【メッセージ】一人で一択
2026年2月22日

(申命記30:15-20, ヨハネ17:6)
私は今日、天と地をあなたがたに対する証人として呼び出し、命と死、祝福と呪いをあなたの前に置く。あなたは命を選びなさい。そうすれば、あなたもあなたの子孫も生きる。(申命記30:19)
◆受験のはなし
小学生が中学受験をするときには、基本的に親の受験だと言われます。子どもはまだ十歳近辺。いわば親の言いなりです。選択は親であり、子どもの力を見て親が決めるのが普通です。もちろん、責任は親が担うはずです。
どうかすると、物心ついた子どもが、親のそうした態度に反抗心をもつようになることがあります。あるいは、口に出せなくても、我慢している子どもの心の内に、歪みが生じます。ドラマは時々そうした様子を描くことがありますが、そんなに親を難く描かなくてもいいのに、と思うことがあります。
中学生が高校受験をするとなると、少し事情が異なります。本人の受験だからです。本人が責任感をもつということです。しかし、それは人生にとり大きな選択となります。が、大きな選択の経験は、ふつうまだありません。高校受験では、大学受験のように何度も受けることがなかなかできないので、いくら憧れの高校があったとしても、自然と安全圏を探すケースが出てきます。受ける本人は、ドキドキで、自信がもてないこともしばしばです。
そこで学校や塾の先生の言葉を信じるしかなくなるのですが、それぞれの意見が異なることがあるかもしれません。大手塾の方では豊かなデータをもっています。学校側では、内申点を握っているので、特に公立高校受験では、目も利くことでしょう。
さあ、志望校はどうであれ、受験校はどうしましょうか。最初の出願で倍率の中間発表がありますから、それを見てまたどう出るか、そこは受験生同士のかけひきのようなものが作用するかもしれません。
福岡県は、伝統的に、出身大学よりも、どの高校を出たか、が社会的に大きなウェイトを占める文化があります。もちろん高校名で人生が決まるわけではありませんが、人生を何らかの形で変えることはあるでしょう。受験校の選択は、大いに悩むところです。
受験ならずとも、人生は選択に満ちています。大学や就職も選択の必要がありますが、次第にそれは、自分が選ばれる側にあるのだ、というふうに自覚するようになるものです。自分が好きなように自由に選べるわけではありません。相手側から選ばれます。定められた通りに進むしかありません。
その次の選択は、たとえば結婚でしょうか。相手を選ぶ、という言い方は失礼かもしれませんが、恋愛対象とするかしないか、という選択はすることでしょう。また、そもそも結婚をする・しないという選択もあります。
今日は、このような「選択」について、神から突きつけられることを受け止めてみようと思います。
◆二者択一
申命記をお開きしました。この場面は、「モアブの地で、主がモーセに命じてイスラエルの人々と結んだ契約の言葉で、ホレブで結んだ契約とは別のもの」(申命記28:69)が告げられたことに始まります。契約とは言っても、細々とた律法の規定が並ぶわけではありません。いわば各論ではなく総論というところでしょうか。
ここにあるのは、一つひとつの決まりではありません。そもそも神の律法をも守ればどうなる、守らなければこうなる、というような原則が抽象的に記されているのです。
「見よ、私は今日、あなたの前に命と幸い、死と災いを置く」とモーセは主から言葉を受けました。モーセは神から言葉を受ける係です。そうして、神から受けた言葉を、そのままに民に伝えます。
「命と幸い」、それから「死と災い」。これらは、一本道に置かれているのではありません。いま、道が二つに分かれています。ここに岐路があるのです。しかし人は、どちらかの道を行くしかありません。どちらかを選ばなければならないのです。
神は、私がどちらを選ぶのか、待っています。旧約聖書には、このような二者択一の場面がときどき見られます。このような考え方は、新約聖書の終わりまで貫かれている、とも言うことができるだろうと思います。然りは然り、否は否。曖昧模糊としていてよいのではないし、どっちつかずでよいのでもありません。まして、二枚舌を使い分けることなどできません。ヤコブ書は、それを「二心」と呼んで徹底批判しました。
神の掟を守る。そちらを選ぶことが望ましい。「そうすればあなたは生きて、その数は増える」のです。それが「祝福」というものです。神はあなたを祝福するでしょう。その道の先には「命と幸い」が控えている、とも言いますが、結局その道を進むことが待たれています。
◆ひとりのあなたがいま
この申命記30章に、注目したい表現があります。もう一度読み上げてみましょう。
15:見よ、私は今日、あなたの前に命と幸い、死と災いを置く。
16:私が今日あなたに命じているとおり、あなたの神、主を愛し、その道を歩み、その戒めと掟と法を守りなさい。そうすればあなたは生きて、その数は増える。あなたの神、主は、あなたが入って所有する地であなたを祝福される。
ここでは、専ら「あなた」と名指されているのです。日本人は日常、「みんな」というぼんやりした集団の中に身を隠すことに慣れています。「みんな」がそうするから。「みんな」しているじゃないか。旧約聖書の中で、「イスラエルの全会衆」などと言っているのは嘘だ、などとしたり顔で言う人がいますが、日本人は普通に、一部の人のことを「みんな」と言っているではありませんか。
しかし、この聖書箇所では、「あなた」と一人を指しています。もはや「あなたがた」ですらありません。「あなた」と指さされた私は、ただ独りで神の前に置かれています。神の前に立たされるのです。主の前に独り立つ。もはや逃げ場すらありません。
15:見よ、私は今日、あなたの前に命と幸い、死と災いを置く。
もう一つ、気づくべき言葉があります。この岐路が示されたのは、「今日」なのでした。道の選択は、「今日」与えられました。もちろん、この契約が結ばれた当時のその日の「今日」を直接表してはいます。しかし、これを読んだ私たちにとっての「今日」は、正にいまの「今日」です。もし明日再びこれを読んだら、明日の日付がこの「今日」となります。
聖書の言葉は、常にそれを聴くときに、「今日」なのだ、それは「いま」なのだ、と突きつけてきます。これを私たちは、聖書に触れるときに、決して忘れてはなりません。
他方、モーセは次のようにも言っています。
17:しかし、もしあなたが心変わりして聞き従わず、惑わされ、他の神々にひれ伏し、仕えるならば、
18:私は今日、あなたがたに宣言する。あなたがたは必ず滅びる。ヨルダン川を渡り、入って行って所有する土地で長く生きることはできない。
心変わりした「あなた」一人に対して、滅びるのは「あなたがた」となっています。確かにこのことを、「あなたがた」に宣言しています。「他の神々にひれ伏し、仕えるならば」「あなたがたは必ず滅びる」という言葉が向けられたのは、イスラエルの民全体でした。
どこか矛盾しているように受け止めますか。私は矛盾してはいないと思います。矛盾していると見るのは、自分がこの当事者だと考えていない人の場合です。いいですか。私自身が、他の神々に仕えたのです。そして私は、「みんな」もしているということで、「みんな」の中に隠れようとしているのです。
しかし、群衆に紛れてしまおうとしても、神は私を逃しません。私が「他の神々にひれ伏し、仕える」とき、「みんな」しているじゃないか、という言い訳を、神は聞くつもりはないのだと思います。他の人々も同じようにしているならば、誰もが同じように滅びるのです。「みんな」の中に紛れたつもりになっている私もまた、そうなるのです。
◆選ぶ主体と自由
さて、いまこの言葉を受けた私たちは、人生の道で、二つの別れ道に遭遇しています。神は、一つは「命と幸い」へ続く道、もう一つは「死と災い」へ堕ちてゆく道を準備しました。さあおまえはどちらの道を選ぶのが、と待っているところです。
私の選択が、私の運命を決めます。人間が自分の生き方を選ぶ、という場面に出くわしています。ところがここに、ふと思い当たることがあります。そもそも、人間が神に関することを選ぶ、という捉え方は、適切であるのでしょうか。
あなたがたが私を選んだのではない。私があなたがたを選んだ。あなたがたが行って実を結び、その実が残るようにと、また、私の名によって願うなら、父が何でも与えてくださるようにと、私があなたがたを任命したのである。(ヨハネ15:16)
このヨハネ伝の言葉を文字通りに受け取ると、私たち人間の側には、選ぶ自由というものがないかのように見えてきます。ただ、私たちはこう思います。人は、どちらかを自由に選ぶことができる。それは、凡そ人間存在を考えるときの、基本的な見方です。私たちに自由がないのであったら、私たちは自分のしたことについて、責任を負うことができなくなります。自由にやったのでなければ、責任はここには担われないのです。
「自由」については、悩ましい議論が起こり得ます。それは、実は人類古来疑問に思ってきたことであり、決定的な解決があるわけではない問題なのです。それぞれの立場や考え方から、一定の結論はいろいろ出るものの、数学の解答のように正解があるわけではないのです。
人間が、どちらの道を選ぶか、については自由がある、と普通考えます。しかしそれは「自由」の概念のすべてではありません。これは「選択の自由」といいます。しかし、その選ぶ背景に、何かしらそう選ばせる必然的な理由がある、と考える人もいます。とくに最近は、脳科学という観点から、物質的な説明をしようとする人もいます。
他方、ここに神学が関わると、人間が道を選ぶとき、神が選ぶものを人間が選ばねばならない、という信仰的な理解も成り立ちます。そのとき、人間の自由はどうなるのでしょうか。神が決定したことに従うとなると、自由がないような気もしてきます。もしそのように思い始めると、神の意のままに救われる人と救われない人を生み出すことになりますから、それはおかしい、ということで、神は万人を救うのだ、と主張する人も出てくることになります。
しかし、自由がもしないのであれば、そこに責任というものは生じません。責任がないのならば、その行為に関して罰されることも不合理ということになります。
自由があるのか。人間は自由なのか。ひとつの存在論のような形で「自由」について論じる限り、私たちは矛盾だらけの世界を想定することになり、どう考えてよいか分からなくなるように思われます。
◆信頼
これは前提となるのですが、神は自由な選びをもっています(ローマ9:11-12)。そうでありながら、人間を完全に束縛しているわけではありません。人間にも自由は与えられています。但し、人間に与えられた自由は、好き勝手をする自由を認めさせない、神の監視下にあります。
だからと言って、もし神がすべてのことを管理し、決定してしまうのだとすると、人間には自由がないことになりますが、同時に責任も取る必要がないことになります。裁判に於いて、不幸な境遇が犯罪を生んだ、というのは一つの弁護の手段ですが、不幸な境遇にある人がすべて犯罪を犯すわけではありませんから、それは論理として普遍化することはできないでしょう。
人間は、神の定めた道を行くべきではありますが、それでもなお責任を負う、そういう存在者であると言えます。それを理論的に証明する、ということは難しいでしょう。信仰の上での出来事だということになれば、多くのキリスト者は肯いてくれるだろうとは思いますが、万人が納得することではないだろうと思います。
有名な「十戒」は、あれこれするな、という口調を多く含みますし、「〜するな」と訳して然るべき言葉なのでありますが、そこには「当然〜しないはずである」というニュアンスが隠れている、と説明する研究者が多数います。人の子の親もまた、子どもに対しては何か命令するような言い方をするしかないのですが、同様に、「するはずがないことは分かっているけれどね」という気持ちが伝わるものだと思います。このとき、子どもは親に対して、「疑っているのか」と刃向かいはしません。むしろ「信頼してもらっているんだ」という安心感を抱くのではないでしょうか。
少々能天気かもしれませんが、神が人間に信頼を寄せているのだ、と見なしてよいのではないでしょうか。あるいは、「どうかそのようにしてくれ」という願いなのかもしれませんが、何らかの信頼があるという前提を認めたいのです。親が子どもを、根っこでは信頼してこそ「そうあってほしい」と願うのと同じように。親が子どもに、要求ばかり突きつけると、反抗もされるでしょうし、息苦しくなります。子どもも、もう少し信頼してくれよ、と言いたくなるのではないでしょうか。
子どもを信頼する根柢があるからこそ、子どもの選択を自由にさせる。親が子を信頼するということです。でもまた、それはどこか心がヒヤヒヤしていることは否めません。子どもも敏感に感じ取ることでしょう。が、親が内心不安かもしれない、と知りつつも、それに決定づけられずに、親の期待というものを、自分のエネルギーにすらしようとする気持ちが働くような気がします。
そういうところに、平和な家庭がある、と言えると思うのです。神と人との間も、そういう平和があってほしいものだ、と願います。
◆出会いによって
神と人との間の信頼。口で言うのは簡単です。でも、元来神と人との間には、越えられない境界線があります。人が死ねば「神」になる、というような日本人の感覚は、聖書の世界では通用しません。神と人とは、厳しいボーダーラインが会って、それを人は絶対に越えることができません。それなのに、自分自身を神とするような錯覚をもっている者もいるわけで、それが罪の最たるものと見られることになるでしょう。
神と人とは分かたれています。だから直接的な接触はあり得ません。が、神と人との間をとりもつ存在として、神の側から遣わされたのが、イエス・キリストでした。神の子としての任務を果たし、神と人との間をつなごうとしました。その完全な成就のためには、壮絶な犠牲を伴うこととなりました。十字架で人間たちによって、無残に殺されてしまうのです。
それが目前に迫っていることを、イエス自身も自覚していた上で、イエスが心に血を流しながら祈った言葉が、ヨハネ伝にあります。そこでは、神が私たちを選んだ、という点が、見逃しそうになるほどわずかにですが、確実に触れられていました。
世から選んで私に与えてくださった人々に、私は御名を現しました。彼らはあなたのものでしたが、あなたは私に与えてくださいました。彼らはあなたの言葉を守っています。(ヨハネ17:6)
いまひとつクリアでない言い方のようで、少々むず痒い気もしますが、神の言葉を守る者を、神が選び、イエスと出会わせた、というようなことが言われています。「与えてくださいました」のところは、確かにその通りではあるのですが、いま私たちは「出会った」のように受け止めてみようかと思いました。神が、私と主イエスとを、出会わせてくださった、という様子を思い浮かべてみたいのです。
そこにあるのは、単なる因果関係ではありません。キリスト者とは、イエスに出会った者のことです。そしてイエスが、神とその人とを結びつけてくださいました。神の御名というものと、全面的な出会いを成立させてくださったのです。
聖書によると、すべての人が神から創造されました。でも人間は、神に背を向ける罪の中に歩むようになりました。その人間たちのうち、イエスと出会った者が、つまり、イエスを神が遣わした方であると信じた者が、生きるのだというのです。神の言葉の中で、生きるというのです。
◆選ぶ一択
今のような話を、肯いて聞いてくださる方がいるかと思います。キリストの信仰をお持ちの方には、通じる言葉だろうと思うのです。けれども、何を言っているか分からない、と仰る人もいるでしょう。神が人を選ぶというのが、奇妙に聞こえる人々です。人が神を選ぶのであって、現に、どの神を信じればよいか、ということで、キリスト教の話も聞いてやっているんだ、そんなふうなお気持ちではないかと思います。
それは、日本では、標準的な宗教観に基づく感想ではないかと思います。否、世界でもそういうことは元来あったことでしょう。国家が神を掲げます。時に、この方が神だ、と教えます。皇帝は神の子でありました。部族の神もまた、それを掲げることで、勇ましく戦争に行けたのです。
けれども、戦争で負けたとなると、あの神は強くなかった。今度は別の神にしよう。そのゆうにまた新たな神をつくる、ということもありました。そこまでいかなくても、私たちは、自分の言うことを聞いてくれた神を喜びます。拝んでも願いが実現しなかったら、その神は悪い神です。役に立たない神なのです。
自分の欲望を満たす神が良い神。叶えない神は駄目な神。まるで商品カタログから商品を選ぶように、神を選ぶ。それが、人類にありがちな姿勢でありました。それをこそ「信仰」と呼びました。多くの商品から、気に入ったものを選びます。つまらない商品はもう買いません。さて、次はどの神にしようかしら……。
でもまた、日本にも、村の鎮守の神があって、それを大切にしてきた歴史があります。献げ物も続けてきました。幣を向け、注連縄を巻き、信仰の対象としてきました。大昔には、「人柱」さえ埋めて、神の怒りを鎮めることもしました。
そうした「神」の前に、誰もが「一人」の人間として尊重されていたようには思えません。「みんな」は大切にされたかもしれませんが、そこに集団としてのものを守り続けてきた日本人の伝統的な考え方が潜んでいるように思えます。
聖書の神は、それとはずいぶんと違うように見えます。旧約の時代から、一人ひとりの名を呼び、神の僕として選び出し、民族を導こうとしました。イエス・キリストの新約の時代になると、ますます一人ひとりを癒やし救ってきましたが、その後いまの私たちもまた、「一人」として大切に扱われています。そのように私たちは信じています。
そしてどうであっても「あなた」を祝福する、と告げます。かと言って、私は何をしてもよい、ということでもなく、私は神に相応しく歩むと信頼されている、と感じます。イエス・キリストと出会い、イエス・キリストを通して神と結びつく絆は、そのイエスの救いの業を通して、神はこの「一人」の私をしっかりと見つめ、手を伸ばしてくださいます。
このように、一対一で向き合うのは、そこに信頼があるからです。神があなたを信頼して、見守っているのです。その上で呼びかけるのでした。「あなたは命を選びなさい」と。
「あなたは命を選びなさい」というのは、確かにひとつの「命令」です。しかし、私の自由と責任に基づいて私が受け止めた、神との約束の「証し」にもなりました。あなたにもそれが響きますか。「あなたの神、主を愛し、その声を聞いて、主に付き従いなさい」と、神は「一人」の私に向けて告げました。それは、私への信頼に溢れ、私の自由と責任を期待した中での問いかけでもありました。
「主こそあなたの命」だということが、モーセを通して投げかけられた原理でした。主からその故に、約束の土地が与えられるであろう、と言われました。そしてそこで、「長く生きることができる」という言葉を聞きました。それはまるで「神の国」のようではありませんか。「神の国」に於いて「永遠の命」を与えよう、という新約聖書の祝福が、ここに重なって聞こえてきます。もう私たちには、他を選ぶ自由はありません。なくてよいのです。他を選んだということは、自由によるのではなくて、誤った選択です。誘惑されて、流されて、間違いを選んでしまった結果なのです。私たちには、もう一択しか、道はないのです。