教会の中の交わりが実際に経験的なものとして営まれてゆく。
 
私たちは、この命に包まれている。命の中に置かれている。もうそれは始まっていることなのだ。私たちにはその畏れ多くも、嬉しい限りのメッセージが与えられている。イエスの言葉に、イエスの声に、導かれるならば、何も恐れる必要はないし、喜びの中にただあるということでよいのである。
 
それは、親に手をつないで歩いている小さな子どもの姿にも似ている。説教者は、誰の頭に同じ図式が思い浮かべられるようなきっかけをつくった。こういした可視化する言葉は、マルコ伝の連続講解説教でも度々あることだが、この説教者もまた、何か大きな展開をここで見せてくれたのかしら、と思う。
 
21:子たちよ、偶像から身を守りなさい。
 
ヨハネの手紙第一は、こうした奇妙な終わり方をする。ぷつんと終わっているように見えて仕方がないのだ。説教者はここに、偶像を否定することの重要性を指摘する。そんな偶像に命を預けることはできないだろう。その「偶像」とは何か、この手紙は明らかにしていない。だが、神とつながり結びつくのとは違って、その関係性を築くことのできないものであるようにも見える。恵みとして与えられるその神の業のなすままにあることによって、すでにそこに「永遠の命」があるのだ、ということなのだろう。
 
あなたはすでに命の中にいる。この確信が、聖書の読み方の土台を変えるかもしれない、と説教者は告げる。いまここに、つねにすでに、永遠の命は、イエスを通して私たちの内にいてくださるではないか。私の中の恐れも不安も、疑いも挫けた気持ちも、もう不要である。注がれている十分な恵みを、喜ぶことによって、神に感謝したい。



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