独り暮らしを始めた(5)
2026年2月23日

生活力はなかった。収入だけではない。家事だ。身の回りのことも、よくある男子の例かもしれないが、自分でやっていたわけではない。料理や洗濯、掃除という柱はもちろん、ゴミ出しから買い出し(どちらも「出し」が付くのは面白い)、銀行との契約や預け入れ、NHK、新聞の集金など(当時は一軒一軒係員が尋ねて徴収していた)、ありとあらゆる生活上の出来事が、自分でやらねばならなくなったのだ。当然、どのようにやってよいのか、経験も知識もない。
レトルトやインスタントは、その方が安く済む、という場合を除いて避けるのが基本だった。料理の知識はまるでない。たまりかねて母が手ほどきを示したが、懇切丁寧に教える時間はなかった。あとは本を読め。それで、料理本を開いてその通りにやってみるしかない。
こうしたことは、そこに楽しみを見いだしていかねば、やり続けることはできない。幸い、私はそれが幾らかできるタイプだった。うまくゆかないからと癇癪を起こして投げ出すようなことはしたくない、と思う性分だった。それに、失敗しても、敗戦処理は自分だけだ。誰にも迷惑はかけない。それぞれ経験知として――当時の言葉ならば肥やしとして――、自分のプラスになるのだ、と考えればよいではないか。
逆に、これはなかなかいい、というのができたときには、今後誰かにつくる機会があれば「使える」とほくそ笑む。ささやかな愉しみである。
洗濯は当時は二層式。これが、縁側の外に場所をとる。つまり、一間半ほどの縁側の両側に、浴室と和式トイレとがあり、浴室側に洗濯機置き場があるのだ。ということは、これらはすべてサッシの外、部屋の外。しっかりと外気の中にある。風呂上がりが寒いという話はすでに記したが、洗濯も外気の下である。
ご存じの通り、京都の冬は寒い。京の底冷えと呼ばれ、盆地故の夏冬の厳しさがある。浴室から出ると、たとえ一瞬でも、京都の冬の中を裸で歩くことになる。洗濯機の水が、洗う間にさらに冷える。それを干すのも外であるから、しばし冬の空気の中で家事をすることになる。
その向こうはブロック塀があるのだが、その手前に、不透明な波形トタンが壁になっている。その上下は空いており、風は自由に入る。その下は近所の猫が通るとき、潜ってこちらに入ることが簡単にできる。その猫の話は、またの機会に譲ろう。
石油ストーブは許されていた。いまの基準からすれば、とても許可されないのではないかと思われるが、とにかくオーケーだった。エアコンなど買えないし、買ったとしても電気代を賄えるとは思えなかった。炬燵も併用したが、これも電気代からするとやや高い印象があった。灯油は、そのときにはまだましな方だったから、冬はそれが頼りだった。やかんを置けば、湯も沸かせる。安物の大きなやかんは、麦茶を沸かすにも便利だった。余計なガス代を使わずに済む。
問題は、その灯油である。配達料金がかかるため、自分でポリタンクを提げて買いに行く。幸いなことに、比較的近くに灯油販売店があった。但し、それは坂の下だった。つまり、重い灯油を提げて、坂を登って上がることとなった。なに、若さでそれはクリアだ。
毎月の光熱費も計上して、親に報告していたわけだが、自分でも、季節ごとの光熱費の変遷を並べて学習していった。冬はどのくらい上がるのか。帰省して留守にしていたら、その分どのくらい減るのか。単に自分で使いすぎたと思ったら、翌月は減らせるように意識する。生活の上では当然のことなのだが、これを自らの痛みとして実践していった。
集金というものが当時あったことは先に述べたが、集める方も忙しいはずだけれど、短いやりとりの間に、一言二言話をしてくれることがあった。こちらが、ちょっとしたことでも声をかけると応じてくれた。私からも、できるだけ良い関係を結んでおこうと意図していたのは確かだ。
京都の人は一般に、若い学生を大切に扱ってくれる。京都市内には、大学が多い。「近くて遠い京大」などとも言われるが、各大学には地元からというよりも、全国から学生が集まってくる。いわば京都の経済は、地方の学生も大いに支えているのだ。
確かに、都意識というものはある。心の内で、よそ者を田舎者と思っていたかもしれない。しかし、学生あっての京の町ということも、基本的なスタンスだったと思う。地方の学生にも、ともかくも優しくしてくれるというのが私の印象だ。新聞の集金は新聞屋さんのおかみさんという感じの女性だったが、そんなふうに私に接してくれた。そのため、最後に引っ越して出てゆくことになったとき、心に残る学生さんでした、との言葉を受けた。たんなるお世辞では言わないことだろうと思うから、こちらも長い間ありがとうございました、と頭を下げるばかりだった。